殖民軌道根室線を訪ねて
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 一次  地区:北海道標津郡中標津町  区間:厚床~標津~臨港/83km  軌間:762mm  動力:馬力→内燃
 二次  地区:北海道標津郡中標津町  区間:開陽~上武佐/8.8km  軌間:762mm  動力:馬力
北海道開拓民の足を担うべく開業した殖民軌道。その先陣を務めたのが根室線で、輸送量の多さから馬力を内燃動力に変えて対応したが追いつかず、結果的に省標津線の開業を待って役目を譲ることとなった。本線廃止後も一部区間が馬鉄として残存し、それぞれ風蓮線、矢臼別線、(二次)根室線、忠類線に線名を変えて活躍した。

略史

大正 3(1914) - 5/  殖民軌道 根室線(一次) 開業
昭和 3(1928) -   〃     全通
  13(1938) -   〃     廃止
19(1944) -  簡易軌道 根室線(二次)  開業
  29(1954) -   〃     廃止

路線図






廃線跡現況

A
25年9月
根室本線との接続駅となる厚床(写真A)。主要路線として貨物量も多く、省線との中継用に大きな荷扱用地が確保されていたようだ。駅を出た路線は、一旦駅前の市道(写真B)に沿って西に向かう。南側の歩道付近が軌道跡に相当すると思われる。街の外れで国道44号線と交差し、牧草地の中で徐々に北へと向きを変えると、続く天然林の中に軌道跡(写真C)を転用した未舗装路が現れる。今も馬車道を呼ばれるらしいが、根室線時代の車両は既にガソリンカーに移行していた。

B
25年9月
C
25年9月

D
25年9月
その後さらに樹林帯、牧草地内を抜け一旦舗装路(写真D)に合流するが、すぐ酪農施設(写真E)に行く手を阻まれる。この奥は大規模な天然林が横切り、中を流れる姉別川(地図F)、風蓮川共、橋梁痕の確認は難しい。

E
25年9月
F
00年0月

G
25年9月
川を越え牧草地内に抜け出ると、最初の風蓮(写真G)にたどり着く。周りに集落はなく、農産品出荷に特化された駅のようで、殖民軌道ではよく見かける光景だ。なお同駅までが、のちに開業した上風蓮線との重複区間となる。
H
25年9月
駅の北で神風蓮川を渡るが、こちらも天然林に囲まれ手が出せない。これを飛び越えた先、町道との交差部では、一部が牧草地に入るための作業道(写真H)として利用される。
I
25年9月
牧草地の先は殖民区画東二十八号線の町道(写真I)に重なる。ただ道は道道930号線に突き当たって終了し、直進する軌道側は小さな丘陵を避けるべく右に左にと屈曲しつつ北上するも、既に牧草地(写真J)として造成、整地されたため、線路跡をトレースすることは極めて難しい。途中のケネセウシュベツ川(地図K)各橋梁はアクセスする術がなく、幾度も交差する町道側も、痕跡、目印等は何ら発見できない。

J
25年9月
K
00年0月

L
25年9月
やや飛んだ先でヤウシュベツ川を越えると、下流の左岸沿に置かれた渡船場への支線が分岐する。同線は地形図に記載がないため、昭和20年代の空中写真から経路を読み取ったが、雑木林に同化した路盤(写真L)は植生の違いによる検証作業を拒否し、当然駅跡にもたどり着けない。なお同駅は渡河が目的ではなく、主に水運との客貨中継を担っていた。
M
25年9月
本線側はやがて国道243号線に近づき、一旦併走する。携帯基地局と思われるアンテナ塔の東側をすり抜けた先が矢臼別(写真M)に相当し、地形図に記載はあるものの、その精度から正確な位置は把めず、下記参考資料を頼った。駅の北には雑草に覆われた築堤(写真N)が残され、国道西側を付かず離れずで進み、ポンヤウシュベツ川を囲む天然林を抜けて国道(写真O)に再合流する。

N
25年9月
O
25年9月

P
25年9月
合流点の北方が別海の市街地で、中央を流れる西別川に市域を分断される。軌道側は同河川の手前で一旦国道から離れ、中央児童館の前(写真P)を横切る。これは国道側の移設によるもので、下流側に並んでいた旧道路橋と軌道専用橋は、共に痕跡を消している。
Q
25年9月
対岸が市街中心地域となり、ここに置かれた西別(写真Q)は西春別へ向う西別線の起点ともなっていた。地名の別海と駅名が異なるのは、途中で地名側が変更されたことによる。なお前記渡船場駅までの路線は、当線廃止後も矢臼別線と名を変え、馬力運行でしぶとく生き残った区間でもある。しかし省標津線の開業により水運利用は減衰し、その運行期間はごく短い。
R
25年9月
この先の軌道跡は道道8号線に転用されたが、後年、道路側が殖民区画の三十線に沿って直線化されたため当時の正確なルートを探し出すのは難しく、北西別(写真R)も現道道の若干東寄りだった可能性がある。小さな丘陵に合わせて屈曲を繰り返す路線は一部が農場内の通路(写真S)に変わり、一部は旧道(写真T)として放置されたままだ。以降は雑木林等に阻まれ、痕跡は消し去られる。

S
25年9月
T
25年9月

U
25年9月
やがて道道から東に離れたのち、牧草地の中に未舗装路(写真U)転用箇所も見られるが、距離は限られる。さらに橋梁痕確認が難しいポントコタン川、床丹川(地図V)を越えると、牧場への進入路に利用された軌道跡が現れ、床丹(写真W)はこの途中に設けられた。

V
00年0月
W
25年9月

X
25年9月
駅の先で道道8号線(写真X)に再合流し、しばらくは軌を一にする。中春別市街手前の春別川では道路橋西脇に木杭(写真Y)らしき残痕を認めるが、軌道橋との関連は判然としない。この先、市街中心部に置かれた中春別(写真Z)は、西方に線路を延ばす春別線の起点も兼ねていた。しかし既に道路は四車線に拡幅され、主要駅らしき面影はどこからも感じ取れない。

Y
25年9月
G
25年9月

AA
25年9月
駅の先は春別線との供用区間として進み、道道から左に外れたのちは西方を大回りする。勾配を緩和する目的と考えられ、公園として整備された区間(写真AA)には電柱が立ち並ぶ。
AB
25年9月
ここで春別線と別れた後は大きく反転して道道側に戻り、両者交錯しつつ北西を目指すも、軌道跡の多くは相変わらず牧草地(写真AB)の中に姿を隠す。この牧草地、殖民軌道とは余程相性がいいのか、当線を含め道内では同様の埋没事例を星の数ほど確認できる。だだ線路跡の特定、トレースには大きな障害となり、視認可能なだけに無念さはより大きくなる。
AC
25年9月
途中、一部で同一経路を取り、あるいは後輩のJR標津線跡と重なる区間もある。さらに川そのものが判然としないエトシナイ第三川を越えて道道と再合流し、その道路上と思われる当幌(写真AC)に至る。
AD
00年0月
星の数といえば橋梁も同様で、河川の多くが両脇を天然林、雑木林にガードされ、近づくことはもちろん遠望での確認さえ難しい流域が大半を占める。駅の北を流れる当幌川(地図AD)もやはり、架橋箇所にアプローチできなかった。
AE
25年9月
中標津市街の手前で道道に接近し併走を始める。この手前、牧場への進入路となる軌道敷(写真AE)は近年使用された形跡がなく、続くチナナ川にも橋梁の痕跡は見つけられない。
AF
25年9月
同市街地は河岸段丘の低地にあるため周囲とは落差を生じ、道道はS字カーブで勾配を緩和し、軌道側はさらに東方(写真AF)を大回りする。といっても、かなりの急勾配だった事は容易に想像がつく。この区間にはそれなりの築堤が準備されたはずだが、今はその面影すら認められない。
AG
25年9月
坂を下り終えた地点で道路上に乗り入れ、そのまま当線の中心ともいうべき中標津(写真AG)に滑り込む。計根別線の起点を兼ねるため道路脇にも広がる4線を有し、西側には機関庫や車庫等も備えた一大拠点となっていた。また当時の図面には、機関車用と貨物用2基の転車台も描かれる。
AH
25年9月
後年、省標津線が開業すると厚床から当地までの根室線はお役御免となり、以北へ向かう残存路線は新たに省線を起点とすべく、町営野球場南東の交差点から分岐(写真AH)し、市内(写真AI)を抜け、省線駅前(写真AJ)まで延伸された。しかし同区間は地図、図面等が無いため、下記参考資料等からの大雑把な把握にとどまる。

AI
25年9月
AJ
25年9月

AK
25年9月
本線側は市街地で標津川を渡ったのち、丘陵地を避けるため緩やかな屈曲を繰り返し始める。当初は道道に追従するが、やがて左手に離れ、一車線の町道に移ったのち未舗装に変わり、直後に車両通行止(写真AK)となってしまう。
AL
25年9月
ミドリ川に沿った道は緑ヶ丘森林公園内で途切れ、以降は森林地帯に紛れ込む。さらに隣接するゆめの森公園を抜けた後は道道(写真AL)に合流し、この北奥には中標津空港が広がる。海軍基地として開港し、標津線の開通に伴って短縮された当線を、さらに廃止へと追いやった施設でもある。
AM
25年9月
滑走路西端で航路と交差した後、軌道側(写真AM)は一旦道路を離れ東方に大きく迂回する。砂川渡河に伴う勾配緩和が目的と考えられるものの、その路盤は雑草、雑木に覆いつくされる。
AN
25年9月
川を渡ると再度道道(写真AN)と併走するも、その距離は短く、すぐ左手の牧草地(写真AO)に飛び込む。さらに天然林に囲まれた武佐川(地図AP)は他の河川同様、渡河部にアクセスする術はなく橋梁痕の確認は難しい。

AO
25年9月
AP
00年0月

AQ
25年9月
川を越えた軌道は殖民区画北十四号の手前で右に折れる。直後に位置したのが開陽(写真AQ)で、雑草地の中に放置された倉庫残骸が駅の存在を証明するようでもある。当線廃止後、改めて開業した第二次根室線の始発駅ともなった。駅の先、道道775号線の南奥を進む軌道は、やがて道路に接近し始め、途中のクテクンベツ川橋梁は道路橋からも望める。ただ残痕は見つけられない。
AR
25年9月
川を越えると道道(写真AR)に合流する。同所から分岐していた工場への側線(写真AS)は、十六線上に新設された道路が痕跡をかき消した。北東に向かう道道は武佐郵便局を過ぎて若干左に向きを振り、直進する軌道側はそのまま武佐神社の境内に入り込む。ここに置かれたのが中央(写真AT)で、雑草に覆われつつ転車台跡が現存する。集落の形成された地区だが、今は見る影もない。

AS
25年9月
AT
25年9月

AU
25年9月
ここで東南に向きを変え、牧草地の中を進むと線路が二手に分かれる。左に分岐し北へ向きを変える路線が本来の根室線で、直進する側が第二次根室線としての復活時に新たに延伸された区間となる。その新線側(写真AU)は分岐直後に道道775号線と合流する。
AV
25年9月
道路はT字路に突き当たって終了し、軌道はこれを突き抜けたのち左に折れ、標津線駅前の上武佐(写真AV)に至る。JR駅には駅跡を示す標示板もあるが、軌道に関しては何も記されない。ただ両駅跡共に放置状態で、当時の様子を思い浮かべることは難しい。なおここまでの第二次根室線は動力を使用せず、いわゆる馬鉄により運行されていた。
AW
25年9月
当初の根室線(写真AW)も分岐後一旦道路に合流するが、すぐ雑木林に飛び込む。この中で渡るのがイロンネベツ川(地図AX)とその支流ポンイロネベツ川で、共にアクセスは難しい。川の先は西三号に沿って北上し、道路転用は少ないものの各牧草地、農地の境界(写真AY)にあたるため、交差道路からのルート確認は比較的容易だ。

AX
00年0月
AY
25年9月

AZ
25年9月
長く直線が続いた後、南二線道路の手前で東南に向きを変える。こちらも境界の樹木帯が続き、一部に軌道の路盤跡と思われる低い築堤(写真AZ)も認められる。この先が川北の市街地となり、中ほどで左に折れると初代川北(写真BA)に到着する。軌道跡は後輩の標津線跡とほぼ重なり、今は道路に利用される。なお二代目は忠類線の起点として省線駅前に移転された。市街地を抜けた路線は、雑木林(写真BB)を過ぎて道道774号線に合流する。

BA
25年9月
BB
25年9月

BC
25年9月
道路脇と思われる北標津(写真BC)に痕跡は残らず、正確な場所の特定は難しい。ここまでは晩年の忠類線と重複し、同駅で両線が分岐した。昭和20年代の空中写真では、根室線が道路東脇、忠類線が西脇を占めていたようにも読み取れる。
BD
25年9月
その根室線は駅の先で右に大きくカーブを描き、再度東へ向きを変える。基本は牧草地内(写真BD)の通過だが、一部に道路(写真BE)への転用も確認できる。 この一画で水源地川を越え、やや広範囲の樹林帯に飛び込む。この区間は最新の航空写真でも経路を確認でき、一見作業道が続くようにもみえるが、雑草と雑木(写真BF)に邪魔され実際に立入ることは難しい。

BE
25年9月
BF
25年9月

BG
25年9月
東への路線は、オホーツク海に突き当たる手前で徐々に南へと向きを変える。途中の一部は道路転用(写真BG)されるも、続く標津川に橋梁痕は見られない。
BH
25年9月
旧版地形図や空中写真で確認する限り、標津市街では国道244号線の東を平行する町道が軌道跡(写真BH)に相当しそうだ。ただし旧防波堤の外側にあたるため若干の疑問が残り、むしろ防波堤そのものが、長く伸びる跡地を利用して建設されたと考えることも可能だ。
BI
25年9月
その防波堤が途切れた先に終点の標津(写真BI)が設けられ、当時は最も海岸線に近かったはずが、今は埋立により造成された「海の公園」が間に入る。
BJ
25年9月
殖民軌道各線別粁程表によると線路終端はさらに378m先を示し、臨港(写真BJ)と呼ばれる場所まで続いていたようだ。海産物の集積地点、あるいは海運との中継を担っていたもの考えられる。

参考資料

  1. 北海道の殖民軌道/レイルロード/今井啓輔  著

参考地形図

1/50000   厚床 [S19部修]   薫別 [S7鉄補]   標津 [S7鉄補]   姉別 [S7鉄補]   別海 [S7鉄補]
  中標津 [S7鉄補]    
1/25000   厚床 [該当無]   姉別 [該当無]   伊茶仁 [該当無]   武佐 [該当無]   奥行 [該当無]
  川北 [該当無]   標津 [該当無]   俵橋 [該当無]   中標津 [該当無]   豊原 [該当無]
  別海 [該当無]   中春別 [該当無]    

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制作公開日2025-12/11  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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