全国の中小鉄道を中心として、なんでもお気軽に記帳ください。当サイト内の間違い探しも大歓迎です。
某アーティストのコンサートにて高松を訪れる予定で、せっかくだからと観光地を探していたところ「ガソリン道」という名前を見つけ、いろいろ調べているうちにこちらに辿り着きました。廃墟・廃線・廃隧道が好きなので興味深く拝見させていただきました。塩江線跡、辿ってみたいと感じたのですが結構な長さですね。時間と体力を考えて今回は諦めますが、こちらのページの詳細なレポートで辿りたい気持ちを少しでも満たすことができました。誠にありがとうございます。
塩江温泉近くの橋やトンネルがおすすめです。路線バスも走っていますから、機会があれがぜひ訪れてみてください。
野上電気鉄道の記帳処になぜか書き込めないのでここに書かせてもらいます。今日、和歌山県の海南駅から野上電気鉄道の廃線跡の道を往復24キロジョギングしてきました。この素晴らしいコースに出会えたのは御サイトの情報のお陰です。往路は路線に忠実に国道の新道を通り、帰りは旧道で昔ながらの町並みがどこか懐かしい感じでした。旧道を走ったことで、思いがけず、2台目の車両も見ることができました。公園にあった1台目と両方拝むことができました。御サイトの情報を参考に営業当時の様子に思いを馳せながら走ることができました。ありがとうございます。
お役に立ててなりよりです。>野上電気鉄道の記帳処になぜか書き込めないので設定変更を忘れていたようで、失礼しました。早速修正しておきました。
いつも楽しみに読ませてもらっています。八千代駅跡が見つかったそうです。私有地なので2024年5月12日限定だそうです。道路沿いから見れました。八千代町西2線29号にある帯広秋葉神社の斜め向かいです。
情報提供感謝いたします。当日は無理ですが、日を改めて確認したいと考えています。なお、せっかくの写真が上下逆となっていたので、改めて添付しておきました。
初めて連絡をさせて頂きます。現在、スイッチバック関連の書籍を製作中です。その中で貴兄にご協力いただきたいことがございます。もし話だけでも聞いていただけるならメール、hidegegami@gmail.comまでご連絡をいただけると幸いです。突然のお願いで恐縮ですが、何卒宜しくお願いいたします。
声をかけていただき恐縮です。ただ当面はご依頼に協力する時間を確保することが難しそうです。悪しからずご了承ください。
お久しぶりです。前から気になってた層雲峡森林鉄道の遺構を撮影してきました。留辺志部川にある橋台です。これは層雲峡側の橋台で上川側のは確認出来ませんでした。
こちらこそご無沙汰しています。紹介いただいた橋台ですが今のところ森林鉄道にまでは手が回らず、グーグルマップで探してみましたが、まだ位置を把握できていません。いずれにしろ熊の生息域であることに間違いはなさそうですね。今年は特に多いようですから十分気を付けてください。
橋台はR39に架かる留辺志部橋から藪が薄れたこの時期なら見ることが出来ます。途切れ途切れですが築堤も確認できます。画像の赤い線に路線があり上川駅裏のヤードまで続いてます。また現在ヤードは無くなりましたがその場所には郷土資料館があり当時の森林鉄道の写真が見れますよ。
今年6月、帯広から旭川移動時に通った道です。タウシュベツと層雲峡ロープウェイは押さえましたが、林鉄は全く無警戒でした。今後も通ることがあると思いますから、頭に入れておきます。情報提供に感謝いたします。
大井駅は、今の恵那駅ロータリーではなく、駅のすこし南側の、模型屋さんのあるところあたりみたいです。岩村のおよねさんという店に写真がありました。
情報提供感謝します。現在、出先なので的確な判断ができません。遅くなりますが、9月末から10月初め頃に何らかの形でコメントいたします。よろしければその頃にまた覗いてみてください。
遅くなりました。参考資料としては紹介していませんが、鉄道史料20号/鉄道史資料保存会に同じ写真が掲載され、駅前の通りからポイントを曲がったところが大井駅前の電停、との説明が付きます。恵那市史には大井駅前西側に車庫があり、との記述があることから車庫を併設した拠点となっていたようです。また鉄道史料には大井駅構内に電気軌道敷設の件申請、大井駅構内使用敷地増加の件申請、等の文字も見えます。以上の資料から現在の駅前広場を駅跡と判断しています。なお写真右の建物が当時の「餅勘」と思われ、東対面には岩村電車の事務所がありました。これらは既に東西の市道に取り込まれたと考えますが、あくまで私的な推測です。また教示いただいた模型屋ですが、おもちゃのタグチであれば場所的にかなり無理があると考えます。
Fの件:セメント軌道は鉱山軌道と立体交差した後南へ向きを変え電線工場裏を山根地区へ。ここで多賀の太平田の山から鉄索で送られてきた石灰石をトロッコ列車に受けて日立駅前の工場へ運搬していた。杉本は鉱山の石灰山です。
情報提供感謝します。こちらもいつか辿ってみたいものです。
西長田駅や橋台を改めて見に行きたくなりました。歩けるところだけでも歩いてみたいです。ありがとうございます。
兵庫川には橋台が残っているとの話を現地で聞いています。わたしは雑草に阻まれて発見できませんでしたが、ご参考までに。
日向鋼製橋梁軌道の吊橋、行ってきました。神社の手前から小路を登っていくと路盤跡に到達しました。鋼製桁の小橋梁を下巻いて、一部崩壊路盤に気を付けながらしばらく歩くと吊橋のたもとに出ました。ケーブル、支柱、鋼製桁もしっかり残っていました。
素晴らしいです。後追いになりますが、体力を鍛えていつか再挑戦します。
地元です(*^△^*)1980年代に大須から笠松方面まで1度だけ乗りました(*^△^*)多分、地元高校生の通勤電車的機能しか無かったと思います!また、羽島高校と朝鮮学校があったので、笠松から羽島方面も混んでました!後、旧国道22号線(現県道14号線かな?)に掛かる橋桁に「お千代保稲荷参拝電車」と書かれていましたので、ご老人方は岐阜方面からこの電車で大須まで行き、そこからバスでお千代保稲荷に行かれていたのではないでしょうか?高校生が減ったり、車社会の発達で岐阜羽島駅より南部には乗降客が減ったのが原因でしょうね!写真Iの中区駅跡ですが、近くにコストコが出来たので、この200mだけが複線化されたのだと思います!近くに円空さんの記念館がありますね!
わたしも一度乗りましたが昼間のためか車内はガラガラで、4両編成の列車がなんとも無駄に感じた記憶があります。
廃線跡を楽しませていただきました。細かいところまで、正確に書かれています。新三輪、根松、大洲の駅の移転まで書かれていて、レベルの高さを感じました。浜岡町駅の西も、正確です。ありがとうございました。
できる限り正確にと心がけていますが、まだまだ再調査すべき点が多いことも自覚しています。新たな情報やお気づきの点があれば遠慮なくご指摘ください。
すぐ近くの住民です。詳しい情報お知らせいたします。
情報はここで公開して頂けるとありがたいです。
サンプルです参照ください
朝倉郡地図ですね。これは福岡県立図書館デジタルライブラリーでweb公開されています。https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100040/0054725a#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-3485%2C-359%2C13974%2C7156ウィキ以外では「筑後の貨幣と小話集」に切符の写真、「筑後の軌道2015」に当時の新聞記事が載せられています。
歴史資料館より連絡在り甘木市内の朝倉、両築路線、駅間所要時間、運賃更には朝倉周辺の環境(当時何が存在したか判明する地図がありました。両築起動は国鉄田主丸駅内で接続されています。必要でしたら画像を送ります。また甘木市内商店が列記された広告もありました。版権問題がありますので必要でしたら連絡ください。
お知らせ致します。歴史資料館から連絡がありました。残念ですが館員の方のお話具合からするとウイキペディアに書かれている資料と左程内容は変らないみたいです。寧ろウイキペディアの方が情報量が多いと感じました。両築軌道の田主丸側は久大線と接点があるようですが林田を含め田畑の区画整理が行われているので路線解読には難航が考えられます。AIを使い1961年古地図と当時の起動地図を合わせて解析を試みてみます。
AIは楽しみですね。私は最新の電子地図の上に旧版地図を重ね、さらに昭和20年代の空中写真を重ねて修正した上でトレースしています。
お知らせ致します。歴史資料館に問い合わせを致しました。地元民であった為か新設に話を聞いて頂きました。まず朝倉軌道の方は写真等資料があるようです。甘木川を鉄橋を渡っている写真等で書類を出せばWebページでも引用可能だそうです。両筑軌道の方は資料等が存在するか調べるそうです。お力添えして頂けそうなのでお知らせ致します。
参考画像
女男石駅の位置が判明し、なおかつ一度移転されたこと、北側の現夫婦石バス停付近は幅が広く列車交換可能だった可能性があること等、大変参考になりました。情報提供に感謝いたします。
参考になればと思い書きます。女男石駅は古地図ではVの分岐点の所の様に見余すが当時祖父に聞いて居た話では前回古地図で説明しました様に明治から昭和にかけて家屋が3件点在するのみの、とても寂しい山の麓だったそうです。お寺側から粗末な女男石橋を渡ると左右に小道が別れていましたが右に折れその古地図のV地点の手前からもう一本細い畔道の様なのが山手の民家の方に繋がっていますが、そこが停車場だったと聞いておりました。古い記憶で間違っていたら申し訳御座いません。
両築鉄道の改訂版拝見致しました。懐かしかったです。1961年地理院の地図で再確認しましたが当時とは道路が変化してその痕跡を今では余り見ることが出来ません。私の幼少期の写真に夫婦石に掛かっている橋で撮影した写真の後方に僅かに当時の起動跡の土手が写っているのが分かります。私は亡祖父(明治)亡父親(昭和初期)から話を聞いて居たので辛うじて幼少期の頃から知って居ましたが、2022年法要で地元に帰り古い知り合いに尋ねましたが今では当時の軌道の事を知る方は他界されて、この軌道の存在を知る人は誰も居ませんでした。残念です。この軌道の話とは別ですが女男石地区に(じょうごじ)と言う字名もかっては存在した様ですが由来も今では解りませんでした。
はじめまして。廃線跡に興味を持ち始めてからよくサイトを閲覧させていただいております。ありがとうございます。少しお聞きしたいことがありまして、こちらの方に書き込みさせていただきました。大変失礼致します。実は、今度YouTubeで江若鉄道の解説動画を投稿しようと現在制作中なのですが、概要欄(説明欄)の方にこちらのサイトのページ(江若鉄道のページ・トップページ)のリンクを貼ってもよろしいでしょうか?お手数をお掛けしますが、よろしくお願い致します。
(No.262の方の追記で大変失礼致します。)リンクについてですが、動画を制作する上での参考文献として概要欄に貼らせていただきたく思い、お聞きしました。長文失礼致します。
webに公開している以上、各ページへのリンクはご自由です。但しこちらからリンクを貼り返すことはしませんので、予めご了承ください。
ご返信いただき、ありがとうございます。リンクの件、承知致しました。動画制作の際には貴重な資料として参考にさせて頂きます。ありがとうございました!
高校、大学通学に利用していました。とても懐かしく見させていただきました。ありがとうございます。ポッポ汽車展示館を訪れ、保存されている車輌を懐かしくうれしくみることがあります。
お役に立てて何よりです。
申し訳御座いません地図の位置が間違っておりましたので訂正させて頂きます。昭和36-37年頃の時代の様子で御座います。青色が全て杉が密生していた場所緑色で囲んだ処が田畑黄緑色が20世紀梨山茶色が昭和37-38年頃の小道です(荒川神社沿いに道があります。)緑色の田畑の処に現在は国道が通っていますがその当時は家屋は全くありませんだした。ただピンク色の処に家屋があるのみでした。
地図を使ったわかり易い説明に感謝いたします。地名に関してですが、女男石が明治44年版では夫婦石と記載される等、地形図を鵜呑みにできないことがよくあります。下渕の読みも調査不足だった可能性が高そうですね。 なおNo258は257の重複と思われますので、こちらで削除させていただきます。
女男石停車場付近の思い出(昭和36から37年頃)を思い出して書きます。何か参考になればと思いました。地図を参照してください。茶色い線が元の実家跡から唯一当時、ありました山へ行く道です。それを軌道跡の赤線まで通り軌道上を歩いて緑色の畑まで祖父母や両親と弁当やアルミのやかんに麦茶を入れて一日畑ばへ連れて行かれ、私は幼かったので周辺で遊んでいました。子供ながら軌道の跡が青丸で囲んだ処が幅が大変広く感じていました。単線なのでそれから先甘木方面の軌道の跡の土手は2m有るか無いか位なのに青丸付近は倍の4m位の幅がありました。上下線の一時停車ですれ違いの為にここは2車線になっていたのかもしれません。また畑は当時、県か市が開墾の為に貸し出しをしていた畑らしく、我が家の持ち畑ではありませんでした。軌道の両側にはサツマイモやジャガイモが植えてある記憶が鮮明にあります。軌道は畑付近では緩やかに右にカーブしながらその先の背の高い杉の木立の中へ入っておりました。川辺まで行ってみていましたがその当時はまだ、畑側にはコンクリートの跡、小石原川には川の真ん中に橋脚の土台が立っていました。その先には砂利道で長谷山から上秋月の細い道路が川沿いにありました。橋脚の先には両側が田んぼで上の軌道跡の土手がまだ残っておりました。
追記軌道が走っていた朝倉郡甘木町や朝倉郡安川村、朝倉郡秋月町でしたがその後甘木市となり現在は朝倉市として市町村合併で昔の地図をこのサイトで見れて良かったです。新しい発見も3つありました。下渕(したふち)と地元では言いますが(しもふち)が正式呼称なのでしょうか?夫婦石は男女石が正式の様ですね。男岩と女岩が小石原川氾濫防止に沈められていますから。秋月の眼鏡橋は目鑑橋と書く事も勘違いしていました。
秋月から甘木までの全ての軌道(きど)と祖父は方言で言っていましたが令和になり思い出されます。少し当時の思い出を書きます。長谷山にありました製麺所の先の小高い地点に秋月駅が有った様で当時の軌道跡は農道で傾斜のある坂で左の山に火葬場があり田んぼの中を小石原川の鉄橋まで下っていたようです。その後小石原川対岸は当時は千手地区で夫婦石地区とは別でした。田んぼより一段高く軌道の土手が盛り上がっていました。そこには道もなく田んぼへの畔しかなく軌道跡を通って友達は小学校へ千手橋から更にしたの安川小学校前の橋を渡り通っておりました。安川小学校前の橋までは現在の国道の様に秋月方面から見ると緩やかな左カーブになり傾斜の付いた下りの坂で安川小学校前の橋の袂付近で小高くなっていました。それから先は小石原川沿いに左側は岩盤の山を見ながら砕石所ギリギリの軌道が安川橋まで続いておりました。昔、甘木のインテリア工業の裏手当たりに蚕工場がありそこで昭和初期に働く女工さんの通勤等に秋月からの交通手段に使われていたそうです。甘木町から秋月に向けては勾配があり雨の日には転輪が滑り砂を巻き抵抗を付けて数人で押して坂道を上ったとも話しておりました。また馬鹿な話ですが祖父が話してくれた狐が人間に化けて軌道(きど)に乗って来るとそして木の葉を化かして紙幣にして乗って来た等、昭和30年代の古き話を思い出しました。
現在でも痕跡が残る安川橋(砕石所)の小石川原沿いに軌道の跡と思われる土手が持丸を通り甘木橋付近までみられます。写真の赤線子供の頃、持丸へ住み変わり土手へ行くと祖父が軌道の跡と話しておりました。
両筑鉄道の掲載を拝見して懐かしかったです。亡き祖父が両筑鉄道の車掌(明治46年生まれ)をしていた話を子供の頃聞いておりました。住まいが夫婦石でしたので小石原川の簡易鉄橋を渡り写真Cが私の畑でしたので祖父母や両親と良く行きました。その頃はまだ、鉄道の線路がひかれた土手が小石原川の陸橋後まで残っていました周りはアヤメ畑で家屋は山すそに3件あり。1件は友人の家で現在も健在です。
訪問日が2年前の台風翌日で、午前中はまだまだ大雨と強風が吹き荒れていたため、現地で誰一人として出会うことができず、情報が全く集まりませんでした。地元の方の貴重なお話、ぜひともお聞きしたかったですね。
太平洋石炭販売輸送残念ながら2019/06/30をもって全線廃止となってしまったそうです。
残念です
安濃鉄道車庫痕に住んでいます。安濃鉄道で使用していた、井戸と物置(一部改良してますが土台はそのまま)が我が家に残っています。
これは大変貴重な情報です。写真を添付していただくことは可能でしょうか?
若松線は、昔からあったんですね!
筑豊興業鉄道として鹿児島本線に2年ほど遅れての開業ですから、全国的に見ても古参の部類に入ると思います。
北九州鉄道が唐津まで来ていたことを初めて知りました。
私鉄史ハンドブックによると東唐津までの開業が1925年6月15日、博多側の開業が1926年10月15日となっています。
いつもよく拝見し、現地を探査しております。両筑産業ですが、先日筑後川にかかる両筑橋をみていたところ、筑後川の水位が下がっており、橋のすぐ横に橋脚跡のようなものが見受けられました。当時の両筑産業の軌道跡のようです。
10m程東であれば旧道路橋と思われます。
補足です。50m程東であれば両筑軌道跡と思われます。ただし現道路橋に並行ではなく北側は50m程、南側は80m程の間隔と考えています。これは旧版地形図、あるいは1948年の空中写真を最新図に重ねることにより読み取ることができます。
東平と端出場間の索道には隧道がありました。隧道の中に索道の支柱基礎部分が残っています。
珍しいトンネルで、しかも状態は良さそうですね。探し出すには苦労しそうですが。貴重な写真感謝します。
伊勢電気鉄道跡地をめぐる記事を読ませていただきました。父の実家が、おそらく阿漕浦駅に近かったのではと思われ、父が住んでいた時にはまだ廃線にはなっていなかったと思われるのですが、父は鉄ちゃんではないので、そんなことは全然教えてくれませんでした。さて、記事の中に、三軒家駅が、地形図に記載がなかったと書かれておりましたが、「今昔マップ on the web」というサイトで、大正11年の地形図に、起債を見つけました。情報提供としてお知らせします。写真左が当時の地図、右が現行地形図で、右の真ん中の丸印のところがその地点です。※スクショを貼りますが、「今昔マップ」様の利用規定を確認し、貼ることは問題ないと確認済みです
確かにありますね。途中で廃駅となっていたことを失念し、確認不足でした。ご指摘感謝します。
路線名を書くのでしたね。間違えましたのでもう一つ投稿します。最近、秋田臨海鉄道も廃業となったようで寂しい限りです。港沿いに走る貨物列車は、もうそんなに残ってないと聞きますし、五城目の電車展示解体ともに、残念ですね
高校生の時、1983年くらいですね。弓道部にいた関係で五城目に行く機会があったのですが、バスターミナルを地元の人が皆、ゴジョウメの駅と呼んでいたのを不思議に思ってました。後ほど電車の駅だったと知りました。もう小学校の電車の展示も無くなったのですか。画像が懐かしいですね。ウェブサイト公開ありがとうございます
維持管理が大変な車両の保存は、各地で挫折しているようです。その点、特に手間暇をかける必要もない川崎のホーム跡は、長く残してほしいものです。
栃尾市の山奥出身で、幼少期は見附市に住んでいました。子供の頃、鉄橋後等を見ていて線路があったのであろうとは思ってはいたのですが、誰かに聞くことは無く長年あの風景が不思議に思っておりました。外祖母の家に行くのによく上見附車庫はよく利用しておりました。祖父母、両親共に亡くなり新潟には20年以上帰ってはおりませんが、当時の忘れていた記憶が蘇りましたありがとうございます。
子供が小さい頃自転車の補助席に乗せて鶴岡駅からスタートして、極力廃線跡を走り、サイクリングロードも抜け、終点まで着きました。ゴール付近のご褒美の足湯が最高でした…。最近も更新されているのですね。子供はもう後に乗れませんが、このページを参考にン年振りにサイクリングしたくなりました。
峠越えのサイクリングロードでは下りが楽しいですね。極力ブレーキをかけずに済めばと願っています。>最近も更新されているのですね。廃線跡も結構移り変わるもので、定期的なチェックが欠かせないと考えています。
初めまして。ここ2年程数回にわたり探索してみました。画像は次回投稿させてもらいます。現存する隧道はすべて確認しました。崖を上り藪を抜けの体力勝負でした。車が入れないサイクリングロードは自転車を使いました。次は妻線 高千穂線+未成線(高森)の探索を考えています。宮崎交通鉄道は青島駅から海岸へ出て波打ち際を内海港まで 宮崎駅から宮崎港(一ッ葉)がある裸子と聞いてます。違っていましたらごめんなさい。
トンネル全て確認ですか。素晴らしいですね。私は大隅鉄道に限定して調査したので、金浜あたりでは山腹の上方あたりにトンネルがあるかなと考えつつ、国道220号線を自転車で走り抜けました。
最後の煉瓦積の橋台(W)は、鉄道が走る前からあった道路を鉄道が走ったときに補償するために作られた道路の橋の跡です。1910年頃の古地図には、この橋が掲載されています。橋台の角度も東郷方面から南西に伸びています。若宮は南東です。北側には2つ橋台があり、橋でT字の交差点になっていたのかもしれません。地図はまた後日。また、福津市内の宮地岳線(西鉄福間〜津屋崎)の跡は少ないのですが、宮地浜のまつなが小児科前の小さな水路をまたぐところに犬釘の跡が残っています。
未成線の橋台に関して、道路橋と重なることは承知しています。1926年の地形図(直方)にも描かれていますし、1948年の空中写真から読み取ることもできます。写真の橋台を未成線の遺構として紹介したのは、鉄道ジャーナル1983年12月号津屋崎軌道と宗像郡の鉄道・軌道の内容によります。ここには西側が宮地岳線用で、東側をルート変更による不要物としています。ただし北側と南側で幅が大きく違うことは、今も疑問点として残っています。
本日偶然に「能美ふるさとミュージアム」に立ち寄った際、この地に電車が通っていたことを知って、このサイトを拝見致しました。非常に興味深く、また消えていくローカル線の多いことが悲しいです。
時代の流れには逆らえませんが、鉄道が存在した歴史は後世に伝えていきたいですね。
久しぶりに記事を拝見しましたら、直近で更新されており驚いたとともに情熱を感じ、感動いたしました。松阪の街は仕事の関係で縁があり、この廃線跡も営業当時の風景を想像しております。松電の大口線が紀勢本線をオーバーパスしていた件につきまして。私は、1931年以前はご高察のルートで平生町から大口に向かっていたものを、参宮急行鉄道による線路の敷設に伴ってやや東寄りの地点で立体交差し、国道166号付近で旧線と合流する線形で営業したのではないか、と推測しております。地元の方の証言やこの説を唱える考察記事に出会ったことはございませんが、末広町1丁目の道路をご覧いただくと軌道跡を道路に転用したと思しき地域があることにお気づきいただけると存じます。また、その遺構と考えられる構造物がグーグルストリートビューに撮影されておりましたので紹介いたします。
これ何でしょうかね。当日、踏切を迂回する際に現認しています。ただ紀勢本線のみの大正9年の地形図と、近鉄の開通した昭和12年の地形図を比較しても、大口線は同一箇所でオーバークロスしています。付け替え説は少し無理があるような気がします。
北海道に県道はありません。道道です。
ご指摘感謝します。早速訂正させていただきました。
菊電と呼ばれていた頃がすごく懐かしいです。
菊電ですか。初めて聞きました。今は菊池まで行けませんから、呼びたくても呼べませんね。
気づいたこと 賢島ー真珠港間廃止は昭和44年7月1日 路線図1969年版で 鳥羽ー中之郷間は鳥羽城跡の東側が正しい(昭和4年の開業時、用地問題で西側から東側に変更して開業、さらに昭和45年の改軌時に再度東側に移転)白木駅の位置も誤りで、開業時からほぼ現在地のまま 昭和4年発行の鉄道補入版地形図は変更が反映されていないと思われます。写真B 中之郷車庫は鳥羽車庫 写真I 賢島ー真珠港間は 廃止はされたが改軌はされ真珠港駅跡は車庫になり平成5年まで特急車両も入線していました。 地形図の扱いが良くたいへん参考になります。
ご指摘ありがとうございました。参考とさせていただきます。
頁と共に路線図を更新しました。よろしければご覧ください。
丸岡線のルートを探していて、このサイトにたどり着きました。よくわかりました。ありがとうございます。
名鉄オート勝川が名鉄勝川線の駅の跡だと聞いていましたが、ここを拝見して合点がいきました。また国道19号が勝川線の路盤を転用しているという話を40年前くらいに当時を知る老人に聞きましたが、これも納得がいきました。ちなみにその人の話によると19号の現在のルートは途中(現在の春日井市六軒屋町付近)まで勝川線延伸を予定していて用地取得もぼつぼつ進んでいたのでそれを転用した結果だということでした。本当かどうかはわかりませんが・・・
六軒屋町までの用地取得の件は初耳です。同様の例は全国にありますから、可能性は高そうですね。数年前の現地調査では、味鋺駅の直近は線路跡に住宅が建ち並び判別は容易ですが、19号線への転用区間は大きく拡幅されため、正確な線路位置の確認が取れていません。また鉄道とは関係ありませんが、ルート上にある河川同士の立体交差、これも一見の価値ありです。
拝見させていただきました。大変な作業量と思います。ありがとうございます。
確かに時間はかかります。遅々として進まずと思う時もありますが、それも含めて楽しんでやってます。
すぐ近くに住んでいます。情報を提供したいと思います。塩田町馬場下
よろしくお願いいたします。
たまに思い出すと拝見させていただいています。現在もこうして更新されて素晴らしいですね。2000年から北仙台にある職場で仕事をしていますが、仙台浅草や昔はミヤコーのバスターミナルで現在マンションが建っているあたりを毎日通りながら過去に思いをはせています。
今ではライフワークといってもいいかもしれません。皆さんの書き込みや、現地での親切な教示が原動力となっています。
大変貴重な資料読ませていただきました。fbの友人に転送掲載させてもらいました。
転送掲載の意味がよくわかりませんが、コンテンツの転載はすべてお断りしていますのでご注意ください。
Tの吉田川橋梁部ですが、左岸側(道路脇)にも草木に埋もれてますが橋台が残っていた気がします。手元に写真がないのが辛い。
18年時点では雑木と雑草により、対岸からも堤防道路上からも確認することはできませんでした。現在も残存するのであれば、いつか姿を見せる日が来るかもしれませんね。
丸い半円型の屋根の建物でバスターミナルに成り、その後製錬所の従業員の駐車場に成っている建物?この建物は、鉄道の駅舎として建てられたものですか?いつ頃、たてられたものですか?
建物は道路拡幅時に新設されたようです。空中写真で確認すると、1990年前後に建設されたように読み取れます
路線図ではオバウシナイ川を越えた所に終点平取があったことになっていますが、商工会議所はオバウシナイ川の西なので、どちらが本当でしょう??わたくしは跡地付近に住んでいましたが、幼い頃はオバウシナイ川の東(現在の森林組合〜エネオス〜空き地)のあたりに木材置き場があり、古いレール(の、一部)が落ちているのも見ました。なので、そのあたりに駅があったのかな〜と想像していたのですが…実際の駅と線路はどこにあったのか、30年間ずっと気になっています。
近くの飲食店で確認したところ、商工会から南側が駅跡と教えていただきました。かつら通りが駅前道路のようです。また1947年の空中写真を見ると、商工会からオバウシナイ川を渡って森林組合付近まで続く駅構内らしき区画を確認できます。主力の木材輸送のために東側の土場まで線路が延びていたのでしょう。従って旅客駅は川の西側、貨物駅がその両側に広がっていたと考えています。
はじめまして。いきなり不躾なお願いですが、趣味の会誌(非営利)に太平洋石炭販売輸送の頁にある地図2点(1965年/2010年)を転載させて戴きたくお願い申し上げます。路線縮小後も長く頑張ってきた太平洋石炭販売輸送も今年2019年、遂に力尽き寂しい限り、1999年2月に一度春採付近で撮影に寄りましたが再訪出来なかった事が悔やまれます。同線の記憶を忘れぬよう、貴サイトにつきましても今後も是非注視させて戴こうと思います。重ねて何卒宜しくお願いします。
鉄ッカマンさん初めまして。路線図に関してはすべての転載をお断りしています。現時点で入手可能な資料、コンテンツ等を利用すれば、誰にでも製作可能であることがその理由となります。悪しからずご了承ください。
管理人様、返事が遅くなり申し訳ありません。ご連絡、ご指摘ありがとうございます。路線図の転載禁止について拝承です。
展示会の為現地の人に聞き調べたのがあります09080044263です
中津川に住む81478と申します。北恵那鉄道拝見しました。地元で何化できないかと、北恵那鉄道「デ2」型のペーパークラフトを作りました。Webで無料公開中です。よろしかったら、作ってみてください。https://h88414.blog.fc2.com/blog-entry-5.htmlこれからも、北恵那鉄道をよろしくお願いいたします。
ブログ拝見しました。広まるといいですね。
相変わらずの「薄い記憶モノ」になりますが・・先日GYAO!で視聴した映画「夏ノ日、君ノ声」(2015)のシーンに、数年前に撤去されてしまった相良の萩間川に架かっていた橋などが映っていたので、参考キャプ画を挙げておきますね映画ロケ地が相良近辺と榛原細江近辺・榛原病院などで、地元の人には嬉しい映画かも知れません。キャプったのは、昔は榛原病院至近駅だった根松(こんまつ)駅辺りの2つと、冒頭に触れた相良の萩間川に架かっていた廃線跡の人道橋のシーンです。添付した解説用地図については【ラフな位置関係での加筆】になりますので、あまり厳密ではないかと思われます<(_ _)>
萩間川の撤去は2016年でしたか。ストリートビューで確認したら、まだ写ってますね。もう少し早く行けばよかった。
幼少期なのでかなりラフですが、慶全寺前駅のプラットフォーム遺構の段差で遊んだ記憶があります生活道路にアスファルト舗装が広まり始めた頃までは在ったと思います遺構イメージと位置関係は添付画像に…
わかり易い写真です。手間暇をおかけしたようですね。ここは旧版地図による大まかな位置の把握のみだった駅ですが、これで正確に特定することができました。感謝いたします。
メルカリ>その他>アンティーク/コレクション>雑貨懐かしの駿遠線
初めまして、静岡鉄道駿遠線のDVDがあります。8mmフィルムを落とし込んだDVD38分物です。音声は入っていません、BGMが入っています。メルカリにUPしましたので、よろしければ、見てください。雑貨で検索してみてください。
お世話になっております。安芸線の「永田(えいだ)駅」「物部川駅」「遠山駅」の情報がウィキペディア(Wikipedia)に掲載されていました。路線図の画像を添付いたします。詳細は、ウィキペディア(Wikipedia)をご覧ください。それと、また厚かましいお願いですが、こちらのサイトの「五階建てのアパートを抜けると、用水の護岸に埋め込まれた橋台も見つける。こちらはものの見事に擁壁と同化している。」のお写真がありましたら、拝見できませんでしょうか?実際に現地へ行ってみたのですが、場所が特定できませんでした。よろしくお願いいたします。
とでんさんこんにちは。ウィキペディアの紹介感謝します。橋台の件は写真を二枚添付しておきます。見つかるといいですね。
以前[B]参照地点大石田側に橋梁が存在していたようですが参考までに
今は無くなったのですね。残念です。
ご親切にありがとうございました。近いうちに、行ってみたいと思います。
先日は、失礼しました。今、私は、安芸線の企画を作成している関係で、色々と参考にさせていただいています。ありがとうございます。もう一点、修正箇所がございました。「Q」の画像(第一手結山隧道)のすぐ下の本文の「海浜学校前」の文字が「海兵学校前」になっています。それと、お構いなければ、ひとつ教えていただきたいのですが、物部川の川底には橋脚の基礎が今も姿を見せているということですが、それは、県道364号線の橋の上から確認できるのでしょうか?撮影は可能ですか?撮影は、されていませんか?お構いなかったら、見せていただけないでしょうか?よろしくお願いいたします。
まずは海浜学校前の件、感謝いたします。ボロが次々に出てきて情けない限りです。物部川は写真を添付しておきます。3年前なので記憶がはっきりしませんが、旧道路橋の痕跡もあったような気もしますから、ご注意ください。
「土佐電気鉄道 安芸線を訪ねて」を何度も懐かしく拝見しています。全長26.8qを歩いて取材・撮影されたのですね。私も、暇を見つけては休み休み「後免駅」から「安芸駅」向けて、車を止めては歩き、撮影しています。やっと、「野市駅」まできました。よく詳しく調査されたことに感服いたします。私は、子どもの頃は家が路線の近くにあり「安芸線」をよく利用しましたので、とても懐かしい思いで、いっぱいです。私も、後で得た知識ですが、「安芸線」廃止当時には、現存していなかった駅が3つありました。「後免町駅」と「立田駅」の間に「永田駅」、「日章駅」と「西野市駅」の間に「物部川駅」、「野市駅」と「古川駅」の間に「遠山駅」が存在していたそうです。それと、本サイトの「後免駅」の文字が「御免」になっている箇所がありましたので修正をされたらと存じます。次の箇所です。@「路線図」の「御免」を「後免」に、ちなみに「後免町」は正しいです。A「廃線跡現況」の(写真-A)の説明文の「御免」を「後免」に、B「廃線跡現況」の(写真-C)の説明文の「御免町」を「後免町」に、C「参考地形図」の「御免」を「後免」に。以上4箇所が、差し出がましいと思いましたが、地元の私は少し気になりましたので、ご連絡いたしました。別の話ですが、高知にはJR土讃線が走っています。高知〜香川の山間部には、路線が変更になった旧路線が何か所も残っています。
とでんさん初めまして。私は自転車で全線を回りました。ごめんなはり線の高架下はてこずりましたが、他は比較的スムーズに進みました。といっても合計で15時間ほどかかっていますが。三箇所の廃駅の件は初耳です。私も調べてみますが、新たな情報入ればまた教えてください。あと「後免」の件、恥ずかしい限りですがご指摘いただくまで全く気付きませんでした。感謝いたします。訂正次第、ここで報告させていただきます。
訂正終了しました。ご確認ください。
はじめまして。もう何度も沖縄を訪問しているのですが、沖縄軽便鉄道跡はまだ探してもいません。8月に沖縄に行きますが、ぜひさがしてみたいです。
沖縄はしばらく行ってませんし、今のところ時間が取れそうもありません。何か発見があればぜひともお知らせください。
挙母線も取り扱ってほしいですご検討をお願いします
すみません別ページに気づきませんでした…
昔のあとがのこのこっていないのがざんねです。
昔の風景が今だからがのこっいる。
車両が当時そのまま残いるのがめずらしい。
もっと跡が残ってもいいじゃないかな、
あまり後が残って無いのが残念
今ある遺構が長く残るといいですね
貴方のサイトなどを参考に初瀬側から自転車で廃線跡をめぐったのですが走り始める前に駅跡の周りを撮影していると地元の80代位のおじいさんが話しかけ来たので廃線跡事を伺うと駐車場担っている所に駅があった事や廃止後もホーム跡が残っていて逸れを見ながら小学校に通っていた事やお祭りなどで乗客が多い時は坂道を上がれず乗客が降りて押していた事も教え頂きました
80代の方から話を聴けたのはうらやましい限りです。私も手あたり次第声をかけましたが、最高齢で60代の中頃でしょうか。それも原因するのか、駅跡の正確な特定ができなかったり、国道165号線との関連が不明な箇所が残されたままです。
そのころはしったでんしゃをほどんしてたら
秋葉線が未体験ですこちこそよろしくおねがいします。
旧電車通り沿いで実家が酒屋を営んでいた者です。秋田市電の廃線跡現況でいいますとJの写真付近、草生津川と旧電車通りが交差する川の脇(土崎側)でした。その廃線跡は地元の年配者からは「旧電車通り」と呼ばれていました。旧電車通りの草生津川の橋は狭く、普通車が(当時は軽自動車がありませんでした)ギリギリどうにか通れるほどの幅で、私が子供の頃に車両通行止めの看板が置かれました。地元民の自転車や歩行者が通るだけの橋になり、ひと抱えもある太い水色の水道管が通っていたのを覚えています。亡くなった祖母が若い頃、市電に乗って土崎へ通勤していたと語っていたのを思い出します。今から22年ほど前に川幅拡張工事にひっかかり転居しました。今は昔に比べて河川敷の幅は倍ほどになっています。旧電車通りの付近の川沿いには桜並木になっており、春には流れる花びらが美しかったものです。転居前に撮った写真を写真に撮ったものがあります。桜に隠れて見えませんが上流側から旧電車通りの橋に向かって撮ったものです。
当時の話は大変貴重で、有り難いと感じます。今後も思い出したことがあれば、ぜひ教えてください。
ここにでんしゃがはしっていたのは、おどろ
モノレールが残ったのは、おどきました。
古い情報かもしれませんが、大将軍駅のあったビルは老朽化で解体され、その他の橋脚も順次撤去されている様です。手柄山公園の駅跡は整備、公開されて良かったのですが、市内の路線跡は、老朽化し危険ということで撤去やむなし、ですか。見に行かれる方は早めの訪問が良いと思います。
朝倉軌道の跡を見たいと思います、のでよろしく。
何をお手伝いしたらよいのかわかりませんが、取敢えず頑張ってくださいとだけ申し上げておきます。
僕は大分交通耶馬溪線のあとをたずねったりしゃしんをとたりして
宮崎交通鉄道のあとをみたいです。
はじめまして。佐賀電気軌道のデータ欄に「廃止:S12(1927)」が記入された。計算の誤と考えば、正確には「S12(1937)」でしょう。
ご指摘感謝します。早速訂正しておきました。
地方事務所裏駅の地方事務所は広島県の地方事務所です。正式名は広島県尾道地方事務所だったかと。路線廃止後に尾道商業高校南側に移転しました。現在は組織替えで広島県尾道地方合同庁舎と言う名前になっています。
そうですか、県の施設が近くにあったのですね。おかげでもやもやが一つ消えました。情報提供に感謝いたします。
多分、通券とは電車の乗務員用の乗車券だと思います。
笠原さんはじめまして。大量にあるということは、乗客から回収したものなのでしょうね。保存して頂いたことに感謝です。それにしても通券はかなり厳格で、顔パスを知る世代にとっては驚きです。今後も長く残され、たまには世間に顔を出すといったことも願っています。
初めまして。愛媛県新居浜市に住む笠原と申します。 私の父方の祖母の縁者が、参宮鉄道の運転手をしていたようで、私の家には、琴平参宮鉄道の大正〜昭和初期にかけての乗車券、回数券、時刻表、通券等が沢山残っています。 今日はその中の一部を画像で送らせていただきます。通券の運転手の奥村姓は祖母の旧姓です。
初めまして。非常に興味深く、Googleマップと併用しながら拝読させていただきました。甲府は貢川に住んで2年目です。昨日、草津温泉(上石田の電停跡あたりです)に行ってきて、道が変な感じになっているなぁ、、という所から廃軌道の存在を知り、こちらに辿り着きました。コジマ電気と向かいのオギノ、良く利用していますが、なんでこんなに近接して道路が2本(アルプス通りも入れると3本)並行して走っているんだろうという謎が解けました。下の、みなとさんの投稿にもありますが、写真Eの貢川橋の辺りですかね、もう今はだだっ広くなっていて、全く違いますね。アルプス通りの整備はどのようにして実現したのだろうという点も興味が出てきました。
独学猫さん初めまして。鉄道跡を利用した道路は一般的に汽車道とか電車道と呼ばれることが多いんですが、ここは廃軌道と名付けられています。他にこの呼び名を聞いたことがなく、どの様な経緯でつけられたのか今も興味を惹かれるところです。
はじめまして。 詳細なるレポート、いつも参考にさせて戴いております。 早速ですが、表題の未成区間の終点である富来駅の位置等の詳細が判明致しましたので御報告致します。 これは散策中に古老よりお聴きしたもので、該当地付近の古老お二人のお話と一致しますので間違いないものと思われます。 先ず位置ですが、当該区間のほぼ中央付近に流れております、「新富来川」の上空に相当します。 当該河川は大分銀行付近を流れております「富来川」の氾濫対策として、昭和40年前半に建設されたものの様ですが、以前は平地であり、戦後の食糧難時代はイモ畑だったとの事です。 以前は現河川の富来側の道路が集落からの里道で、駅建設後は取り付け道路をかねていた様です。 次に規模ですが、駅と言うよりも停留所に近いもので、海側の片面ホーム国東側に待合所が建っているだけだったとの事でした。ホーム富来側がスロープになっており、里道から直接ホームに出入りできる構造だった様です。また、バラストは単線幅のまま里道手前でブツギリになっていただけとのお話でしたので、延伸予定の途中駅の様相を呈していたものと思われます。 以上のお話を総合し、国東側から撮影した写真に現役時の大内停留所の画像を合成してみました。参考にして頂けましたら幸いです。
TOMさん初めまして。富来駅の情報有り難うございます。駅はほぼ完成していたのですね。これは初めて知りました、驚きです。早速現地に飛んで確認したいところですが、なかなか思うに任せません。では今後も新しい情報があれば教えてください。
下川原駅周辺の住宅地図です。今の部京橋の西側が線路だったようですね。下川原駅は青葉荘や若葉荘辺りが怪しいです。
りりたそさん、はじめまして。青葉荘は道路跡に建てられたのでしょうね。ただ路面電車ですから駅跡の特定は難しそうです。駅舎があったなら少し希望が持てるのですけど。それにしても自衛隊西の道路、広くなってますね。びっくりです。
下川原駅周辺の字図です。
はじめまして。日本語が下手のですみません。ウィキペディアより、1974.3.31を限り廃止した市電最後の営業区間は矢田町西ー昭和町と 金山橋ー沢上町ー高辻ー滝子ー市立大学病院(マップでは桜山町?)です。1973年の営業区間はこのマップより多かったと思います。
1973年路線図の件ですが、手持ちの資料を調べ直したところ「金山橋〜市立大学病院」以外にも「沢上町〜大江」「沢上町〜船方」の廃止が1774.2.15となっていました。完全に見落としていたようです。ご指摘に感謝いたします。なお訂正には少し時間が必要なため、しばらくお待ちください。
ようやく路線図の訂正が終わりました。ご確認ください。
県道24号線に戻り西に向かうと善通寺車庫前、続いてもう一駅設置れていたがこちらの駅名は不明なまま。善通寺車庫前→本郷通駅(ほんごうどおりえき)→善通寺赤門前ではないでしょうか? http://kokunai.net/tetudou/Station/index/id1:20063香川県善通寺市上吉田町5丁目
mottyanさん初めまして。紹介いただいたサイトには出典の記載がないため、確認が取れないのが残念です。書類等を明示してあれば助かるのですけどね。
初めまして。そうですか。残念です。私は幼稚園児だったので電車に乗った記憶はありますが、詳しくは覚えていません。ありがとうございました。
加美郡内の軌道跡を調べました。王城寺原駅は駅の基礎部分が今も残っています。王城寺原駅〜加美一の関間に軌道跡(当時のまま、レールが無い状態)が残っています、興味のある方には案内も可!連絡先:090 2997 4856 いつになるかわかりませんが、旧中新田駅から王城寺原駅まで軌道跡ウォーキングをやりたいと思っています。
すみません訂正です。2号機のプレートがついていますが、実際は3号機のようです。
narukoさんはじめまして。両備軽便の沿線ですね。ここは知りませんでした。情報提供に感謝します。
ご存知でしたらすみません。保存車輛はもう1カ所、福山市の新市ゴルフクラブの入口にコッペルの2号機と両デッキの客車ホハ12が置いてあります(Googleのストリートビューでも見ることができます)。昨年2月に見に行きました。野ざらしなのでかなり塗装の剥がれが目立ちますが、まあまあの保存状態ではないかと思います。
鞆鉄道を訪ねての記事に>工場を抜け県道22号線と交差したのちは一車線舗装路の南脇を進み、光小学校まで達すると校内で90度向きを変え、築堤で高度を上げながら芦田川を渡る。鷹取川を統合して河道を大きく広げ、線路付け替えの要因となった河川だが、既に橋梁の痕跡は何も残されていない。と書かれていますが、下記のページの19枚目の画像に僅かですが橋梁の痕跡が写ってます。http://harley.balcom.jp/blog_hiroshima/deadtracks/
匿名希望さんはじめましてご指摘の件ですが、まず1.写真は橋梁ではなく、それに続く築堤の一部と判断している事2.当時の鉄道施設と判断する根拠、情報を集めることができなっかった事以上の点から当サイトでの紹介を控えています何らかの確たる情報をお持ちでしたら、紹介していただけると幸いです
坂出市のホームページ「今昔写真集」の「市街展望1952年」に軌道跡が写っています。中央右の弧を描いた部分です。このころは軌道の砂利も残っていました。用水路の両端にコンクリート部も残っていました。
globaluketaさんお久しぶりです。坂出市立図書館のホームページはかなりがんばっている印象を受けます。琴参の60年史にも何枚かの写真が掲載されていますので、図書館等でご覧になることをお勧めします。今後も思い出したことがあれば、また気軽に書き込んでください。
坂出市のホームページ「今昔写真集」に坂出駅の写真があります。子供の頃の遊び場でしたので懐かしかったです。
琴参電鉄の坂出駅は、現在のコンビニの北東角と北側の道路部分にありました。小さな建物で東側に切符売り場、北側に改札口があり、建物の外、南北の道路側にも出札口がありました。琴平急行の坂出駅は、琴参電鉄の坂出駅の東側にありました。昭和23〜26年頃(子供の頃でしたの確実ではありません)、家曳きで琴参電鉄坂出駅の南に移動しました。今日はどれだけ動いたかと毎日のようにみにいったものです。移設後は活用されることもなかったように思います。うぶすな駅の南に隣接して、鉄道用地との境目も定かでないところに、火葬場がありました。露天で土に浅く穴をほっただけの粗末なものでした。薪の上に棺を置き、濡れた筵をかぶせ一晩かけて焼いていました。昭和32年1月のことです。通過する電車の乗客の目を意識しながら骨を拾った思い出は強烈なものでした。
楽しく拝見しております、ありがとうございます。誤植かと思われますので、ご確認ください。備前赤崎駅を備後赤坂駅(山陽線に現存)と表記されています。
誤った駅名が頭の中に刷り込まれていたようで、本文、路線図共に早速訂正しました。ご指摘に感謝いたします。
備前赤崎駅を備後赤坂駅(山陽線に現存)と表記されていると申し上げた件、早速のご対応ありがとうございます。しかし・・・・まだ備前が備後のままになっております。
恥ずかしい限りです。当時の地図を引っ張り出して確認したつもりなのですが、つもりのままで終わってしまったようです。早速再訂正しました。
はじめまして、西宮後と申します。当時の専用線の写真まで見付けられてお見事です。先日国立公文書館で近鉄の資料を見てこの専用線のことも調べることができました。太平洋戦争敗戦後に第二海軍航空廠が接収された際に専用線もGHQ管理下となり運行休止状態になっていたようです。後に鈴鹿市が企業誘致のため工廠跡地と軍用線の払い下げを申請した結果、昭和24年にこれが認められ旧・三菱重工三重工場跡に呉羽紡績鈴鹿工場が入りました。軍用線再利用の呉羽紡績専用線は1951(昭和26)年1月31日に大阪陸運局より新設認可されており、昭和26年には列車が走っていたという沿線のお年寄りの証言ともぴったり一致しますね。入換用のディーゼル機関車は小型の加藤製作所製10t機関車ですがDB101形DB101という近鉄の車籍も持っていました。専用線廃止時期はよく分かりませんが近鉄の社史に載っていた車両一覧でDB101は昭和32,33年頃に廃車されているようなのでこの時期に廃止されたものと思われます。
西宮後さん初めまして。戦後の所有者は呉羽紡績でしたか。沿線での聞き取り時にも呉羽紡績の名前は出ましたが、確証を得ることが出来ずモヤモヤ感が残ったままでした。国立公文書館で調査された貴重な情報の提供に感謝いたします。
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