殖民軌道久著呂線を訪ねて
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 地区:北海道川上郡標茶町  区間:塘路~川又/28.9km  軌間:762mm/単線  動力:馬力

開拓民の生活を支えるために建設された北海道の殖民軌道。この久著呂線も農林産品の搬出を担い、最後まで馬力による運行を続けたが、道路整備の進展に伴いその役目を終えている。

略史

昭和 4(1929) -  久著呂線  開業
9(1934) -     全通
40(1965) - 7/ 6     廃止

路線図



廃線跡現況

A
18年6月
塘路駅跡
昭和前半の釧網本線塘路は北側(写真A)に当線、南側に阿歴内線が乗り入れ、小さなターミナルを形成していた。しかし既に当時の活況はなく、昨今はJR路線の存続すら危ぶまれている。
B
18年6月
西に向けて出発した軌道は、しばらくの間、未舗装路(写真B)に転換される。
湿原地帯で人の手があまり入らないためか、当日は鹿と遭遇し、道路沿いには熊目撃の注意看板も立てられている。
C
18年6月
道路はそのまま釧路川(写真C)に突き当たる。軌道用の木橋、挽歌橋が架けられていた箇所で、廃止後は道路橋に架け替えられた。道端に設置された二股遺跡の案内看板も、軌道の話に触れている。
対岸には線路跡を利用した道路が続いていたはずだが、18年時点で視界に入るのは密生した草木だけだ。
D
18年6月
国道361号線と道道1060号線を使って北に迂回すると、釧路川を渡った直後に道道(写真D)と軌道のルートが一致し始める。線路跡が道路拡幅に利用されたようだ。
釧路湿原の真っただ中を走る道道は、砂利道にもかかわらず観光バスが乗り入れ、眼下の釧路川では川下りの小舟も運航されている。
E
18年6月
二本松駅跡
最初の緩やかな左カーブ地点で軌道側は西に分離し、両者が並走する。雑草に隠されてはいるが、路盤跡の低い築堤を道路側から確認することもできる。
道路が釧路川に沿って右カーブする地点から、両者はそれぞれの方向を違えて進み出す。二本松(写真E)はこの分岐点付近に置かれていたと思われるものの、地形図に記載がなく正確な位置の把握は難しい。
F
23年6月
道路と別れた直後の路盤に橋台跡(写真F)らしき痕跡を認めるが、今のところ近づくすべはなく、断定するまでには至っていない。
G
18年6月
その後は湿原内を西に進み、草木に覆われた路盤上は人の立ち入りを拒否しているようでもある。
次に線路跡を確認できるのは湿原の右岸からで、やはり砂利道(写真G)に変わった姿を現し始め、一部に舗装路も混在する。
H
18年6月
浜頭駅跡
浜頭(写真H)は、地元で牧草地に変わったとの話を聞いたものの、詳細な位置までは確認が取れない。所在地は15線となっているが、当時の15線道路はへの字に曲がり、かなり14線に近づいている。これをもとに現15号線道路のやや南方に駅が置かれていたと推測する。
I
18年6月
妙見台駅跡
駅の先でやや西寄りに向きを変え、渡辺川に沿って牧草地内を北上し、道道243号線を横切る。
起点からの距離計測により、踏切の北側が妙見台(写真I)と考えられ、ここから軌道跡を転換した17線道路が始まる。駅の住所である17線とも一致する。
J
18年6月
しかし土地に余裕のある北海道ゆえ道路転用も長くは続かず、再び牧草地(写真J)や原生林に飲み込まれてしまう。
途中の島波は周囲に集落や人家がなく、おおよその位置すら掴みきれない。
K
18年6月
また二車線道路(写真K)との合流箇所も一部にみられるが、これもごく短区間にとどまる。
痕跡の消えた中をさらに北上すると、突如として当時の路盤(写真L)が姿を現す。作業道として利用されているのか、手入れされた様子がうかがえ、そのまま民家の玄関先(写真M)を横切り、道道53号線と交差する。

L
18年6月
M
18年6月

N
18年6月
中久著呂駅跡
中久著呂(写真N)は道路を越えた農協付近に置かれていたが、駅らしき施設は何も無かったと聞いた。馬鉄でもあり、それなりのスペースさえあれば良かったのかもしれない。
O
18年6月
駅を出て数軒の家屋を抜けると再び牧草地内に入り込み、大半の痕跡は消えるが、若干の道路転用区間(写真O)も認められる。
P
23年6月
またルート上に流れる水路(写真P)は、軌道用地の転用であることを現地で確認した。昭和47年頃に開削されたそうだ。
宮城(写真Q)は中久著呂コミュニティセンター付近と考えるが、やはり地形図に記載がないため推測の域を出ず、周囲にも軌道の痕跡は認められない。
路線はその後も、牧草地内(写真R)通過と平行する村道への離合を繰り返しながら北上する。

Q
18年6月
R
18年6月

S
18年6月
川又駅跡
最後に久著呂川を渡り、終点川又(写真S)に到着する。当時の地形図を見ても近くに集落はなく、学校があった奥久著呂の一歩手前で止まっている。当然、18年時点でも近くに人家はなく、迎えてくれたのはヒグマ注意の看板だけだった。

参考資料

  1. 標茶町史通史編第二・三巻

参考地形図

1/50000   大楽毛 [S36修正]   弟子屈 [S30測量]   鶴居 [S30測量]
1/25000   中久著呂 [S32測量]   茂雪裡 [該当無]   奥久著呂 [該当無]   下久著呂 [S33測量]
  細岡 [S33測量]

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最終更新日2023-7/11  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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