簡易軌道真狩線を訪ねて
阿歴内線 居辺線 久著呂線 斜里線 仁々志別線 廃止鉄道ノート北海道 減速進行

 地区:北海道ニセコ町  区間:狩太~真狩別/13km  軌間:762mm/単線  動力:馬力→内燃

北海道の開拓を支援する目的で敷設された殖民軌道。その多くは道東、道北に偏り、道央ではかなり珍しい部類に入る。しかも当線は路線を描いた地図が無く、その経路は廃止直後の農道転用時代の地図と空中写真に頼らざるを得ない。駅に関しても同様で、殖民軌道各線別粁程表に記載された数値計測による大まかな把握にとどまる。

略史

昭和 11(1936) - 1/ 11  殖民軌道 真狩線 開業
  17(1942) -      簡易軌道に名称変更  
28(1953) - 5/ 25   〃  真狩線  廃止

路線図


廃線跡現況

A
23年6月
函館本線ニセコ駅の南西、やや離れた場所に起点の狩太(写真A)を構えていた真狩線。駅前への乗入を希望したものの、残念ながら許可は下りなかった模様だ。なお当時はJR側も町名の狩太を名乗っていたが、国定公園の指定に伴う町名変更に合わせて駅名を変更し、今や北海道を代表するリゾート地の玄関口を担っている。
B
23年6月
駅を出た車両は、いきなりの連続上り勾配で市街地まで一気に高度を上げる。最初の難所であったことは想像に難くない。その路盤は二車線道路(写真B)に転換されるものの、町はずれを大きく迂回するためか利用する車はごく少ない。
C
23年6月
市街地に入って最初の駅が富士見(写真C)で、道道66号線との交差前後に置かれていたと推測される。
D
23年6月
駅の先はニセコ町農村公園に入り込み、一旦道路転用は終了する。公園内で東に向きを変えた後は、再びルート上に二車線の舗装路が現れる。
道路上をしばらく進むと造成中の空き地(写真D)に至り、さらには樹林帯に進路をふさがれてしまう。
E
25年9月
その後は一部農地となった箇所があるものの、河川等に阻まれ線路跡を直接だどることは難しい。東進する路線はやがて国道5号線を横切り、同所西に線路跡(写真E)を利用したと思われる短い農道が現れる。
F
23年6月
航空写真を見ると、その後は路盤に沿った樹林帯が続くものの、実際にトレースすることは不可能に近い。さらにコンクリート工場を抜け、道道66号線と二度目の交差をする。ここに元町(写真F)が位置したと考えられる。
G
23年6月
駅の東側は一部が農道(写真G)として残されるが、すぐに林の中に飛び込んで行方知れずとなってしまう。廃止直後は全線に亘って道路化されていたはずが、今はその手掛かりすら見つけることができない。
H
25年9月
隣接する農地を抜けると、突然、林の中に未舗装路(写真H)が出現する。路盤を転用した道で、木立の中に点在する民家の生活道を担い、別荘地のような雰囲気も醸し出す。
I
23年6月
転用路終了後は正確なルートを把握できないまま、近藤地区の八幡宮参道を横切る。しかしこちらも雑木、雑草に覆われ、当時の面影は一切見いだせない。
この南東で町道に合流し、同所付近に置かれていたのが近藤(写真I)となる。
J
23年6月
駅の先は舗装路に転換され、やがて未舗装(写真J)に変わったのち、ニセコと真狩の町村境で途切れてしまう。軌道は境界沿いの名無川(写真K)を越えることになるが、左右両岸とも近づくことが難しく、橋梁痕の確認はあきらめざるを得ない。川の対岸には再度農道(写真L)が現れ、今回も途中から舗装路に変わる。

K
23年6月
L
23年6月

M
23年6月
冨里(写真M)はその舗装開始地点前後に設けられていた。ここから幅員は二車線に広がるものの、軌道側はすぐ舗装路から外れ、元の細道(写真N)に戻ってしまう。さらに廃屋なども横手に見ながら進むと、路面の轍が徐々に消えはじめ、そのまま藪地(写真O)に突き当たって道は終了してしまう。

N
23年6月
O
23年6月

P
23年6月
一画を抜けた先に広がるのはJAの澱粉工場(写真P)。軌道廃止後に出来た設備で、当時の線路敷をすべて飲み込んでいる。工場の東側にも少しだけ未舗装路転用があるものの、すぐ樹林帯に行く手を阻まれてしまう。
Q
23年6月
その中でゆるやかに右カーブを描く路線は、一旦道道66号線に接近したのち東西の北九線道路と交差する。苗圃(写真Q)が置かれていた可能性のある場所だが、当駅は起点からの距離が不明なため、近くに人家がある、道路に接している、といった条件で位置を推測してみた。
R
23年6月
この先は再度道路転用区間(写真R)に進む。ただ線路撤去後の路盤をそのまま利用しただけといった作業道状態で、利用頻度に応じて路面状況は変化し、砂利道として問題なく通り抜けできる箇所があれは、背丈ほどの雑草が生い茂る箇所もある。
S
23年6月
途中で南北の町道と交差する。真狩村には殖民区画に沿った道路が認められ、おそらくこれが西十一号に相当すると思われる。つぎの西十号は300間(546m)東側を平行し、この交点付近(写真S)も上記苗圃設置の条件に一致するが、やはり現地での情報収集は難しく、結果的におおよその位置すら把握できずにいる。
T
23年6月
次いで軌道跡は東西の北七線道路を横切り、と同時に未舗装から舗装路(写真T)へと昇格する。
U
23年6月
途中の真狩川、南別川共に痕跡は無く、そのまま北六線道路を越え、農協施設となった終点真狩別(写真U)に到着する。農産品輸送を主な目的としていたことが、この跡地利用からうかがい知れる。
さて、なんとも心惹かれる地名を持つ真狩村だが、殖民区画の西八号、現在の道道97号線から北を眺めると正面に女山とされる羊蹄山がそびえ、真狩神社前の北九線で東を向くと男山の尻別岳が正面に見えるという、洒落た計画によって開拓された村でもある。

参考資料

  1. 北海道鉄道跡を紀行する 続/ 堀淳一 著/北海道新聞社
  2. 真狩村史/1994年

参考地形図

1/50000   ニセコ [該当無]   留寿都 [該当無]
1/25000   ニセコ [該当無]   羊蹄山 [該当無]

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最終更新日2025-9/25  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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