名古屋鉄道八百津線/丸山水力専用鉄道を訪ねて
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 八百津線  地区:岐阜県八百津町  区間:明智~八百津/7.3km  軌間:1067mm/単線  動力:電気→内燃
 丸山水力専用鉄道  地区:  同上  区間:八百津~丸山ダム/4.5㎞程  軌間:1067mm/単線  動力:電気・内燃
国有化された太多線の残存区間を受け継いだ東美鉄道。八百津までの支線を延伸したのち名鉄に合併した。木曽川上流の丸山ダム建設時には資材運搬の専用鉄道が接続され、側線の追加などで活況を呈し、その後も観光客と中心として路線を維持したが、やがて旅客数は減少し、21世紀初頭にその役目を終えた。

略史

昭和 5(1930) - 4/ 30  東美鉄道 明智~兼山 開業
10/ 1     兼山~八百津 開業
18(1943) - 3/ 1  名古屋鉄道に合併
平成 13(2001) - 10/ 1     八百津線  廃止

路線図


廃線跡現況

A
21年4月
明智駅
広見線との接続駅明智(写真A)には、当時の発着ホームと錆付いたレールがそのまま残されている。
晩年は経費削減のため電車からレールバスに置き換えられ、線内の往復に限定運用されていた。
B
21年4月
駅を出た直後の左カーブに、橋梁跡(写真B・C)が二箇所連続する。隅に白い古タイヤが埋め込まれるのは、名鉄の廃線跡に共通した特徴だ。

北に向きを変えた路線は可児川を渡るべく徐々に高さを上げ、その築堤部には生活道を越える跨道橋の橋台(写真D)が残されている。

C
21年4月
D
21年4月

E
21年4月
さらに可児川堤防の南に、片側のみの橋台(写真E)が現存する。ここは用途を特定できないが、もしかしたら避溢橋だったのかもしれない。

F
21年4月
その北側、当線最長だった可児川の橋梁は、右岸側に橋台跡(写真F)を確認できる。川の先は放置された路盤が続き、小さな水路痕(写真G)も隠されている。ただ線路跡はすぐ一車線の舗装路に転用され、そのまま国道21号線をくぐる。同所の跨線橋は鉄道時代のままと思われる。

なお国道北側には、第二次世界大戦中に休止された東伏見(写真H)が設けられていたが、正確な位置は把みきれない。

G
21年4月
東伏見駅跡
H
21年10月

I
21年4月
道路は途中から遊歩道へと変わり、車両は通行止となる。ただこれも長くは続かす、やがて放置された路盤(写真I)が再び現れ、地元の生活道に沿って走る。
一部は藪地化するものの、作業道として利用される箇所では、三本のレールを組み合わせて桁代わりとした、珍しい橋梁痕(写真J)を見つけることができる。

藪を抜け出た直後から舗装路(写真K)が始まり、八百津線で使われていたと思われる枕木も路上に積み重ねて置かれている。

J
21年4月
K
21年4月

L
21年4月
兼山口駅跡
道路の突き当りが兼山口(写真L)で当時の駐輪場もそのままだが、さすがに自転車の姿はなく、今は資材置き場と化している。

駅を出て東海環状道の下をくぐり切通(写真M)を抜けると、山腹に沿った若干高めの路盤が続く。途中、常照寺の奥に置かれていたのが城門(写真N)となるが、やはり戦時中に休止された一群で、正確な位置はおろか駅へのアクセス路すら判然としない。

M
21年4月
城門駅跡
N
21年4月

O
21年4月
この東で県道351号線を跨ぐが(写真O)、コンクリートの跨道橋は比較的新しく、開業後一度更新されているようでもある。
P
21年4月
兼山トンネル跡
県道を越えた先には、兼山トンネル(写真P)の坑口が姿を現す。全長は二百米を越え、現地の地形からはやや予想外の長さでもある。また入り口は柵でふさがれるものの内部の漏水は少なく、状態は比較的安定している。
Q
21年4月
トンネル出口からは築堤が続き、この区間にアーチ橋(写真Q)や跨道橋(写真R)などの遺構が散見される。

次の兼山(写真S)は公園に変わり、みんなの広場との表示がある。やはり駐輪場は健在だが、自転車の利用は一切ない。

R
21年4月
兼山駅跡
S
21年4月

T
21年4月
駅の先はバラストや小さなコンクリート橋(写真T)が残された箇所、企業の駐車場に利用される箇所など、細かな変化を見せる。
さらに再び築堤上に移り、アーチ橋(写真U)、陸橋跡(写真V)と続く。路面には大きな樹木もなく、定期的に人の手が入っていることを物語っている。

U
21年4月
V
21年4月

W
21年4月
次のアーチ橋(写真W)を過ぎてからは急に藪地へと変わり、跡地を直接進むことが難しくなる。
X
21年4月
ただこれもほんの短距離で終わり、左手を走っていた県道381号線との交差部からは、二車線道路への転用が開始される。このオーバークロスに使用された橋台(写真X)が、今も片側だけ残されている。
Y
21年4月
中野駅跡
次の中野(写真Y)には痕跡がなく、送電線の鉄塔を目印とするより他ない。また周囲に人家は少なく、後継となるコミュニティバスはかなり南方の県道上を走っている。
Z
21年10月
伊岐津志駅跡
しばらく続いてきた二車線道路は、駅の先で一車線に変わる。ただ、郊外を進む一本道の様相はそのまま引き継がれている。

途中に設けらていた伊岐津志(写真Z)は戦時休止駅で、目印となる痕跡は何も見つからない。
AA
21年4月
八百津駅跡
道なりに進むと、やがて県道83号線にぶつかる。この先が終着駅の八百津(写真AA)となるが、駅跡は住宅地として細かく分割され、一時期6連のパノラマカーが乗り入れていたとは、とても信じ難い。

なお市街地とは高低差も大きく、一級河川の木曽川を挟んだ対岸に位置したことから、利用者にとって不便な場所であったことは否めない。

-丸山水力専用鉄道-

AB
21年4月
木曽川への丸山ダム建設にあたって八百津から専用鉄道が敷設され、その線路跡が一車線の県道(写真AB)として残されている。

21年時点でダムの容積を倍増する新丸山ダムの建設が開始されており、一部区間はその工事に再度活用されそうだ。
AC
21年4月
駅を出た直後にくぐる道路橋の橋台上部(写真AC)に段差が認められ、電化の際にかさ上げされた痕跡ではないかと考える。
AD
21年4月
その後は木曽川を左眼下にしつつ、かなり険しい斜面を進む。川に合わせ大きなS字カーブを描いた先に、プレートガーダー橋(写真AD)が現れる。若干の手直しを経て、道路橋として再利用されたようだ。
AE
21年4月
錦織駅跡
道路が二車線に広がり、やがて錦織(写真AE)に到着する。資材搬入の中心地区で、ここまでが電化され、以降はディーゼル車に引き継いでいた。
大きな構内を有していたと思われる跡地には、現在、公営と思われるアパート等が並んでいる。
AF
21年5月
疎水峡橋
駅の南で錦織網場跡を過ぎるとすぐ左に曲がり、小さな切通を抜けたのち木曽川を渡る。
鉄道時代の疎水峡橋(写真AF)は健在だが、当日は工事用の足場で覆われ、なんとも痛々しい姿を見せていた。新丸山ダムの建設車両通行に備えた補修かと思われる。
AG
21年5月
橋の先には、内部で分岐する珍しい構造のトンネル(写真AG)が待ち構え、分岐側の出口に設けられた発電所には、鉄道とつながる工事用インクライン(写真AH)のレールが残されている。

トンネルを抜けると道路は通行止(写真AI)になり、これも新丸山ダム建設に伴う処置との告知がある。

AH
21年5月
AI
21年5月

路線はそのまま木曽川右岸を上流に向い(写真AJ)、ダム堰堤の手前に達していた。詳細な配置は把握しきれないが、既に閉鎖されたダム事務所付近(写真AK)において、資材の積み下ろしをしていたものと思われる。

AJ
21年4月
AK
21年5月

参考資料

  1. 丸山発電所工事誌〔2〕仮設備編/関西電力 (丸山水力専用鉄道関係)

参考地形図

1/50000   美濃加茂 [S46資修]
1/25000   御嵩 [S53修正]   美濃加茂 [S53修正]

 00年当時の八百津線各駅

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制作公開日2021-11/25 
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