名古屋鉄道揖斐線を訪ねて
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 地区:岐阜県岐阜市  区間:忠節~本揖斐/18.7km  軌間:1067mm/単線  動力:電気

名古屋を中心として路線網を築く名鉄。岐阜市からも各方面に支線を延ばす中、西に向かっていたのが揖斐線で、当初は長良川に阻まれ市内に乗り入れることができなかったが、河川改修を契機にレールを延ばしてきた市内線に乗り入れ、岐阜駅前までの直通運転も開始された。しかし車社会の発展に伴って収支は悪化し、市内線と時を同じくして姿を消した。

略史

大正 3(1914) - 3/ 29  岐北軽便鉄道 忠節~北方 開業
10(1921) - 8/ 27  美濃電気鉄道に合併
昭和 3(1928) - 12/ 20      揖斐線  全通
5(1930) - 8/ 20  名古屋鉄道に合併
平成 17(2005) - 4/ 1       〃 廃止

路線図

路線変遷図

廃線跡現況

A
21年4月
初代忠節駅跡
開業時の起点となっていた初代忠節(写真A)。旧忠節橋の北詰、長良川の旧堤防脇に置かれていたが、河道の拡幅を含む大掛かりな改修時に河川内に組み込まれ、現状から場所を特定することは不可能と言わざるを得ない。
B
21年4月
二代目忠節駅跡
長良川に土地を譲った始発駅は、新たに架橋された現忠節橋のたもと近くに移動した。その二代目忠節(写真B)も今は区画が細分化され、やはり正確な位置の特定は難しい。
C
21年4月
駅の西側にも住宅が建ち並び、線路跡を直接トレースすることはできない。しかし数区画を抜けたのちに現れる一車線の舗装路(写真C)が、開業時のルートに一致する。線路跡の転用と考えてよさそうだ。
D
21年4月
初代近ノ島駅跡
道なりに進み、ゆるやかなS字カーブの終了地点が初代近ノ島(写真D)となる。しかし廃止からの年月が長期に及ぶことから、地元で情報を得ることができず、旧版地形図によりおおよその位置を判断するにとどめた。
E
21年4月
道路が突き当たって終了(写真E)すると、北側から接近してきた新線と合流する。写真左手の白い二階建住宅二棟が新線跡で、右手道路が旧線となる。
F
21年3月
三代目忠節駅跡
新線は忠節橋を渡ってきた市内線と連絡すべく北側に移設された路線で、接続駅として三代目忠節(写真F)が設けられた。
その構内は駅ビルを含めてスーパーへと切り替わり、鉄道を連想させるものは何ひとつ残されていない。あえて挙げれば、道路向かいに残されたタクシー乗り場が、今も忠節駅前営業所を名乗ることぐらいか。
G
21年3月
西へと続く線路跡の大半には新しい建売住宅が並び、空き地(写真G)のまま残された箇所は少数派となっている。二代目近ノ島(写真H)もアパートが建てられ、鉄道の雰囲気は伝わってこない。

駅を過ぎ、徐々に未利用地(写真I)が増えはじめると、左手から旧線が近づき合流する。

H
21年3月
二代目近ノ島駅跡
I
21年3月

J
21年3月
両線合流後も引き続き北西へと向かう路線だが、岐阜環状道と呼ばれる県道77号線と交差したのちは、空き地として放置される区間が続く。この中に初の遺構ともいえる石積橋台(写真J)を見つけることができる。
K
21年3月
さらに煉瓦積の橋台(写真K)が続き、名鉄廃線跡の特徴でもある、白い古タイヤが四隅に埋め込まれている。

続いて現れるのがホーム跡。路線に先立って廃止された萱場(写真L)で、低床ホームに近い高さと石積構造は歴史の流れを感じるには充分だ。
駅の東にも橋台(写真M)が残され、こちらは煉瓦造となっている。

L
21年3月
萱場駅跡
M
21年3月

N
21年3月
旦ノ島駅跡
やはりホームが現存する旦ノ島(写真N)では、一部にバラストも顔を出し、レールと枕木さえあればいつでも復活できるような雰囲気がある。

西方の伊自良川へは築堤(写真O)で高度を上げ、一部にソーラー発電パネルが並ぶ。川に架かる橋梁は既に撤去され、対岸の築堤(写真P)も取り崩されて更地に変わっている。ここは第二次世界大戦中に休止となり、そのまま廃止された尻毛橋の置かれていた場所でもある。

O
21年3月
尻毛橋駅跡
P
21年3月

再び平地に降りた矢先、今度は用水路を横切る(写真Q)。コンクリート製の溝橋で、水路の改修に合わせて新調された可能性が高い。尻毛(写真R)にも相対式ホームが残り、今なお駅跡の雰囲気は強い。ユニークな駅名だが、湿気が多いことから付いた地名に由来するようだ。

Q
21年3月
尻毛駅跡
R
21年3月

S
21年3月
根尾川橋梁跡
駅の西を流れる根尾川では片岸に橋台(写真S)を確認できる。一級河川の表示があるものの川幅は狭く、揖斐川にそそぐ同名河川とは大きく印象が異なる。
この川に由来すると思われる川部橋は、戦中に休止された駅群に含まれ、今では何一つ痕跡を見つけることができない。

さらに小さな橋梁跡(写真T)、水路跡(写真U)と連続し、四隅に古タイヤが埋め込まれるのも相変わらずである。

T
21年3月
U
21年3月

V
21年3月
又丸駅跡
又丸(写真V)ではホーム部を避け、線路側に太陽光パネルが並ぶ。

北方町に入ると駅間距離が短くなり、北方東口(写真W)北方千歳町(写真X)と連続する。開業時は途中に新町も置かれていたが、あまりにも近すぎるためか、大正12年の岐阜県管内里程表では早々に名前が消えている。

W
08年7月
北方東口駅跡
北方千歳町駅跡
X
08年7月

Y
21年3月
小橋梁跡
またワンスパンの小橋梁跡(写真Y・Z)も定期的に出現し、コンクリート製かと思えば下部が石積だったり等、細かな違いも見て取れる。

当初の終点で、且つ主要駅の美濃北方(写真AA)には相対式ホームが残され、市街地中心にもかかわらず、いまだ跡地の利用方法を模索しているようでもある。

Z
21年3月
小橋梁跡
美濃北方駅跡
AA
08年7月

AB
08年7月
駅を出ると糸貫川に向かって築堤で徐々に高度を上げる。橋梁は撤去されたが、両岸に設けられた跨道橋(写真AB)はその形状が酷似し、河川を中心にシンメトリーな姿を見せている。
AC
21年3月
八ッ又駅跡
川を渡った後も築堤は続き、一部にバラストや枕木も放置されている。この区間に設けられていたのが八ッ又(写真AC)で、やはり戦中に休止された駅群に含まれ、痕跡は探し出せなかった。
AD
08年7月
県道23号線交差部
駅の西で、今度は県道23号線(写真AD)と樽見鉄道(写真AE)を立て続けに越える。しばらく原形をとどめていた両陸橋も、21年時点ではすでに跡形もなく消え去っている。
この立体交差、下を通過する両者が後発であるにもかかわらず、なぜか先発の揖斐線側が築堤を大きく嵩上げして対応したと考えられる。
AE
08年7月
樽見線交差部
交差を過ぎ、再び地上に降りた線路跡には怒涛ともいえる小橋梁跡(写真AF・AG・AH・AI・AJ・AK)が待ち構え、一部に太陽光パネルも復活する。

AF
21年3月
小橋梁跡
AG
21年3月

AH
21年3月
小橋梁跡
AI
21年3月

AJ
21年3月
小橋梁跡
AK
21年3月

AL
08年7月
真桑駅跡
そんな中、一息つけるのが真桑(写真AL)で、久々にホーム跡と対面することができる。隣接するバス停用に供するためなのか、屋根付きの駐輪場も健在だ。

しかしその後も橋梁(写真AM・AN・AO・AP・AQ・AR)は続き、若干スパンに変化があるものの、やはりその数には圧倒される。
水はけが悪いとの話から、排水路が多いのかもしれない。

AM
21年3月
小橋梁跡
AN
21年3月

AO
08年7月
小橋梁跡
AP
08年7月

AQ
21年3月
小橋梁跡
AR
21年3月

AS
21年3月
政田駅跡
工事中の東海環状道をくぐると政田(写真AS)に到着する。相対式ホームは、列車の対向が可能だったことを物語っている。
AT
08年7月
北西に向きを変えた路線はさらに数箇所の橋梁(写真AT・AU・AV)を通過したのち、揖斐川水系の根尾川を越えるため築堤で徐々にその高度を上げていく。

AU
21年3月
水路跡
AV
21年3月

AW
21年3月
線路跡には思い出したように太陽光パネルが並び、川の手前では跨道橋の橋台(写真AW)も姿を見せている。

根尾川橋梁(写真AX)に関しては橋台を含め一切の痕跡はない。災害時の被害拡大を考慮してか、不要となった長大鉄橋は比較的早めに撤去が完了するようだ。
また川の右岸に設置されていた下方(写真AY)は、中途半端なホ-ム残骸と築堤下からアクセスする細道が残されている。

AX
08年7月
根尾川橋梁跡
下方駅跡
AY
08年7月

AZ
08年7月
駅を出ると、ゆるやかにカーブする築堤(写真AZ)で順次高さを下げ、地上に降りた直後には、当然のごとくワンスパンの橋梁痕(写真BA)が待ち構える。

そのまましばらく北上すると相羽(写真BB)に至る。ここもホームが残され、駅跡の雰囲気が色濃く漂っている。

BA
21年3月
相羽駅跡
BB
08年7月

さらに三箇所の水路(写真BC・BD・BE)を越えた先に駐車場(写真BF)が現れる。岐阜市街を抜けて以降、ソーラー発電用地を除き久々の跡地転用でもある。

BC
21年3月
BD
08年7月

BE
21年3月
BF
08年7月

BG
08年7月
黒野駅跡
駐車場の西方に設けられていたのが谷汲線との分岐駅黒野(写真BG)で、鉄道廃止後はレールパークとして公園化され、家族連れには特に人気が高い。
BH
08年7月
三水川橋梁跡
谷汲線は右カーブで北に向かうが、揖斐線側は真っすぐ西に進み、まず三水川をスルーガーダー橋(写真BH)で渡る。当線では唯一と思われる構造で、桁下高を確保し小型船舶の運行に対応する目的だったのかもしれない。
なお銘板には1974と印され途中で換装されたとわかるが、以前の形状にも興味がわく。
BI
21年3月
川を越え堤防からの下り勾配が終わると、直後に小橋梁の橋台(写真BI)が見つかる。これほど数が多いと、やや食傷気味になってくるが、周囲には田園風景が広がり、線路脇の水路に蛍が飛び交う川と表示されるなど、のどかな雰囲気がマイナス面をおぎなってくれる。
BJ
21年5月
麻生駅跡
路盤は相変わらず放置状態が続くものの藪地化はせず、定期的な管理が実施されているようだ。

戦中に休止された麻生(写真BJ)に目印はなく、地形図からおおよその位置を把握するにとどめた。
BK
01年01月
ほぼ真西に進むルート上には、まさに尽きることを知らないかのごとく、橋梁痕(写真BK・BL・BM)だけが次々と現れる。

BL
21年3月
水路跡
BM
21年3月

BN
21年3月
中之元駅跡
次の中之元(写真BN)は、残されたホーム跡がその位置を教えてくれる。

駅西方の水路跡(写真BO・BP)では橋台に埋め込まれたレールが桁の代用となっている。同様の例は他社にもみられるが、なぜ線路の片側だけに用いられたのか、小さな疑問点が残されてしまった。

BO
21年3月
水路跡
BP
21年3月

BQ
21年3月
水路を横切るには開放型の橋梁だけではなく、コンクリート一体型の溝橋(写真BQ・BR)も使われている。路線が開通した大正期にはあまり見られない鋭角での交差箇所もあり、おそらく水路側の改修に合わせ新設されたものと思われる。

さらに、一見しただけでは構造をよくのみ込めない水路橋二箇所を通過し、清水(写真BS)に滑り込む。跡地は駐車場兼用の広場となり、鉄道時代の痕跡はきれいに消されている。

BR
21年3月
清水駅跡
BS
21年3月

BT
21年3月
駅の西で向きをやや北に振り、清水小学校の南縁を走る。ここで大きな斜角のついた橋台(写真BT)を越えると、その先は線路跡を転用した道路の建設中だ。
その工事区間に設けられていたのが、やはり戦中に休止された八丈岩(写真BU)で、ホームが北側にあったこと、ここから西は複線用の用地が確保されていたこと、等の話を地元で聞いた。

線路跡はその後、一旦国道303号線に合流するがすぐに分離し、一車線の生活道(写真BV)として転用されはじめる。

BU
21年3月
八丈岩駅跡
BV
21年3月

BW
21年3月
本揖斐駅跡
道路上をしばらく進むと途中で二車線に広がり、そのまま終点本揖斐(写真BW)に到着する。
跡地の大半は駐車場に変わり、駅前の商業ビルも消え去り、町の玄関口としての面影を探す術はどこにも残されていない。

参考地形図

1/50000   大垣 [S34資修]   岐阜 [S7三修]
1/25000   北方 [S5鉄補/S22二修/S63修正]   池野 [S63修正]   岐阜北部 [T9測図/S62修正]

 94年当時の各駅

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制作公開日2021-5/14 
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