名古屋鉄道谷汲線を訪ねて
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 地区:岐阜県揖斐川町  区間:黒野~谷汲/11.2km  軌間:1067mm/単線  動力:電気

谷汲さんとして親しまれる華厳寺。その参拝客輸送を大きな目的として開業した谷汲鉄道だが、行事の有無によって業績は大きく左右された。名古屋鉄道に合併しかろうじて路線を保ってきたが、一向に好転の兆しはなく、21世紀初頭にその役目を終えた。代替の路線バスすらないことが、その需要の少なさを物語っている。

略史

大正 15(1926) - 4/ 6  谷汲鉄道 開業
昭和 19(1944) - 3/ 1  名古屋鉄道に合併
平成 13(2001) - 10/ 1      谷汲線  廃止

路線図



廃線跡現況

黒野駅跡
A
08年5月
揖斐線との分岐点になる黒野(写真A)。構内は公園として整備され、休日には大勢の家族連れでにぎわっている。駅舎も改修の上、黒野駅ミュージアムとして活用されている。

駅を出ると大きな右カーブ(写真B)で向きを北に変える。しばらく放置されていた路盤は遊歩道への整備が進み、カーブ終了地点にあった橋梁跡(写真C)もすでに姿を消した。歩行者と自転車を区分けした専用道だが、交差点毎に設置された車止の樹脂ポールに、緊急車両は押して通れと書かれているのが面白い。

B
08年5月
C
08年5月

黒野西口駅跡
D
21年4月
道なりに進むと幅員に若干の広がりが出る。昭和後期に廃止となった黒野西口(写真D)の駅跡だ。続く小橋梁(写真E)も撤去され、現在は暗渠の工事中なのか、かなり深く掘り返されている。
黒野北口(写真F)は遊歩道化の真っ最中で、大きな重機が居座っている。

E
08年5月
F
08年5月

G
21年3月
その後は市街地の中に路盤が続くものの、特に再利用される様子はなく、小さな水路跡(写真G・H)もしっかり残されている。

豊木(写真I)には当時のホームが残り、いまだに駅跡の雰囲気を漂わせている。

H
21年3月
I
08年5月
豊木駅跡

J
21年3月
ルート沿いでは至る所に境界杭が見つかり、放置された勾配票やキロポスト、あるいは水路遺構(写真J)もかなりの数にのぼる。

次の二代目稲富(写真K)は現存するホーム下に水路が横切り、北側には、斜めに流れる水路用のコンクリート橋(写真L)が見つかる。また東側を走る県道から、駅への細い進入路も残されたままだ。

二代目稲富駅跡
K
08年5月
L
21年7月

なお下記参考資料によると、初代稲富(写真M)は県道265号線の北側に設けられたと記載されている。移転の理由は定かでないが、列車の対向を可能にするため、用地に余裕のある場所までスライドさせたとも考えられる。さらに初代駅の北にも、斜角を持つコンクリート橋(写真N)を確認できる。

初代稲富駅跡
M
21年3月
N
21年3月

O
21年3月
線路跡の管理状態は比較的良好で、歩行可能な区間が大半を占めるが、東宮神社まで進むと初の藪地(写真O)に道をふさがれてしまう。ただこれも長くは続かず、すぐ先には更地(写真P)の構内が広がる。ここは相対式ホームが今も健在だ。

さらに北上すると、町道脇の用水路に橋梁痕(写真Q)を認める。

更地駅跡
P
08年5月
Q
08年5月

R
21年3月
一部にバラストの残された路盤は、小さな峠を目指してゆるやかな上り坂で進み、途中には農業用の水路跡(写真R・S・T)を複数確認することができる。四隅に埋め込まれた白い古タイヤが目印となり、別途踏切関係の基礎も散見される。

S
21年3月
T
21年3月

U
21年3月
上り坂を終え線路が平坦になった直後、またもや小橋梁(写真U)を確認する。この北側にあったのが昭和時代に廃止された八王子坂(写真V)で、痕跡は見つけられないが、並行する道路に接する形でホームが延びていたようだ。

サミットを過ぎて下り坂に変わると、線路跡は県道255号線(写真W)の拡幅に利用されはじめる。一般道への転用はここが初となる。

八王子坂駅跡
V
21年7月
W
21年3月

二代目北野畑駅跡
X
08年5月
路線のほぼ中央に位置し、最後まで列車交換駅として残った北野畑(写真X)。大きな構内の中心に島式ホームを見つけることができる。但し、この駅は石灰鉱山の操業開始に合わせて東側に平行移動された二代目で、初代駅は鉱山敷地内に取り込まれてしまったようだ。

線路跡の道路転用はここで終了し、再び県道脇を併走(写真Y)し始める。左に続き右カーブで大きく反転したのち県道と分離するが、同所の道路橋横に鉄道用の橋台(写真Z)が残されている。

Y
08年5月
Z
08年5月

AA
21年3月
その後しばらくは農地の中を進み、二箇所のコンクリート橋(写真AA・AB)上を通過する。
続く町道との踏切を越えると、赤石(写真AC)に到着する。ホーム跡らしき盛り上がりも認められるが、擁壁は既に撤去されている。

AB
21年3月
AC
08年5月
赤石駅跡

AD
08年5月
駅を出ると右手から県道40号線が近づき、線路跡はこの拡幅に利用されはじめる。ただその距離は短く、ゆっくりと西に向きを変えた地点で道路を横切り、そのまま菅瀬川を渡る。
21年時点で両岸に橋台が残るものの、左岸側(写真AD)は草木に覆われて姿を隠している。
長瀬駅跡
AE
08年5月
川の先は放置された路盤が農地内に続き、次の長瀬(写真AE)も更地のままだ。駅前にあった駐輪場のみ残されるが、近くに代替のバス停もなくその使途は不明。

さらに駅の北方には、暗渠と呼びたくなるようなコンクリート橋(写真AF・AG)が連続する。

AF
21年3月
AG
21年3月

長瀬茶所駅跡
AH
21年3月
その後、路線は一車線の舗装路に転換され、標識はないものの、車の進入を阻む細いポールが立てられている。

昭和中期に廃止となった長瀬茶所(写真AH)はこの区間に置かれ、平行する県道側からの細い進入路も残されている。国宝を抱えた由緒ある寺院への参拝者向けにつくられたと聞いたが、既に廃寺となり、駅と同様今は跡形もない。

AI
21年3月
また至るところに水路が張り巡らされるため、道路用に改修された水路跡や橋梁(写真AI)も認められる。
転用道路は県道40号線との交差点で終了し、同所の側溝にも橋台(写真AJ)が残されていたが、ここは道路整備に伴って撤去されたようだ。

以後は農道のような形で未舗装路(写真AK)として西に向かう。

AJ
08年5月
AK
21年3月

AL
21年3月
一部にはバラストも残され、相変わらず小さな水路跡(写真AL・AM)が頻繁に表れる。

次の結城(写真AN)は結城神社社務所の北側に設けられていたが、ここも路線に先立つ平成初期に廃止されている。平行する県道には代替バス用と考えられる停車帯が確保されるものの、21年時点でバス停の設置はない。

AM
21年3月
AN
21年5月
結城駅跡

さらに車が走行できるように改修された水路跡(写真AO)を過ぎ、そのまま県道沿いの民家奥を走り抜けて終点谷汲(写真AP)へ滑り込む。
駅全体が保存され、各線に置かれた二両の車両は、今にも乗客を乗せて走りだしそうな雰囲気すら感じられる。

AO
21年3月
AP
08年5月
谷汲駅跡

参考資料

  1. 谷汲線/大島一朗 著/岐阜新聞社

参考地形図

1/50000   谷汲 [S24応修]   大垣 [S2鉄補/S34資修]
1/25000   谷汲 [H12修正]   美濃神海 [S34資修]   北方 [S5鉄補/S63修正]

 94年当時の各駅

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制作公開日2021-7/26  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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