佐野鉄道廃止区間を訪ねて
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 地区:栃木県佐野市  廃止区間:吉水〜越名8.7km  軌間:1067mm単線  動力:馬力→蒸気

栃木県の南西部、三峰山で産出される良質な石灰。東に位置する栃木河岸へは鍋山軌道が搬送し、南方の越名河岸までは当線が輸送を担っていた。開業時は馬車鉄道だが当初から蒸気動力化を考慮しており、比較的早い時期に変更されている。途中で両毛線にも接続し、舟運と官設鉄道の両者に受け渡す体制を取っていたが、東武線の延伸後は大半がそのまま直通することとなり、河岸につながる区間は早々に廃止されてしまった。

略史

明治 22(1889) - 6/ 23  安蘇馬車鉄道  開業
26(1893) - 5/ 1  佐野鉄道に改称
27(1894) - 3/ 20    〃  蒸気動力化
45(1912) - 3/ 30  東武鉄道に合併
大正 6(1917) - 2/ 16      佐野〜越名 廃止

路線図

路線変遷図



廃線跡現況

A 開業当初の旧線は、秋山川に架かる第三号橋梁の東側で現線と別れる。ちょうど佐野変電所(写真A)のあたりから、急カーブで南に向かうことになる。

そのまま市街地に飛び込むが、廃止後は一旦農地に戻されたようで、痕跡は完全に消されている。途中の朱雀も地形図に記載がなく、地理的条件を考慮し、朱雀中央公園の東方、二軒のクリニックが建ち並ぶ付近かと想像するのみだ。現地での聞き込みもまったく成果が上がらない。
17年03月
現線との接続駅佐野連絡所付近(写真B)は、県道237号線が線路跡の一部を利用している可能性もある。

この先は築堤で一気に高度を上げ、第5号橋梁と呼ばれた跨線橋で両毛線をオーバークロスする。
B
17年03月
C 佐野町駅跡 交差後は、左カーブで向きを東へと変えつつ築堤を駆け下り、今はビジネスホテル等に利用された佐野町(写真C)に達する。ここでようやく、地元の教示を得ることができた。

駅を出た路線はゆるやかな右カーブを描き、現佐野線との交差後はほぼ一直線で南東に向かう。旧線と現線を結んだ二本の連絡線も、既に役目を終えている。その連絡線を含めた線路跡は全て市街地に飲み込まれ、直接たどることは不可能といわざるを得ない。
17年03月
痕跡の消えた中を進み、県道9号線沿いのホームセンター内を抜けると、やがて東西に走る県道270号線を横切る。ここに鉄道用地に沿ったと思われる宅地の境界線(写真D)を認め、ある程度の幅が確保されていることから、高萩が置かれていた可能性も考えられる。ちょうど高萩町バス停の北側にあたる。

なお現地では、佐野鉄道跡であることを肯定する話と、少し西の旧道に近い付近を走っていたとの、異なる情報を得た。
D
17年03月
E 引き続き住宅地を南西に向かい、国道50号線との交差後に越名町の集落に入ると、旧道の東方に跡地に沿ったと思われる農地(写真E)と、民家のブロック塀を見つける。
17年03月
一本南の道路沿いにも、同じく、鉄道用地に沿って建てられたと思われるブロック塀と、それに続く境界線(写真F)を確認する。昭和20年代の空中写真で、それらしき区画を確認できる箇所でもある。

その後再び農地や駐車場内を通り抜け、一旦生活道に合流するも、すぐに分離する。越名児童遊園地の復元図によると、その分離地点に「上の駅」が描かれるが、これが正式な駅名なのか確認は取れていない。
F
17年03月

ここから南側は、かなり長い期間路盤が残されていた、と地元で聞いた。その名残なのか、線路跡に沿って地割りされた農地が、今も二箇所(写真G・H)残されている。

G H
19年10月 18年09月

I 越名河岸に接続する終点の越名(写真I)は、川に向かって何本もの側線を広げていたようだ。

旧版地形図はここを「こえな」と記し、上記復元図では「下の駅」とする。かなり離れているものの、上と下の乗り場二箇所が、同一の駅構内として扱われていた可能性も考えられる。
17年03月

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻647号/葛生地区を中心とした産業と東武鉄道/大町雅美 著

参考地形図

1/50000   古河 [M40測図]
1/25000   佐野 [該当無]

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最終更新日2020-7/8 
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