東武鉄道伊香保線を訪ねて
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 地区:群馬県渋川市  区間:渋川~伊香保/12.6km  軌間:1067mm/単線  動力:電気

日本に鉄道が開業して20数年が過ぎ、未だ官設鉄道の恩恵に浴せない群馬県の北毛地区。地元有志によりまず馬車鉄道の高崎線が開業し、渋川を中心に四路線があとに続いた。偶然なのか、馬車鉄道からの昇格組は上越線の開業により壊滅的なダメージを受けて廃止されたが、当初より電気鉄道だった伊香保線は幸運にも路線が競合せず、昭和の中頃まで命運を保った。

路線図

略史


明治 43(1910) - 10/ 16  伊香保電気軌道 開業
大正 2(1913) - 11/ 11  高崎水力電気に合併
10(1921) - 12/ 10  東京電力に合併
昭和 2(1927) - 10/ 1    軌道部門を東武鉄道に譲渡
31(1956) - 12/ 28  東武鉄道 伊香保線  廃止

廃線跡現況

A
22年5月
最新地図では、北西から南東につながる道がJR渋川駅に分断された様子を見て取れる。これが旧国道に相当し、大正の前半までは道路上に前橋線が敷設されていた。その後、上越線の延伸に伴い駅が現地点に設けられたため、国道側がやや南で交差するように経路変更され、前橋線も専用軌道でのアンダーパスに切替わった。
この時に渋川駅前(写真A)が新設され、ここが伊香保線と前橋線の分岐点となったようだ。
B
22年5月
駅を出たのちは駅前通り上を併用軌道で進み、平沢川を越えた先に渋川新町(写真B)が置かれていた。上越線開業前の一大拠点で、当線はもちろん、前橋、高崎、沼田、利根、吾妻線の接続駅を担っていた。同名バス停付近が伊香保線乗り場で、他線や車庫跡等の大半は携帯電話の販売店へと変わっている。
C
22年5月
ここで西へと向きを変え、今度は大きく拡幅整備された県道33号線上に移る。
同名交差点に位置した渋川四ッ角(写真C)も既に痕跡は無い。当時の写真を見ると、道路南沿いに「東武電車バス御待合所」の看板を掲げたビルが映り込み、主要駅であったことが偲ばれる。なお当線を四ッ角電車と呼ぶ人に出会うなど、地元ではなじみ深い交差点のようだ。
D
22年5月
連続した上り勾配が続く道路は、すぐ次の商工会議所前(写真D)に達する。しかし現在の三階建ビルは元々渋川信用組合の本社屋で、伊香保線運行当時の会議所所在地とは異なるようだ。
E
23年9月
渋川市内の各駅は地形図に駅の記載がなく、続く河原町(写真E)裏宿(写真F)は火災保険特殊地図により位置を確認している。
また国土交通省前交差点の南側に設けられていた元宿(写真G)は、距離計測で推定した。

F
23年9月
G
22年5月

H
22年5月
北に進む路線はやがて県道上から斜め左に分離し、併用軌道から専用軌道へと変わる。その跡地は既に舗装路に転換され、地元の生活道として活用されている。分離直後の右手にスイッチバック式の列車交換所(写真H)が現れ、上り勾配の本線側に対し、水平を保つ側線の盛土が残されている。
I
22年5月
転用道路はそのまま工業高校の周縁に沿いつつ、渋川八幡宮の裏手に出る。ここに八幡裏(写真I)が置かれていた。しかし地元で聞いた話は当駅には全く触れず、やや西方の市営入沢アパート四号棟(写真J)敷地内に交換所があったとだけ教えられた。同所も乗降可能だった可能性はあるが、名称等を含めてその存在にはいくつかの疑問点が生じ、その一つでもある二百メートル程の短距離で次の入沢(写真K)に到着する。ここは駅を兼務した交換所に含まれ、線路敷の一部は道路脇の緑地帯に変わり、道路勾配も若干緩くなる。

J
22年5月
22年5月

L
22年5月
その後、県道33号線に合流し道路転用は終了するが、すぐに分かれて今度は渋川青翠高校の中に入り込む。

続く拾弐坂上は場所の特定ができない。参考資料1は高校の敷地内とするが、距離計測地点(写真L)はかなり西側を示し、誤差の範疇を越えているため判断を保留せざるを得ない。
M
22年5月
高校を抜け出ると再び生活道への転用が開始され、地形のなだらかな区間では直線的なルートも採用されている。
その直線の最終部に設けられていたのが御影(写真M)で、ここで初めて当時を知る人から正確な場所の教示を得ることができた。また駅あるいは停留所とは言わず、交換所と呼んでいたとの話も聞いた。さらに加えるならば、地形図に初めて描かれた中間駅でもある。
N
22年5月
駅の先で一旦県道に合流するが長続きはせず、再び右に別れてしまう。軌道跡はやはり舗装路(写真N)に利用されるものの、拡幅が行われていないためかかなり幅員の狭い道に変わる。
O
22年5月
しばらく進むと車止の柵が現れ、路面も未舗装(写真O)となる。ここで渡る平沢川の北岸には、それらしき路盤を確認できる。また川の護岸擁壁は石積のままで大掛かりな改修はされていないと聞いたが、残念ながら橋梁遺構の発見には至らなかった。
P
22年5月
川を越えると先程の県道と交差し、再び拡幅された舗装路が戻ってくる。川岸の空き地(写真P)を含めて、電車道と呼ばれていることを現地で教えてもらった。
比較的直線で続く県道に比べ、電車道は勾配を緩和するため右へ左へと大回りを繰り返す。
Q
22年5月
県道から一旦離れた路線は折原(写真Q)で再び接近する。駅手前の左急カーブ開始地点に変電所もあったが、今は影も形もない。
R
22年5月
やはり県道近くに設けられた六本松(写真R)は、公民館付近にスイッチバック式の交換所があり、乗降ホームはやや離れた南方に置かれていた。
当時県道より南側はほぼ原野に近い状態のため、県道沿いに駅が集中するのも必然と言える。
S
22年5月
一車線だった電車道が二車線に変わると、やがてグリーン牧場の大きな駐車場にたどり着く。ここに大日向(写真S)が置かれていたが、今では正確な場所を探し出すことは難しい。当駅も直近にスイッチバック式の交換所を持ち、これは連続急勾配を下る電車の、安全側線的な意味合いも兼ねていたようだ。
T
22年5月
駅の先はゴルフ場に取り込まれて経路を直接たどることはできず、次の離山、北側に交換所を持つ水沢両駅もこの中に含まれてしまう。

ゴルフ場を抜けた後は県道15号線を横切り、一旦これに併走したのち、山道(写真T)として森の中へ入り込む。途中の登沢川(写真U)には両岸の橋台が残されるものの、ここからは藪地化が進行し通り抜けは難しくなる。
しばらくして県道33号線沿いの観光ホテル裏に姿を現し、と同時に見晴下(写真V)の駅跡と重なる。

U
22年5月
V
22年5月

W
22年5月
さらにホテル本館裏から伊香保行政センターをかすめ、車両が保存された峠の公園(写真W)に至る。ルートに沿って埋め込まれたレールは軌間を正規の1067㎜に合わせているが、カーブがあまりにも急過ぎるため、当時の軌道とは別物と考えたほうがよさそうだ。
X
22年5月
公園の前で二車線の市道を横切ると、今度は細道(写真X)に転用されはじめる。その幅は遊歩道のような狭さで、車体幅ギリギリの用地をなんとか確保した苦労が伝わってくるようだ。
Y
22年5月
細道が途切れた先に終点伊香保(写真Y)が設けられていた。車庫を併設した構内は後年開通した県道33号線に分断され、当時の面影は大きく損なわれている。
ただ駅に接していた北側の旧道が残され、これが唯一の救いとなる。

渋川駅周辺変遷図






参考資料

  1. 思い出のチンチン電車伊香保軌道線/狩野信利・高橋潔・大島史郎 共編/あかぎ出版
  2. レイル 10号/エリエイ出版部

参考地形図

1/50000   前橋 [S27応修]   榛名山 [S26資修]   中之条 [S4要修]
1/25000   伊香保 [該当無]   渋川 [該当無]   金井 [該当無]

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最終更新日2023-10/7  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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