東武鉄道大谷軌道線を訪ねて
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 地区:栃木県宇都宮市  区間:宇都宮市内29.9km  軌間:610mm一部複線  動力:人力・内燃

コンクリートが普及する以前は、石材が建設材料として広く用いられてきた。全国に産地が分布する中、宇都宮市の北西地区は軽くて丈夫な大谷石の一大産地として知られている。ここで切出した石材を輸送するため、明治時代に二つの人車軌道が敷設された。ともに鉄道創生期に関東地方でよく見られた人力に頼る鉄道で、貨物と共に旅客も運んでいた。しかし輸送力には限界があり、次第に増える石の産出量に対応しきれず蒸気動力の軽便線を新たに敷設したため、軌道線は規模を大幅に縮小し、やがて自動車の普及と共にその使命を終えた。

略史

明治 30(1897) - 4/ 3  宇都宮軌道運輸  開業
32(1899) - 2/ 17  野洲人車鉄道 開業
39(1906) -  宇都宮軌道運輸、宇都宮石材軌道に改称
2/ 15  宇都宮石材軌道、野洲人車鉄道を合併
昭和 6(1931) - 6/ 20  東武鉄道に合併、大谷軌道線となる
27(1952) - 3/ 31     大谷軌道線 廃止

路線図

路線変遷図




廃線跡現況

A 大谷石の輸送を目的とした宇都宮軌道運輸は、全国への出荷拠点として当初東北本線の宇都宮駅を予定したが市街地通り抜けの見通しが立たず、最終的に日光線の鶴田(A参照)を接続駅に選んだ。
JR鶴田駅前に石材置場を含む構内が広がっていたが、昔日の面影を探し出すことは難しい。
17年3月
駅を東に出て左カーブで向きを北に変えると、なかよし通りと名付けられた遊歩道(B参照)が始まる。この先は軌道線跡が一旦専売公社の引き込み線に利用され、更に遊歩道へと転換された経緯を持つ。交差する車道側に一時停止の標識が多く、自転車には走りやすい道だ。
楡木街道の手前で引き込み線は左カーブを描き、遊歩道も同じルートを取るが、直進する軌道側は市街地に飛び込む。
B
17年3月
C その楡木街道と桜通との交差点南西角に、当時の路盤に沿った三階建ての店舗(C参照)が建てられている。
交差点の北は痕跡が消え、ルートに一致するそれらしき生活道も見受けられるものの、確認をとるすべがない。なお引き込み線を転用した遊歩道は、工場跡地の中央公園に突き当たって終了する。
17年3月
開業時の起点西原町および周りを囲む各連絡線は、道路拡幅、区画整理等により当時のルートを確定することは不可能に近い。耳鼻科医院付近といわれる材木町(D参照)も同様で、既に国道119号線の西行車線に姿を変えてしまった。この駅は石材ではなく、旅客輸送の玄関口として開業後に延伸されている。
北西に向かう路線は国道119号線脇を進んでいたが、既に四車線化された道路に飲み込まれ、軌道の雰囲気は感じられない。
D
17年3月
E 国道から県道70号線と名称を変えた道路は、やがて二車線(E参照)に変わる。宇都宮環状道路を越した右カーブ地点で、軌道跡は一旦道路を南にはずれるが、すでに宅地に取り込まれ痕跡はない。ここは勾配の緩和が目的と思われる。
更に東北道を越えると今度は北に分離し、しばらく並走する。軌道跡の大半は宅地と藪地に消される中、鎧川の先にはそれらしき境界線も認められる。
県道に再合流すると同時に、立岩に向かうルートが北に分岐する。この路線はのちに蒸気動力を使う軽便線に変更され、廃線跡の大半は道路に転用されている。
17年3月
途中の瓦作からは弁天山への支線が延び、駅の先は荒れ地となっているため入り込めないが、採掘場に近づくと舗装路となった路盤が現われる。ただすぐに舗装は途切れ(F参照)、その先の路面状態はかなり悪い。
地図上では北方にトンネルの入口も描かれ通行可能とも読み取れるが、実際には小さな神社で突き当たり、それ以上は進めない。付近が軌道の終点と考えられ、途中にはつぶれた廃屋や、切り出したまま放置された大谷石を見つけることができる。なお瓦作採掘場への支線は手掛かりすら掴めなかった。
F
17年3月
G 一旦県道70号線に戻り、今度は西回りのルートをたどる。
県道上を進むと左手に軽便線荒針の大きな拠点が広がり、それに接続する軌道線、更に道路上の軌道線も含めて各線が交錯する。
大谷街道とも呼ばれる県道は、軽便駅を過ぎた大谷交差点から188号線へと番号が変わる。この交差点に軌道線の荒針(G参照)が設けられていた。駅ではなく出張所と呼ばれていたが、現在は消防施設等に利用されている。
17年3月
天狗の投げ石を右に見て、大きく右にカーブを描くと大谷寺に突き当たる。大谷(H参照)が設けられていた場所だ。ただしここは旅客専用の駅らしく、石材向けの出張所はやや北の姿川沿いにあったようだ。 H
17年9月
I レールは更に続き、駅の手前から左に分かれ、立岩街道上を風返まで延びていた。県立図書館所蔵の路線図には風337と記され、数字部分を番地と推測するものの、当該番地を特定することができず、立岩バス停付近(I参照)を有力候補に挙げるにとどまった。
途中から分岐していた現大谷資料館や平和観音への支線も、その痕跡を見つけることはもはや不可能となっている。
17年3月
宇都宮市内の西原町から北へ向かう軌道の大半は、野洲人車鉄道によって敷設された。パチンコ店東隣の一車線道路がルートに近く、当時の線路跡である可能性は高い。ただすぐ住宅地に飛び込んでしまい、そのまま宇大附属学校横の空き地(J参照)につながる。途中には軌道用地に沿った住宅の境界線も散見される。
空き地の南側は鉄柵で塞がれ通り抜けは不可能だが、北側は未舗装の生活道として利用される。市街地内での未舗装路はかなり不自然で、未だ東武所有地であることが原因と推測される。
J
17年3月
K 学校を通り過ぎるとルート上に住宅が建ち並び、次の松原通との交差後は再び未舗装路(K参照)が現われる。さらに道路は一旦マンション等に遮られた後、北西に向かう一車線道路に合流する。合流点付近に野洲人車鉄道の起点戸祭が設けられていたが、痕跡はなく聞き取りも不発に終わったため、駅跡の特定はあきらめた。
ここからは併用軌道区間で、国道119号線との交差点以降は新里街道と呼ばれる県道22号線となり、道幅も二車線に広がる。
17年3月
変則五差路交差点を過ぎて道路は二股(L参照)に分かれ、それぞれ一車線道路に変わる。右が旧線、左が新線となり、一時期は両線で上下分離運転を実施したと言われている。旧線側には再び二股が現われ、今度は右が線路跡に相当する。分岐点北に設けられた江黒も、市街化により位置の特定は断念せざるを得ない。
ドラッグストアまで進み左に曲がったのち、女子高校の南縁を西に向かい新線と合流する。なお記録はないが軌道開業が明治32年、のちに女子高校となる陸軍第14師団の設置が明治41年、更に線形を含めて総合的に判断すると、開業当初の軌道は女子高校内を南北に抜けており、師団設置に伴い西へ移設されたと考えるのが合理的だ。
L
17年3月
M 進路を西に取った新線側は、しばらくして北西に向きを変え旧線と合流する。この手前に設けられていた駅も江黒と推測される。
両線の合流後は県道22号線の西脇を走り、既に大半は道路に取り込まれたか、平行する用水路に転用されたと考えられる。途中、県道とやや離れた場所に路盤跡らしき空き地(M参照)を見つけることもできる。
17年3月
宇都宮環状道路と交差した後しばらく北上すると、道路はゆっくり左に曲がる。ここで軌道側は県道と別れて直進し、生活道に転換される。道幅は狭く、当時の用地幅そのままのようだ。
緩やかな左カーブの終了地点で、右手から同様な生活道が合流してくる(N参照)
N
17年3月
O この道も第14師団の練兵場へ続く線路跡であること、続く十字路の北側(O参照)は人車交換のため複線になっていたこと、ただし客扱いする駅ではなく信号所のような存在であったこと等を現地で教えてもらった。
他にも複数の交換箇所を設けていたことは容易に想像がつき、大谷真景図からも様子をうかがい知ることができる。
17年3月
道路は鉄工所に突き当たり終了し、しばらくはアパートや民家の中に消える。その住宅地の中で農地脇に残された路盤(P参照)が姿を現わし、現在も東武の所有地ではないかとの話を耳にした。
一区画を抜けると再び一車線道路が始まり、当時のルートにほぼ一致するものの線路用地を転換した確証は得られなかった。
P
17年3月
Q そのまま東北道を越え再び県道22号線の右脇に並ぶが、やはり道路拡幅に利用されたため見るべきものは何もない。沿道には大谷石造りの建物がやたら目につき、石材の大産地に足を踏み入れたことを実感する。
豆腐店に変わった仁良塚(Q参照)から、軌道は二手に別れる。
17年3月
右手に進路を取る徳次郎方面は一車線道路(R参照)に転換される。途中、平行する東北道と二度交差し、ルートは若干異なるものの、共に横断用のアンダーパス路が設けられている。またカーブはゆるやかで、通常の鉄道のような弧を描く。
人家の少ない中を道なりに進み、老人ホームを過ぎると、日光道の宇都宮ICに行く手を阻まれる。こちらもやや迂回するが、通り抜けは可能となっている。
R
17年3月
S その後も一車線道路は続き、しばらく進んだ突き当たりの民家が終点徳次郎(S参照)で、地元では軌道事務所と呼んでいたようだ。地名は[とくじら]とも[とくじろう]とも発音される。
ここで産出した石材は徳次郎石として区別されていたものの、品質は大谷石と大きな違いはなく、一般的には見分けがつかない。なお採掘場は西に1km程離れていて、更にそこまでレールが延びていた可能性もある。
17年3月
芳原へ向かう路線は仁良塚から真っ直ぐ進んだ後、県道からすぐ左に分離する。一部には路盤に沿った土地の境界線(T参照)も散見されるが、大半は宅地や農地などに姿を変え、跡地を直接たどることは難しい。 T
17年3月
U 北西に進んで来た軌道はやがて鎧川を渡る。ここに当時の石積み橋台(U参照)を見つけることが出来る。
当然特産の大谷石を使用しているが、右岸側はかなり傾いて危ない状態となり、いつまで現状を維持できるか心配なところだ。川の護岸にも大谷石が使われ、一部崩れた石材が川底に転がっている。
17年3月
川を越えた軌道は一車線道路(V参照)に転用され始め、右カーブで北に向きを変える。
カーブ終了地点から西に岩本支線が延びていたが、道路になったのか、あるいは農地に取り込まれたのか、残念ながら情報が集まらず推測すらできなかった。
V
17年3月
W 北に向かう道路は、県道22号線と交差する手前で資材置き場にぶつかり終了する。この先は枕木の柵できれいに囲われた路盤が残され(W参照)、東武鉄道社有地の立看板もあるが、今は倒れた状態のままだ。
17年3月
県道との交差後は民家や空き地(X参照)、更に生活道や藪地が交互に現われる。国道293号線に近づくと道の駅ろまんちっく村の駐車場などに利用され痕跡はかき消されている。 X
17年3月
Y 国道の北にそれらしきルートを見つけるが、足を踏み込めるのは突き当たりの墓地までで、そこから先は藪地に行く手を阻まれる。
藪地を抜けた地点に芳原(Y参照)が設けられ、現在は倉庫として利用されている。線路は倉庫の面する道路ではなく、西側を通過していた。
17年9月
レールは更に北へと続き、田口集落西方の採掘場まで延びていた。終点は湿地帯状態(Z参照)で、その正確な位置、及び途中経路の特定はやはりあきらめざるを得ない。ここで切り出した石材は新里石と呼ばれるが、徳次郎石同様、大谷石との違いを見つけるのは難しい。 Z
17年3月

参考資料

  1. 郷愁の野洲鉄道/大町雅美 著/随想舎
  2. 栃木の人車鉄道/栃木県文書館
  3. 写真で見る東武鉄道80年

参考地形図

1/50000   宇都宮 [M42補測]
1/25000   宇都宮東部 [S8鉄補]   宇都宮西部 [S8鉄補]   大谷 [S4修正]
 栃木県地盤図/各図

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最終更新日2018-2/5 
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