北陸鉄道能美線を訪ねて
金石線 加南線 小松線 金名線 能登線 廃止鉄道ノート北陸 減速進行

 地区:石川県能美市  区間:新寺井〜鶴来16.7km  軌間:1067mm単線  動力:電気

路線名の元となった能美郡、これを「のみぐん」と読む。平成の大合併により沿線の根上、寺井、辰口の各町が合併し能美市に生れ変わったため、この能美郡も今では一町を残すのみとなってしまった。能美電気鉄道は小松と鶴来を結ぶ目的で設立、開業されたが、残念ながら小松まで路線を延すことは出来なかった。

略史

大正 12(1923) - 9/ 9  能美電気鉄道  設立
14(1925) - 3/ 21      開業
昭和 14(1939) - 8/ 1  金沢電気軌道に合併、同社能美線となる
16(1941) - 7/ 29  北陸合同電気に合同、同社交通部となる
17(1942) - 1/ 27  北陸合同電気より交通部独立、北陸鉄道(旧)となる
18(1943) - 10/ 13  北陸鉄道(新)に合同
55(1980) - 9/ 13    〃  能美線 廃止

路線図


廃線跡現況

A
94年10月
現在の北陸本線能美根上駅前に置かれていた新寺井(写真A)。平成の大合併前までは根上町の中心地でもあり、大リーグで活躍した松井選手の出身地として全国区になったが、合併により町名は消滅してしまった。
能美線の駅跡は今、駐車場に変っている。
B
19年09月
南向きの駅を出ると、すぐ左急カーブで東に向きを変えていた。カーブ地点は歩行者道(写真B)に転用され、旧木曽街道との交差後は二車線の舗装路に変わる。直後に設けられていたのが濁池(写真C)となる。
次の加賀福岡(写真D)もこの道路上で、駅跡の所在を示す案内標示が立つ。

C
19年09月
D
19年09月

E
94年10月
続く中ノ庄(写真E)も同じ道路上に位置していたが、こちらは標示もなく面影は薄い。駅の東方では23年度開業予定の北陸新幹線が工事を続けている。
東に向かう転用道路は、やがて国道8号線金沢西バイパスにぶつかり終了する。この手前に設けられていたのが五間堂(写真F)で、跡地は公民館の駐車場として利用されている。傍らに設けられた案内板(写真G)には、能美線の簡単な紹介文が書かれている。

五間堂駅跡 F G
94年10月 94年10月

H
94年10月
国道バイパスから東は一車線の舗装路に変わり、カーブ途中の寺井西口(写真H)へとつながっていく。北を走る県道からのアクセス路が、小道として残されている。
I さらに左手の寺井中学校を過ぎた先で県道169号線を横切り、この北側に自動車連絡場(写真I)が設けられていた。地形図には記載がないものの、1946年の空中写真にホームと駅舎らしき姿を認める。ちょうど大門用水をまたぐような形をとっていたようだ。
94年10月
駅の先は、寺井集落に沿った左カーブで病院の脇(写真J)を駆け抜ける。ここで道路はカラー舗装に変わり、一見すると遊歩道のようだが車両進入禁止の標識はない。しかし一部に車止めが設置され、中学校の通学路として活用されていると思われる。 J
19年09月
K カーブ終了地点の本寺井(写真K)は旧寺井町の玄関口に相当し、合併後の能美市役所もこの地区に置かれている。
駅跡はしばらく駐車場に利用されていたが、その後の再開発により今は図書館が建設され、正面には駅名標を模した案内板も設置されている。
94年10月
この先の線路跡は、遊歩道のヘルスロード(写真L)として整備された。大きく拡幅された個所はなく、また自動車も一部では通行可、あるいは農耕車のみ通行可能と区域によりまちまちで、各地に散見されるサイクリングロードとは微妙に異なる。 L
19年09月
M 遊歩道で最初にたどり着くのが末信牛島(写真M)。ここは小さな公園に変ったが、19年時点では全面アスファルトに覆われててしまった。
駅名は近くの末信町と牛島町の集落名をつなげて命名されたようだ。
94年10月
駅を出てしばらく進むと二車線の市道に合流し、南側の歩道に組み込まれる。
次の加賀佐野(写真N)には駅跡の案内看板が設けられ、当時の写真も掲示される。九谷焼の資料館や陶芸村に近く、寄り道して覗いてみるのも一興だ。
ここで北東に向きを変えて市道から分離し、再び専用の遊歩道に戻る。
N
94年10月
O 湯谷石子(写真O)は湯谷と石子の両集落の間に設置されていた。跡地は公園として利用され、駅跡を示す小さな石碑も置かれている。
94年10月
ヘルスロードはそのまま真っすぐ北東方向へ進み、徳久(写真P)につながる。しかし駅の先で道路は終了し、線路跡は一旦住宅地の中に飛び込む。数軒の民家と農地を抜けると、再びヘルスロードに合流する。ここからは自動車の通行も可能となり、地元の生活道といった趣に変わる。 P
94年10月
Q 東に向いた一直線の道は、やがて上開発(写真Q)に到着する。駅は北側にあったこと、交差点北西角の民家が当時は商店だったことなどを地元で耳にした。
19年09月
旧辰口町の中心には当初辰口と称した辰口温泉(写真R)が設置されていた。ただ駅名の元となった温泉までは数百メートルの距離があり、玄関口と呼ぶにはやや違和感がある。
19年時点で駅跡は保育園に変わり、隣接していたJA施設も駐車場に変わる等、その変貌ぶりには驚かされる。また列車交換可能駅で、島式ホームだったとの話を聞くことも出来た。
R
94年10月
S ここから先は車両通行止の看板も立てられるが、正式な道路標識ではないため実効性には疑問がつく。
しばらく進むと農耕車専用と書かれた車止め(写真S)が出てくるが、これはこれで歩行者と自転車はどうしていいのか混乱する。その専用道上に置かれていたのが来丸(写真T)
駅東方の水路橋(写真U)は、その風化具合から鉄道時代のものと判断した。
19年09月

T U
21年11月 19年09月

線路跡はここでヘルスロードから北に外れ、耕地整理された農地内に飛び込む。
続く火釜(写真V)は農地と道路等に利用され、跡形もない。東側の二階建倉庫が鉄道用地南端に沿って立てられ、ここだけルートの確認が可能になっている。
V
94年10月
W 次に跡地が姿を現すのは、岩内の集落南端に置かれていた加賀岩内(写真W)。今は公園となり記念の石碑も設けられている。
ここからヘルスロードが復活し、再び廃線跡をトレースし始める。
94年10月
すぐに加賀産業道路と呼ばれる県道22号と交差し、その後も直線で東へと続く。途中に設置されていた三ッ口(写真X)には、残念ながら駅跡の痕跡が全く見あたらない。 X
94年10月
Y しばらくして道が細くなると、すぐ宮竹(写真Y)に着く。現在は宮竹中央公園としてきれいに整備されている。
さらに道なりに進むと、やがて農地に突き当たり転用道路は終了する。
94年10月
次に確認できる路盤は灯台笹[とだしの](写真Z)周辺で、以前は未舗装のまま集落内の生活道として利用されていたが、今は舗装されヘルスロードの一端を担う。
駅跡には特大の駅名標が立てられ、その位置を大きくアピールしている。
Z
94年10月
AA 東に向かう路線は再び農地内に飲み込まれ、徐々に県道4号線に接近し合流する。ここに岩本(写真AA)が置かれていた。跡地にバスの待合所が設けられているものの、バス路線はすでに廃止され、バス停も撤去されている。この先は一部が県道に取込まれ、一部は県道沿いに路盤(写真AB)が放置される。
天狗山(写真AC)は昭和48年の地形図に記載がなく、晩年には既に撤去されていたことをうかがわせる。同駅は新鶴来として開業し、初期の一時期に終点を担っていたこともある。
94年10月

AB
19年09月
AC
19年09月

AD
15年09月
当線唯一の天狗山トンネル(写真AD)は、19年時点で入口を確認することが可能だが、反対側のポータルに近づくことは不可能で、その位置も判然としない。続く手取川鉄橋は河川改修によりその面影は消えている。
比較的平坦な能美線敷設工事の中で、この区間が最大の難所であったろうことが容易に想像できる。
AE
94年10月
手取川から取水し、その東を流れる七ヶ用水のスルーガーダー橋(写真AE)は、錆付きながらも当時の姿を残している。また南隣には金名線のデッキガーダー橋が、レールを載せた状態で放置されたままだ。
AF
94年10月
金名線との合流地点に設けられていた本鶴来(写真AF)。道路に刻まれた排水溝が当時の境界線を如実に物語っている。
なお能美線のみに駅が設けられていたため、ここで両線の乗り換えは不可能だった。
AG
94年10月
能美線の終点であり、石川線との接続駅でもあった鶴来(写真AG)
当駅を発着していた新寺井行と白山下行は既に過去帳入りし、現在は石川線の終点として金沢に向けた野町行だけが運行されている。

参考資料

  1. 能美電ものがたり(PDFファイル)/能美市立博物館

参考地形図

1/50000   鶴来 [S50修正]   小松 [S35資修]
1/25000   鶴来 [S48修正]   粟生 [S48修正]   美川 [S50修正]
1/20000   小松北部 [T14鉄補]

 No222に記帳いただきました。
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最終更新2023-11/14  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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