地区:石川県小松市 区間:小松〜鵜川遊泉寺/5.9km 軌間:1067mm/単線 動力:電気
小松といえば真っ先に思い浮かぶのが大手建設機械メーカー。その発祥の源ともなった遊泉寺銅山から、北陸本線および梯川とを結ぶ専用鉄道が明治の後期に開業した。しかし大正に入って鉱区が閉鎖されると同時に、鉄道も廃止されてしまった。しばらくするとその路盤を利用して新たに旅客鉄道を敷設する計画が地元で浮上し、昭和の初期に開業した。営業距離も短く当初より業績は悪かったが、北陸鉄道への合併後もしぶとく生き残り、同規模の路線の中では遅くまで活躍した部類に入る。明治 | 39(1906) - | 遊泉寺鉱山専用鉄道 | 開業 | ||
大正 | 9(1920) - | 頃 | 〃 | 廃止 | |
昭和 | 4(1929) - | 5/ | 15 | 白山電気鉄道 | 開業 |
12(1937) - | 11/ | 4 | 小松電気鉄道に改称 | ||
20(1945) - | 7/ | 20 | 北陸鉄道に合併 | ||
61(1986) - | 6/ | 1 | 〃 小松線 | 廃止 |
A | 北陸本線の小松駅前(写真A)から路線を延ばしていた、北陸鉄道小松線。JR線の高架化や新幹線開業に備えた駅前の整備により、その始発駅の痕跡は綺麗に消し去られている。 隣接した当地発祥の建設機械メーカーも既に移転し、跡地には「こまつの社」と名付けられた施設が設けられている。 |
||
16年04月 |
駅前広場から東に向かって延びる路線はすぐに一車線道路に転換され、国道305号線との交差後は二車線に広がる。 道路上を進み、両脇に建ち並んだ住宅が途切れると、沖(写真B)に着く。ここも痕跡はなく正確な位置の特定は難しい。 道路脇には刈り込まれた街路樹が並び、鉄道跡を示唆しているようでもある。 |
B | ||
16年04月 |
C | そのまま小松工業高校の北側を抜けると、国道360号線に合流する。ここからの国道は線路跡を拡幅利用して建設され、四車線の快適な構造となっている。 ただ鉄道のにおいは完全に消え、打越、若杉(写真C)、加賀八幡と続く各駅も地図を頼りに駅跡を推測するしか手だてがない。 |
||
16年04月 |
同名のバス停が設けられた佐々木、さらに軽海西交差点を過ぎると、幅員が二車線に狭くなると同時に右にカーブする。しかし小松線はそのまま直進し、沿線に建つコンビニの敷地内を抜け、国道と分離する。 鉄道跡地は一旦二車線道路に転換されるが、すぐに突き当たって終了する。その手前に軽海が設けられていた。 ここからは当時の路盤が放置され(写真D)、東へと続いていく。 |
D | ||
16年04月 |
E | 小松線はやがて上り築堤で梯川を越える準備を始めるが、その手前の用水路に橋梁跡(写真E)を見つけることができる。今もプレートガーダーを載せたままだ。 ただ梯川には何も遺構を発見できない。 |
||
16年04月 |
川を渡ると終点鵜川遊泉寺(写真F)に到着する。駅跡は一部道路の拡張に利用され残りは緑地帯となっている。 う川古代桜の案内表示板はあるものの、駅跡の表示がないのはやや残念。 |
F | ||
16年04月 |
G | 終点にもかかわらず、駅の先には左カーブを描く築堤(写真G)が姿を見せている。これはさらに延伸が計画された名残で、白山電気鉄道による鍋谷を経て金名線大日川付近まで達する第二期線、あるいは第二次世界大戦中、国策による能美線加賀佐野までの延長線、このふたつのルートに一致するものの共に列車が走ることはなかった。 | ||
16年04月 |
川を越えた先は農地に取り込まれ、跡地をたどることは不可能となってしまう。更に県道55号線と交差したのちは東へ向かう舗装路が現われ、路線はこれとほぼ重なっていたようだ。道路上を進むと、やがて銅山跡記念公園の駐車場に到着する。ここから先の線路跡は未舗装道路(写真L)に転換されている。 木立の中をそのまま進み、白子谷に沿う道路が直角に分岐すると、ここで鉱山鉄道は終了しインクラインによる抗内線に切り替わる。銅山跡には遊歩道が設けられ、巻き上げ装置も見学できるらしいが、今回は時間の都合で諦めた。 |
L | ||
16年04月 |
M | 加賀八幡付近からは北に支線が延びていたが、既に分岐部は農地に取り込まれ正確なルートは把握できない。 漆町集落内では跡地を利用した公民館や農地(写真M)を通り抜け、そのまま梯川にぶつかる。対岸に船着き場があり、河川舟運との物資受け渡し拠点となっていた。 |
||
16年04月 |
1/50000 | 小松 | [T5鉄補/S58修正] | 鶴来 | [T5鉄補/S50修正] |
1/25000 | 小松 | [S50修正] | 別宮 | [S48修正] |