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地区:石川県加賀市 |
軌間:762・914→1067mm/単線 |
動力:馬力→電気 |
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区間:大聖寺〜山中(8.9km)/河南〜新動橋(6.3km)/宇和野〜新粟津(11.2km)/動橋〜片山津(2.7km) |
石川県加賀市と小松市にまたがって点在する加賀温泉郷。入湯客送迎を目的として、各温泉と北陸本線を結ぶ軌道が各々開業した。当初は軌間も狭く、馬力を使用していた各社はのちに合併して軌間を統一、動力も電気に変え温泉地を有機的に結ぶネットワークが完成した。加南線は全体の総称で、温泉毎に山中線、山代線、粟津線、片山津線、更に各線を結ぶ連絡線の別称で呼ばれることも多かった。一時は初のアルミカーを投入するなど脚光を浴びた時代もあったが、時代と共に収支は悪化し、国鉄の特急停車駅変更が廃止の引き金を引いてしまった。
略史
明治 |
32(1899) - |
10/ |
8 |
山中馬車鉄道 |
開業 |
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44(1911) - |
3/ |
5 |
粟津軌道、山代軌道 |
開業 |
大正 |
1(1912) - |
12/ |
1 |
山中馬車鉄道 山中軌道に改称 |
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2(1913) - |
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山中軌道 温泉電軌に改称 |
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2(1913) - |
11/ |
16 |
温泉電軌 粟津軌道を合併 |
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12/ |
1 |
〃 山代軌道を合併 |
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3(1914) - |
4/ |
29 |
片山津軌道 |
開業 |
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5/ |
15 |
温泉電軌 片山津軌道を合併 |
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昭和 |
18(1943) - |
10/ |
13 |
〃 北陸鉄道に合同 |
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37(1962) - |
11/ |
22 |
北陸鉄道 粟津線 |
廃止 |
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40(1965) - |
9/ |
24 |
〃 片山津線 |
廃止 |
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46(1971) - |
7/ |
10 |
〃 加南線 |
全廃 |
路線図
廃線跡現況
-山中線-
停車駅ごとに私鉄が接続すると言われた昔の北陸本線。大聖寺(写真A)からは山中温泉に向かう北陸鉄道が出発していた。跨線橋で結ばれたホームは既に撤去され、今は空き地が広がっている。
駅を出た路線はすぐ右に曲がり、数軒の民家を抜けたのち二車線道路(写真B)に転換される。さらに旧南郷村に入り、最初に横切る道路東側に南郷(写真C)が位置した。ただ利用者の少なさからか、路線廃止時には既に姿を消していた。
道幅が一車線に減少し、右に急カーブを描くと帝国繊維前(写真D)に着く。駅名に「前」の文字が付くものの、工場とはかなりの距離がある。
道路はここから未舗装に変わり、カーブ終了地点で国道8号線をくぐる。その後は丘陵地に入り込むため道路は消滅し、放置された藪地に進路を阻まれる。 |
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D |
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16年4月 |
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E |
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再び路盤が現われるのは、黒瀬地区の白山神社裏付近からとなる。当時の築堤が続き、地元の作業道として使用されるようだ。ただ獣害対策の柵で仕切られ、猪捕獲用の檻も設置されるなど、気軽に入り込めないのが難点。
黒瀬(写真E)は集落からつながる小道との交点に位置し、南東角にホームがあったと聞いた。 |
16年4月 |
引き続き道なりに進むと上り勾配に差し掛かり、小さな峠(写真F)を越える。路面はかなり荒れるものの、何とか通り抜けは可能となっている。 |
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F |
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16年4月 |
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G |
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その後緩やかに左カーブを描き、ゴルフ場への進入路と交差したのち荒木の集落に達する。道路はここで舗装路に変わり、鉄道時代の橋台を再利用した道路橋(写真G)を見つけることもできる。 |
16年4月 |
未舗装路に戻った路線は県道142号線をアンダーパスし、やがて左から接近する山代線跡の転用道路と合流する。ここに河南[かわみなみ](写真H)が設けられ、両線の分岐駅となっていた。それなりの広い構内を有していたはずだが、今その雰囲気は完全に消し去られている。 |
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H |
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16年4月 |
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I |
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駅の先も一車線道路が続き、やがて東側を走る国道364号線に吸収(写真I)される。道路西脇を走っていた鉄道跡は、大半が国道の拡幅に利用された。
道路上の二天(写真J)は同名バス停が目印となり、次の中田(写真K)は跡地を取り込んだ農協脇にコンクリート擁壁が残され、これをホーム跡と捉えてよさそうだ。 |
16年4月 |
初代長谷田(写真L)は横断歩道が目印となる。晩年の昭和44年版地形図で南方に移動しているため初代としたが、正確な変遷は把めていない。
初代旭町(写真M)もなぜか直近に横断歩道が描かれ、同名バス停も設けられる。また上記地形図はここに「はせだ」と付し、途中で二代目長谷田へと駅名変更されたことを示している。
押し出された格好の二代目旭町(写真N)が置かれたのは、0.3kmほど南の機械工場付近となる。ただし駅を特定できる目印は無く、地形図からの大雑把な把握にとどまるが、前後駅同様、横断歩道直近とすれば、これより若干北寄りの工場正面あたりとも考えられる。なお昭和23年の地形図に記載され、28年版で一旦消滅し44年版で復活するなど、数次の変遷を経たことは間違いないようだ。
次の新家工業前(写真O)では西側歩道脇に段差が認められ、これが当時のホーム跡と言われている。続いて痕跡の消えた新塚谷(写真P)を過ぎると、終点山中温泉(写真Q)に到着する。駅跡はその広い敷地を生かし、バスターミナルとして活用される。
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P |
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Q |
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16年4月 |
16年4月 |
-山代線-
山中線河南からの分岐直後は少しだけ道路(写真R)に転用され、その後は農地に取り込まれる。この中で右カーブを描いて北東に向きを変えると、そのまま大聖寺川に突き当たる。
ここに架かる五連のデッキガーダー橋(写真S)は歩行者用として供用され、橋台、橋脚等は鉄道用を引き継いでいる。ただ全体に統一感が無く、災害復旧を繰り返した継ぎ接ぎ構造との印象が強い。
川の対岸も歩行者道が続き、温泉ホテルの横をすり抜けて二車線道路へとつながる。その道幅が一車線に減少し、やや右に屈曲した直後の左手一帯が主要駅の山代(写真T)に相当し、駅跡はタクシー営業所、隣接した車庫跡はスーパーに生まれ変わっている。
駅の先は一旦住宅地内の生活道に変わるが、すぐ県道11号線(写真U)に合流する。さらにコンビニ店舗となった山代東口(写真V)を過ぎて、線路跡は二車線道路に転換される。一部センターラインの消える箇所(写真W)もあるが、幅員は確保される。
その道路上に粟津温泉への分岐駅、宇和野(写真X)が設けられていた。信号の無い交差点南方で、道路脇に構内の一部と思われる余地が広がり、交差点北側には、分離する連絡線に沿った土地境界線を認めることもできる。
二車線から一車線へと減少した道路を北上し、やがて国道8号線と交差する。この北側に位置した庄学校(写真Y)は、目印となる痕跡が何一つ残されていない。
ここから更に細い未舗装路に変わり、圃場整備された農地に囲まれつつ北東に進む。鉄道側は途中で道路から右に離れ、農地内に取り込まれた庄(写真Z)に至る。近くの道路上から眺めるしか手はないが、どう見渡しても鉄道の雰囲気を感じ取れない。
駅を過ぎ、左カーブでほぼ真北に向きを変えると再び未舗装の農道(写真AA)が現われ、これが山代線の跡地に相当する。
道路はその後、二車線の舗装路に変わり、右に曲がると終点新動橋[しんいぶりばし](写真AB)に到着する。接続する国鉄駅構内に乗り入れることができず、乗換に若干の不便さが生じていたことは否めない。
-粟津線・連絡線-
建設時の経緯から線名は分かれるが、一般的には両線併せて粟津線と称されることが多かったようだ。
始発の新粟津(写真AC)は、北陸本線粟津駅と道路を挟んだ対面に設けられていた。現在は駅前の整備が完了し、当時の面影はどこを探しても見つからない。
南に出発した列車はます左に曲がり、向きをほぼ90度変える。カーブ区間の線路跡は駐輪場(写真AD)に変わり、その後は一車線道路に転換されて市街地の中を南東に進む。
しばらくして国道8号線(写真AE)と交差し、今度は緩い右カーブを描く。道は途中から二車線に広がり、カーブ終了地点には島(写真AF)が置かれていた。
続く左カーブ途中には下粟津(写真AG)が設けられた。
林は新旧地図の比較から、区画整理事業に伴う駅の移動があったと捉え、1954年の粟津局郵便区全図により二代目(写真AH)を確認し、県道11号線との合流部手前と判断した。地形図に描かれた、区画整理前の旧道に接した初代駅(写真AI)は、合流部の東側と読み取れる。
国道8号線バイパスをくぐった後の右カーブ終了地点は、鉄道跡と道路に若干のズレが生ずる。用水路を越える区間で、橋梁の更新に伴う移設と考えられる。
粟津(写真AJ)は、両者が同一ルートに戻った直後の変則交差点南側となる。
温泉街手前のカーブ途中に粟津温泉(写真AK)が設けられ、当時の駅舎跡には倉庫が建つ。南西に向かう路線は、ここから連絡線と線名が変わるものの、運用面では粟津線と一体化されていた。
駅の先で合流する県道11号線は鉄道脇に新設された道で、廃線後の跡地を道路拡幅に利用し、歩道付の快適な二車線道路となった。
路線廃止前に姿を消した荒屋(写真AL)は地形図に記載がなく、前述の郵便図を参照した。ただし地図に付された駅名は「ばんば」とされるため、途中で駅名変更された可能性が高い。
至近で続くのが、やはり痕跡の消えた馬場(写真AM)だ。上記荒屋駅と併記された地図はなく、両駅がバーター関係にあったとも考えられる。同名バス停の東側に位置した。
県道上をしばらく進むと鉄道側は道路から一旦右に分離(写真AN)し、歩行者専用道に変わる。ただその距離は短く、県道沿いの民家裏(写真AO)を抜けたのち、那谷町交差点の東で県道に再合流する。
交差点の先に那谷寺(写真AP)が設置され、南西角の同名バス停が駅跡を示す。
駅の西からは一車線の生活道に転用されるものの、すぐ那谷川に行く手を阻まれる。ただ同河川の左岸では、雑草に覆われた当時の橋台(写真AQ)を見つけることもできる。
この先は圃場整備された農地内に飛び込み、やがて農道(写真AR)として姿を現わす。一帯の農地が途切れると同時に道も終了し、その先は荒れ地として放置される。再び路盤を直接たどれるのは栄谷集落の東端付近からで、林に囲まれつつも、当時のバラストが残されているためか藪地化には至っていない。また沿線には戦時中に使われた防空壕が大きな横穴を見せ、説明書も添えられる。
東栄谷(写真AS)は地形図に記載がなく、24年時点で何とか識別可能な県道からのアクセス路と、前後駅との距離計測を元に場所を推測した。路線廃止前に閉鎖されたためか、周囲に痕跡は確認できなかった。
下り勾配で雑木林を抜け出ると、一車線道路およびそれに並ぶ水路と交差する。ここに石積橋台の一部(写真AT)が顔をのぞかせ、西側の栄谷(写真AU)跡は空き地として放置されたままだ。
駅の先は再度農地内を抜け、県道154号線との交差後に宇谷川(写真AV)を越える。同河川には、両岸共しっかりした石積の橋台が残されている。
南西に続く路線は一旦県道11号線と併走し、一部が道路拡幅に利用されるものの、勅使[ちょくし](写真AW)の手前で再び南に分離する。駅を含めた前後路盤上に数軒の民家が建ち並び、線路跡の特定を容易にする。
集落はずれのルート上に橋梁痕らしき構造物(写真AX)を見つけるが、その形状から鉄道用である確証は得られない。不思議な存在だ。さらに西を流れる動橋川には、今も橋台、橋脚の一部(写真AY)が残され、北側の道路橋跡と仲良く並ぶ。対岸に渡ると再び農地内に飲み込まれ、跡地を直接たどることは不可能となる。
地形図に記載のない二ッ屋(写真AZ)は、森町の白山神社東方に位置したこと、線路跡を掘り下げて新たな道路が建設されたこと、等の教示を現地で得た。
ただし道路転換は周辺の一部のみで、駅の先は神社脇の藪地から農地内に進み、JA敷地に取り込まれた森区(写真BA)に至る。当線内で農協への転用は珍しいが、廃止された地方鉄道では定番ともいえる形態だ。
続けて西に進む路線は最後に左急カーブを描き、山代線との接続駅宇和野へ滑り込む。
-片山津線-
加南線に属するものの他線との接続がない片山津線。北陸本線との接続駅動橋[いぶりばし](写真BB)は、国鉄駅北側にホームを持ち、同駅構内と跨線橋で結ばれていた。駅施設は既に撤去され、跡地は道路や住宅に利用される。線路跡は駅を出た直後から舗装路に転換され、右に大きくカーブを描く。 |
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BB |
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16年4月 |
真っすぐ北上する路線はやがて左カーブに入るが、この手前に合河(写真BC)が置かれていた。今は新設された市道にその跡地を分断され、痕跡は探しようもない。
駅の先は道幅が減少し(写真BD)、通学路の表示板も立てられる。ここからの曲線区間に小橋梁(写真BE・BF・BG・BH)が連続し、一見コンクリート橋に見えるも、中を覗くと各々石積橋台を確認できる。改築されたことは明白だが、コンクリートの風合から時期は道路化時点ではなく、馬車鉄道からの改軌、動力化時と考えてよさそうだ。
通学路は続いて八日市川(写真BI)を渡る。ここも橋梁は歩行者用として再利用されるが、車両通行止の標識はなく自動車も通行は可能なようだ。しかし幅員は狭く、乗用車の通り抜けは物理的に難しい。
川を渡りしばらく進むと、今度は右カーブを描いて二車線の市道に合流する。同所に位置した片山津本町(写真BJ)も、やはり痕跡は残されていない。
線路跡を拡幅転用した市道を北上し、温泉街が迫ると終点片山津(写真BK)に到着する。駅跡は駐車場等に生まれ変わり、バス停が設けられるものの、行き先は動橋ではなく特急停車の加賀温泉駅となっている。
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻218号/北陸鉄道/西脇恵 著・・・私鉄車両めぐり
参考地形図
1/50000 |
小松 |
[S35資修] |
大聖寺 |
[S23資修/S28応修] |
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1/25000 |
*動橋 |
[S44測量] |
山中 |
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大聖寺 |
[S44測量] |
片山津温泉 |
最終更新日2024-6/13 *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*
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