当別町営軌道を訪ねて
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 地区:北海道石狩郡当別町  区間:当別〜大袋31.3km  軌間:762mm単線  動力:内燃

木材の搬出と共に開拓者の活動を支える目的をもって戦後に建設された植民軌道で、多くが道東に偏る中、道央では珍しい存在となった。当初から水害との戦いで、丈夫なコンクリート橋脚へと順次切り替えたが、廃止直前の台風により壊滅的な被害を受けてしまい、短い生涯を閉じることになった。

路線図

略史



昭和 24(1949) - 8/ 26  植民軌道当別線  開業
28(1953) - 10/  当別町営軌道に変更
31(1956) - 3/ 31     〃 廃止

廃線跡現況

A 軌道の起点となる当別(写真A)は、札沼線の石狩当別駅北西部に設けられていた。
駅を出るとすぐ左折し、白樺公園内に入る。さらに痕跡の消えた市街地を通り抜けて、そのまま青山方向へ向う二車線道路に合流する。
当時は道路上を併用軌道として進み、一部には道路と離れる区間もあったが、こちらは既に沿線の建物に取り込まれている。
18年6月
市街地を抜け、十字交差点を過ぎ、道路は大きく右に曲がる。そのカーブ途中に設けられていたのが六軒町(写真B)。地形図に駅が記載されていることから、待合室等が設けられていた可能性も考えられる。
しばらくして道路に道々28号線の名称がつくと、路線は専用軌道に変わり西側に分離する。そのまま圃場整備された農地の中を北進し、茂平沢橋に着く。ここは地形図に記載がなく、おおよその位置さえ掴めない。
B
18年6月
C 駅の先で道路と位置を入換え当別川の右岸に出て、廃校となった弁華別小学校の東側を通り抜ける。
小学校の隣に弁華別(写真C)が設けられていたが、やはり詳細な駅跡の特定は難しい。
18年6月
その後も痕跡の消えた農地内を進む軌道跡に、ほんの一瞬だけルートに一致すると思われるあぜ道(写真D)が顔を出す。 D
18年6月
E 地元で話を聞いたところ、上記あぜ道の確認は取れなかったものの、当別川の西岸に沿って地形図に記載のない砂利採取線(写真E)が延びていたことや、砂利の取り過ぎで川の流れが変わったこと等を教えてもらった。ただ残念ながら詳細は不明で、本線との分岐点や、そのルートは推測とせざるを得ない。
中間駅の一つ、砂利揚場も付近にあった可能性が高い。
軌道はしばらく道々の西側を並走したのち、再び道路の東側へと移動し、そのまま当別川を渡る。橋の前後に置かれていた青山橋は、やはり情報が集まらず場所の特定をあきらめた。
18年6月
また川の左岸には、南に向けての支線が延びていた。こちらも砂利採取線と考えられ、地形図に路線が描かれているにもかかわらず、痕跡は見いだせなかった。
青山会館の東方に位置したと思われる共有地も不明。さらにその先は、当別ダムの下流広場(写真F)やふくろう湖に飲み込まれ、水没した当別川橋梁を含め、線路跡をたどる術は消える。
F
18年6月
G 道々を使って迂回し上流側に回ると、ダム湖に向かって徐々に沈んでいく軌道跡(写真G)を発見する。正確には、軌道跡を転用した旧道の路盤というべきなのかもしれない。
北側には小さな空地も広がり、ここに沼ノ沢が置かれていた可能性は高い。
18年6月
ダム湖の先には雑草が生い茂る路盤が続き、一見作業道(写真H)のようではあるが、車止めが設けらているため轍は刻まれていない。
残念なことに道々11号線に近づくにつれ、放棄されたと思われる牧草地に入り込み、ルートのトレースは不可能となる。
H
18年6月
I ダム建設に伴って移転した青山中央地区の集落は消えてしまったが、道々脇に当時の小中学校舎が保存されている。より地区の中心に近い青山中央は、現在の除雪基地南西に位置した。
駅の北で「道民の森案内所」の西側を抜けると、再び当別川を渡る。ここで三度目となる。橋台と数基の橋脚(写真I)が残され、中には倒壊したものも含まれる。
18年6月
橋の前後には、相変わらず軌道跡を特定できない藪地が続く。しばらくして道々28号線に隣接し始めると、道路脇に立てられた数本のレールを認めるが、当時使用されたものか、またその目的等も確認は取れない。
六号付近から道々を東に離れ、やがて当別川に注ぐ一番川を越える。雑木に遮られつつも、当線最大と思われる橋脚(写真J)が今も姿を見せている。
J
18年6月
K 右岸には築堤(写真K)が残り、路面の一部に古い轍が刻まれている。そのまま二車線道路を横切ると、路盤は再び藪地に包まれる。一番川は道路との交差部前後に置かれていたと推測する。
さらに北側を流れる炭鉱の沢川にも、橋梁が残る可能性はあるが、現地にたどり着くことは至難の業と言うほかない。
18年6月
その後、再度道々に接近してきた軌道跡は、花田前(写真L)の手前で少しだけ未舗装路に転用され、その突き当りが駅跡となる。
駅名からは原野の一軒家のような印象を受けるが、当時の地図上には学校も描かれ、小規模な集落が形成されていたようだ。
L
18年6月
M 併走する道々を進むと、すぐに二番川が横切り、道路橋側からは軌道の右岸橋台や倒れた橋脚(写真M)を目にすることができる。また橋の前後では、電話線の敷設に線路跡が利用されている。
川の先で小さな右カーブを描いたのち、一旦道々の西側に移動して吉田前へと至る。個人宅の前にあったのか確認は取れなかったが、今も周辺には牧草地が広がり、放牧された多くの牛の姿を見かける。
18年6月
道々側の緩やかな下り坂が終わると同時に、未舗装路が左に分岐する。軌道跡を転換した道で、そのまま当別川へと続いて行く。
(写真N)は道路橋として利用され、橋脚はその形状から、軌道時代のものをそのまま再用したと考える。
N
18年6月
O 川の先に続く道はやがて左に折れ、軌道跡は再び藪地に飲み込まれる。そんな中で五度目となる当別川越えの橋梁跡(写真O)を発見する。簡易軌道とはいえ、間近で眺めるとその迫力に圧倒される。
その後は築堤上に作業道が続き、上り勾配終了地点の十字路付近が終点大袋となる。
18年6月

参考地形図

1/50000   当別 [S34資修]   月潟 [S28修正]
1/25000   石狩当別 [S25測量]   弁華別 [S29測量]   青山中央 [S29測量]   二番川 [S29測量]

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制作公開日2018-8/27  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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