地区:静岡県藤枝市 区間:駿河岡部~新藤枝~新袋井/69.4km 軌間:762mm/全線単線 動力:蒸気→内燃
日本一長いと言われた軽便鉄道。鉄道の恩恵から取り残された地区を官設鉄道と結ぶ二つの会社から始まり、第二次世界大戦中、国策により両社を含む域内の会社が合併し静岡鉄道と名を変えた。通常は旧来の路線を存続させることに汲々とするところだが、同社は積極的に路線を延ばし、藤枝と袋井を一本のレールで結んだ。ここに全線を通して四時間近く必要な長大路線が完成した。
略史
大正 |
2(1913) - |
11/ |
16 |
籐相鉄道 |
開業 |
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3(1914) - |
1/ |
12 |
中遠鉄道 |
開業 |
昭和 |
18(1943) - |
5/ |
15 |
籐相鉄道、中遠鉄道、静岡電気鉄道等が統合、静岡鉄道となる |
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23(1948) - |
9/ |
6 |
静岡鉄道 駿遠線 |
全通 |
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45(1970) - |
7/ |
31 |
〃 〃 |
当日を以て全廃 |
路線図
廃線跡現況
藤枝と袋井からそれぞれ路線を延ばしてきた駿遠線。中遠鉄道側から全線をたどってみた。
JR駅の南側に隣接していた二代目袋井(写真A)。駅跡が近年の南口整備に割り当てられたため、その面影を偲ぶものは片隅に立てられた案内板のみとなっている。
西に向かって出発した列車は、すぐ左カーブを描き南東に向きを変える。ここは当時の築堤が残され、駐車場通路として利用されている。
傍らに立つ三本の木製電柱(写真B)は当時から残されているものと聞いたが、三本すべてなのか一部だけかの確認は取れなかった。
カーブ終了地点が開業当初の初代駅となり、北側には車庫も併設されていた。こちらは既にバス車庫とJA施設に変わっている。
駅の先からは県道41号線に合流し、東脇を併走していた。その線路跡は道路の拡幅に利用されている。
県道上を進むと、すぐに新幹線をくぐる。実際に交差していたのは三年弱だが、今も駿遠線架道橋の銘板が付く。
次の信号交差点で一旦県道から東に離れ、その分岐点付近の小川には、煉瓦造りの橋台(写真C)が残されている。
川を越え沿道に建ち並ぶ住宅の中を抜け、最初の柳原(写真D)に着く。駅は当時の小笠沢川南岸に位置したが、河道移設を含む改修により、大半は現河川に飲み込まれてしまった。当然、橋梁共々その痕跡は消え失せている。
川の先で県道に再合流し、左、右、左と緩やかなカーブを繰り返すと再び県道から東に別れ、歩行者専用道としてつながっていく。
歩行者道に入って最初の駅は諸井(写真E)。駅名標を模した案内板も立てられ、ベンチを備えた休憩所として利用されている。
道路をしばらく南下すると、機械工場の横に小さな橋(写真F)が架かる。ここは鉄道時代の橋梁をそのまま再利用し、横からのぞくと大きさの異なるガーダー材が並んで見える。
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F |
次の芝(写真G)も駅名標によりその位置を知ることができる。 |
G |
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17年3月 |
17年3月 |
同じく案内板のある浅名(写真H)を過ぎると、図書館にぶつかり一旦線路跡は消滅する。ただ県道41号線との交差後は、再び歩行者専用道としてそのルートをたどることが出来る。
なお図書館向かいの公園に、レプリカのSLが展示されている。
道なりに進むと太平洋に流れ込む弁財天川が横切る。ここに架かる歩行者橋(写真I)もやはり当時の橋梁を再利用したもので、煉瓦造りの橋台は十分に歴史を感じさせてくれる。
川の東に設けられていた五十岡(写真J)はホーム跡が残され、休憩所としてきれいに整備されている。
道路から歩行者専用の標識が消え、自動車通行可能になると新岡崎(写真K)に到着する。駅名標や笠原軽便電車道の案内板もあるが、実際の跡地は一車線道路を挟んだ西側となり、今は消防施設や事務所として活用されている。
駅を過ぎると県道41号線の歩道として南に向かい、そのまま三沢川を渡って左岸堤防上に移る。堤防道路のフェンスに新三輪(写真L)を示す標識が取り付けられ、県道からのアクセス用階段も残されている。
ただし旧版地図ではやや南に架かる井堰橋東詰に駅が記され、開業時の初代駅(写真M)から移設されたと捉えることができる。
しばらく堤防道路を南下した後、本流の弁財天川が西から近づくと、鉄道側は堤防から離脱し南東に向きを変える。しかしその用地は既に区画整理された農地に変わり、跡地をたどることは不可能となっている。
また堤防への上り勾配で速度が遅く、走行中の列車に飛び乗ったこと等の話を地元で教えてもらった。
一旦県道と併走したのち、跡地は舗装路へと転換され大きな左カーブを描く。ホーム跡が今も顔をのぞかせる石津(写真N)はこのカーブ途中に位置し、南方には踏切設備の基礎を見つけることもできる。
カーブが終了し向きを東に変えると、一車線の生活道と併走をはじめる。鉄道側は一見その歩道のように見えるが、両者とも自動車通行可能となっている。
やがて大須賀新川を越えると生活道側が二車線に広がり、両者は一体化される。道路は用水路に突き当たって終了し、その手前に設けられていた七軒町(写真O)には、駅跡を示す案内標はない。
駅の先からは当時の路盤が空き地(写真P)として残され、横須賀の市街地に入るとすぐ県道41号線に合流する。ただこれも短区間で、信号交差点を越えると南に分離し、跡地は工場、生活道、水路(写真Q)の順に利用される。
この水路は、新横須賀(写真R)の駅跡に建つスーパーの手前で終了する。
ここから東は密集地に飲み込まれるためルートを直接トレースすることは不可能で、西大谷川にも痕跡は無い。
その中で、大須賀交番の西向かいに橋台跡(写真S)を見つけることができる。しかし川は既に暗渠に変わり、上部が歩道として利用されるため、住宅地の中で異様とも思える姿をさらしている。由来を記した説明板、標柱等が設置されれば、見る目も変わるかも知れない。
県道沿いの民家裏手を走り、遠鉄バスの駐車場等を抜けたのち二車線道路にぶつかる。ここが河原町(写真T)で、道路を中心とし東西の花壇付近が駅構内に相当する。
ここからは旧道に沿って進み、現在は北側の歩道として活用されている。一旦右に緩やかに曲がったのち左に反転し、現県道と交差する。その手前で小さな川を越えるが、歩道側の橋(写真U)は鉄道時代の橋台、橋桁がそのまま使用されている。
県道との交差後は一車線の生活道として続き、しばらくして変則五差路を過ぎると未舗装(写真V)に変わる。竹藪に囲まれた作業道のような雰囲気だ。ただこの区間は短く、すぐ一車線道路に合流する。
野中(写真W)はその手前、既に廃業の雰囲気が漂う工場敷地の南寄りにあったものと思われる。
その後の転用道路は茶畑に囲まれた山の中腹を東へと向かい、途中から未舗装路(写真X)に変わる。一部に藪が深く立ち入りが難しい箇所もある。
やがて民家の車庫裏に出て道路は終了し、突き当りには住宅が建ち並ぶが、その中に少しだけ空き地が広がる。野賀(写真Y)の駅跡だ。
この一画は、南側を通る市道の拡幅に伴う代替地として鉄道用地が提供されたため、道路転用から外れ住宅内に取り込まれたと聞いた。ちなみに市道は北側のみ6m拡幅されたとのこと。
駅を出ると一旦市道と交差し、左カーブで再接近してそのまま合流する。ここからの市道は廃線跡を拡幅転用したもので、二車線の快適な舗装路となっている。
大浜公園入口の手前に位置した谷口(写真Z)は、店舗前に駅名標が立つ。ただ痕跡、雰囲気共に全て消し去られている。
駅の東から始まるなだらかな勾配を下ると南大坂(写真AA)に到着し、駐車場となった駅跡にはやはり案内板が設けられている。西隣の舗装路が当時の駅前道路に相当する。
続く大坂北交差点付近から市道を右にはずれ、沿道の住宅を抜けると、再び一車線の生活道として線路跡が姿を現わす。この道路は緩やかな左カーブを描いたのち、T字交差点に突き当たって終了する。
突き当たり正面が中遠鉄道時代の終点新三俣(写真AB)で、跡地は民家等に変わる。その中に含まれる事務所駐車場の片隅には、遠慮がちに駅名標が立てられている。またレールは駅の東にも続き、今は電気部品工場に変わった旧農協への引き込み線として、菊川手前まで延びていた。ここは舗装路に変わっている。
本線側は駅のやや東で南に大きく曲がり、住宅地内に飛び込む。そのまま大東支所の角をかすめ、農地と住宅が混在する中を南東方向に進むが、残念ながら痕跡は見つけられない。
やがて西千浜(写真AC)で二車線の市道に合流する。ここも駅名標が設けられ駅跡の特定が容易なのはありがたい。ただ旧版地形図との若干の誤差が気になる点ではある。
しばらく南下すると道路から分岐し、左カーブで東に向きを変え、今度は国道150号線に合流する。国道は鉄道用地を利用して建設されたものの両者は完全一致ではなく、ほぼ直線状に続く道路に対し、鉄道側は丘陵を避けながら右に左にとふらふらルートを変えながら進んでいた。
共に橋梁痕の消えた菊川と高松川を渡った先に千浜(写真AD)が設けられていた。ここも道路脇に駅名標があったが、近年、太陽光パネルの設置により撤去されてしまったようだ。
駅を出ると道路から大きく離れ、農協の北側に回り込む。現在は完全な藪地と化し、直接ルートをたどることは不可能となっている。丘陵を迂回した後、国道の20m程北を平行して進むと合戸(写真AE)に到着する。
その後再び国道に合流し、しばらく両者のルートは一致する。
浜岡の市街地に近づくと道路は四車線化され、同所に塩原新田(写真AF)が設置されていた。案内板は道路北脇に立てられているが、実際の駅は南側の空き地付近にあったと考える。
ここで国道から別れ、南側に続く農道が線路跡に相当すると思われるものの、現地で確認を取ることは出来なかった。
農道を東に進むと一旦国道に吸収され、更にコンビニを過ぎた地点で再び南に分離する(写真AG)。道路脇の空き地には鉄道用地の境界線も認められるが、その先は藪地となり入り込むことは難しい。
続く信号交差点の東で国道と交差して位置を入替え、そのままカーショップの裏手に出る。
すぐ雑草と雑木の荒れ地に行く手を阻まれてしまうが、その中に小川を越える橋台らしきコンクリート構造物(写真AH)を見つける。ただ、ルートに一致するものの全体像を把握できないため、鉄道の施設とは断定できていない。
さらに加えるならば、この区間は軍用軌道跡の再利用であるため、どちらの遺構なのか判別が難しい点もある。
その後は沿道のレストラン内を抜けて国道に合流し、県道37号線との立体交差に向かう。
この交差点東に位置したのが浜岡町(写真AI)で、道路脇に茂る樹木の西側に交換設備を持つ駅構内が広がり、東側の駐車場付近には引き込み線を持つ倉庫が建っていた、と聞いた。しかし、その大きな構内の大半は道路に飲み込まれ、痕跡を見つけることはできない。連続していた駅跡表示が当駅で途切れたのも残念なところ。
道路上を東へと向かい、落合川に続き新野川を渡ると線路跡の国道転用は終了し、両者は完全に分離する。左カーブで北東に向きを変えた鉄道側は、池宮神社の大きな鳥居の北を築堤で駆け上がり、桜ヶ池(写真AJ)に達する。ここに駅名標はあるものの、農地等に転用された跡地にその雰囲気はない。
駅を出て右カーブを描くと、まず一車線道路、続いて二車線の市道に合流する。ここからの市道は廃線跡を拡幅転換して造られ、途中の遠州佐倉(写真AK)には駅名標と共に運行時の写真、路線図等を載せた案内板も添えられている。
続く玄保(写真AL)にもに写真が飾られ、当時を偲ぶことが出来る。
道は駅の先から一車線となり、そのまま筬川に突き当たり分断される。ここは橋もなく、鉄道橋梁の痕跡を見つけることもできない。
川の先から再び道路が続き、県道240号線と交差したのちは南に膨らむようにクランクする。ここが堀野新田(写真AM)で、保線の詰め所も備えたかなり大きな駅だったと聞いた。構内は既に住宅地へと変わるが、道路は南端をかすめるように延びていく。
駅を過ぎると道幅は更に狭まり遊歩道状となるが、国道150号線との交差箇所に地下道が設けられているのは驚きだ。交差後も一車線の生活道として続き、再び国道を地下道で渡り戻す。
地上に出ると道路脇に「静岡御前崎自転車道線」の県道標識が現われ、自動車の通行が禁止される。通称では太平洋岸自転車道と呼ばれているようだ。
道路が緩やかな左カーブで北に向きを変えると、正面に工場建屋が見える。藤枝から延びてきた籐相鉄道の終着駅、地頭方(写真AN)だ。やはり大きな構内を持った駅跡には住宅や工場が建ち並び、自転車道はその西端を通り抜ける。
駅北方の東沢川では鉄道の橋台(写真AO)が両岸とも放置され、自転車道にはなぜか西側に新たな橋が新設されている。
さらに道なりに進むと、道路脇に立つ二代目落居(写真AP)の駅名標を確認できる。その先で西側を並走する横須賀街道と交差し、位置を入れ替える。なお参考とした旧版地形図では交差箇所の北側に初代駅(写真AQ)が記され、何らかの理由により移設された思われる。
道路は自転車専用のはずだが一部の車止は外され、また車両通行止の標識もないため、自動車の乗り入れも散見される。ただし通過車両はなく、危険を感じることはない。
須々木(写真AR)もその途上に設けられ、道路脇には駅名標と共にホーム跡が顔をのぞかせている。当時のものに間違いないと考えるが、地元で確認を取れなかったのはやや残念。
しばらくして自転車道から一般道に切り変わると、進路をやや西に振り、再び横須賀街道を横切る。この手前に位置したのが波津(写真AS)で、こちらはホーム跡が縁石ブロックに囲われている。
駅の北方には当線唯一の小堤山トンネル(写真AT)が掘削され、内部に由来を記した銘板も埋め込まれている。なおこの区間のみ自転車専用道が復活する。
トンネルを出た後は相良の市街地に飲み込まれ、ルートを直接たどることが不可能となる。その中の静鉄バス営業所は、新相良(写真AU)駅跡の北半分を利用したもの。南側は商店等に変わり、間を抜ける県道69号線が当時の駅前道路に相当する。
駅の北も住宅地となるが、一区画飛び越えると再び生活道として姿を現わし、栄丁通りを横切る(写真AV)。踏切番が置かれ、女性が遮断機の上げ下ろしをしていたと聞いた。
踏切の先は相良高校のグランドに飛び込み痕跡は消える。
学校の東を流れる萩間川は護岸工事の真っ最中で、橋梁の痕跡は認められない。
川の左岸から線路跡は生活道に転用され、相良(写真AW)は最初の十字路北側に設置されていた。
道路にはやがて車止めが出現し、歩行者専用道に変わる。
すぐ二本の小川を連続して渡るが、共に鉄道時代の橋台とプレートガーダーがそのまま転用されている。両者の橋台が石積み(写真AX)とコンクリート製(写真AY)に分けられているのは面白い。
右カーブで向きを一旦東に変え、旧国道と現国道150号線を連続で横断したのち、北に進路を戻し、現国道の東脇を併走し始める。なお国道交差点には地下道が設けられている。
しばらくは国道にぴったり寄り添い歩道兼用となるものの、坂井地区に入ると両者は徐々に距離を置き、独立した自転車道として「太平洋岸自転車道」の案内標識も出てくる。道中の小橋梁には、鉄道時代の橋台を改修、再利用している箇所もあるようだ。
沿道は同じような景色が続くため現在地の特定すら難しくなる中、次の太田浜(写真AZ)は国道の同名バス停を過ぎ、ごく緩やかな左カーブの終了地点に設置されていた。当時から道路沿いに建つ二階建ての家屋が目印となる。
自転車道を先に進むと、ひとつ問題が発生する。確認の取れない駅(写真BA)が昭和31年の地形図に描かれていることだ。しかも1/5万掛川のみで、1/2.5万相良には記載がない。場所としては現在の坂井バス停付近にあたり、地元での情報収集も不発に終わったため、存在そのものが謎に包まれたままだ。海水浴客向けの臨時駅だった可能性もあるが、いまだ正解にはだどりつけていない。
同じく自転車道上の片浜(BB)は、同名バス停横と判断した。構内東端に沿ったと思われるわずかな屈曲も見られる。
駿河湾を右手に望みつつ北上を続けると、やがて大きな左カーブに突入する。と、同時に並行する国道と交差し、ここで一旦自転車道は終了する。
この北方で勝間田川を渡るが、駿遠線時代のコンクリート橋台(写真BC)が今も両岸に残されている。
橋の先からは一車線の舗装路に転換される。しかし道路中央と橋台のセンターが微妙にずれているのは何とも不思議な光景だ。
市街地の中を進む道路は、やがて静鉄バスの営業所に突き当たる。ここが榛原町(写真BD)で、かなり大きな敷地を持っていたようだ。ちなみに当地の地名は静波となっている。
駅を後にするとルート上に生活道と住宅地が交互に現われ、途中には鉄道用地に沿った境界線を持つ民家も散見される。
一旦北に向いた路線が再度北東に向きを変え、今度は一車線道路の西側を並走し始める。と、すぐに現れる信号交差点角が静波(写真BE)の駅跡となる。現在は郵便局に利用され、こちらは榛原郵便局と名付けられている。
沿道の家屋などに取り込まれた路盤は、大きな製茶工場の前から再び生活道に転換され、すぐ左に曲がる。更に続く右カーブが終了すると二車線道路と交差し、この北側が細江(写真BF)となる。道がやや広がり、駅跡らしい雰囲気も残されている。
道路上を進むとやがて西隣に用水路が現われ、榛原総合病院の横で両者の位置が逆転する。ここからの水路は鉄道跡地を利用して開削され、以前東側に流れていた河道を直線化させた。この珍しい活用法は次の二代目根松(写真BG)付近まで続く。
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BH |
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なお大正5年の地形図では県道73号線との交点付近に初代駅(写真BH)が描かれ、一度移転されたことを確認できる。
駅を過ぎると再び舗装路と線路跡が一致し、そのまま警察署の裏手を抜け坂口谷川に突き当たる。橋梁は既に道路用として架け替えが済んでいる。 |
22年6月 |
橋の先には歩行者専用の標識が立てられ、一時的に太平洋岸自転車道へと変わる。途中に位置した下吉田(写真BI)は路線廃止前に閉鎖された駅で、当時の駅前道路も既に消滅したため、旧版地形図から大雑把な場所を把握するにとどめた。
さらに県道230号線で分断されたのちは、自動車通行可能な一般道に戻る。ただし別の自転車道が西隣を走るため、妙な錯覚に陥る。
続く上吉田(写真BJ)では久しぶりに駅名標を模した案内板が設置され、これを見るとほっとする。
ここで北北西に向きを変えた廃線跡は、湯日川の手前で県道34号線に並び、自転車道と西側の歩道を兼務する。川に架かる自歩専用橋(写真BK)の橋台、橋脚は当時のものを再利用したようだ。
県道が大きな左カーブを描き神戸南交差点を越えると、自転車道は隣の車道を横断し、両者は分離する。この横断箇所にはルートに沿った地下道(写真BL)が用意されている。
なお国道と比べ鉄道側がやや迂回しているようにも取れるが、地元政治家のごり押しによるとの話を現地で聞いた。
地下道からの右カーブ終了地点が遠州神戸(写真BM)となる。この神戸、全国で多様な読みがあるのには驚かされ、当地では[かんど]と発音する。
道は駅の北で一旦県道に分断されるものの、その先も歩行者専用の標識と車止めが設置された状態で東へと続く。しかし太平洋岸自転車道の文字はいつの間にか消えている。
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BN |
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北東に進む路線の行く手には、「越すに越されぬ」大井川が立ちふさがる。技術面、あるいは費用面の問題なのか、初期には道路橋上に敷設した人車軌道で連絡し、次の併用橋時代を経て専用橋に移行した経緯を持つ。
人車連絡時代は右岸堤防沿いに乗換駅大幡(写真BN)が設けられていたが、直通運転開始と同時に廃止されている。 |
22年6月 |
また専用橋時代の橋台(写真BO)が今も両岸に残り、川底からは「ぼっくい」と呼ばれる橋脚の杭(写真BP)も顔をのぞかせている。
川を渡った後は一旦工場内を通り抜ける。同所東寄りに置かれていたのが左岸側乗換駅の初代大井川(写真BQ)で、ここも人車連絡の終了とともに役目を終えている。 |
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BO |
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17年3月 |
駅の先は、同じ道路転用でも自動車と共存する生活道に姿を変える。堤防に駈け上がる築堤が築かれていた区間だが、現在は大きく削られ、勾配も極端な急坂に変わっている。当時は、まれに登り切れない列車を押すこともあったと聞いた。
道なりに進むと、道路は駅構内の外周を沿うようにクランクする。ここが二代目大井川(写真BR)で、跡地はアパートや店舗等に変わっている。
駅の北を流れる泉川にも当時の鉄橋(写真BS)が残され、橋桁に並べられた枕木の上に縞鋼板をかぶせて、歩行者が通れるよう改修されている。
車両通行止めの規制はないが、幅が狭いため乗用車は通れそうもない。
橋の先で左カーブを描き、一車線道路と鋭角に交差する。この北に置かれていたのが相川(写真BT)となるが、晩年の地図からは姿を消している。上記二代目大井川駅の設置に伴って、統合されたと考えるのが合理的だ。
続いて右に曲がると、今度は田中川が横切る。現在は新規の道路建設中のため迂回を強いられる。
川を越えると農地に取り込まれ、線路跡を直接たどることは不可能となる。
上新田(写真BU)は県道227号線に面した二階建住宅が駅跡に相当し、近隣の民家に駅名標が保管されていると聞いた。
更に北北東に向かう路線は田沼街道と呼ばれる県道33号線との交差後、再び一車線道路に転用される。交差部の踏切は近所の女性が警手を勤めていたとのこと。踏切の先で東名高速をくぐり、進路をふさぐ数軒の建物を抜けると、先程交差したばかりの県道33号線に吸収される。
合流地の信号交差点北側に大洲(写真BV)が設けられていた。現地の新旧地図を比較すると駅位置が若干異なり、道路整備に合わせ初代駅(写真BW)から移設されたと読み取れる。
ここからの県道は線路用地を拡幅して建設され、今では当地の主要道路として通行車両も多い。
次の高州(写真BX)は道路脇の標柱がその位置を示す。駿遠線ではなく籐相鉄道と記されているのは興味深い。
同所で県道から右に離れ、沿道の店舗を飛び越えた先に、再び廃線跡を転用した舗装路が現れる。
やがて近づく東海道線は築堤で越えていたが、その高さに応じて道路幅も徐々に広がる。交差部前後には既に民家等が建ち並び痕跡はないものの、北側の文化施設駐車場(写真BY)がカーブして造られ、これが築堤跡と一致する。また乗客が列車を押したとの逸話を、沿線で最も多く聞いた難所でもある。
駐車場の先からは一車線道路となって西に向かう。ただ盛土用地の一部は沿道の住宅に取り込まれたようでもある。
途中で県道33号線を横切り、この交差角に埋め込まれたコンクリート構造物(写真BZ)は、駿遠線の踏切機器台座と言われている。
開業時の初代藤枝新(写真CA)は、東海道線からやや北に離れた場所に設けられていた。しかし藤枝駅周辺は既に区画整理が終了し、今では正確な跡地を探し出すことは不可能に近い。
駅はのちに院線との接続を改善する目的で、現JR駅の北東脇に移設された。新藤枝(写真CB)と名称こそ変わったが、実質的には藤枝新駅の二代目に相当する。その跡地には既にマンションが建ち並び、当時の面影はどこにも残されていない。
当駅でスイッチバックし、藤枝中心部へ向かうルートは大手線とも称され、新旧ふたつの路線が存在した。ただこちらも再開発の影響で経路の確認は諦めざるを得ない。空中写真から唯一確認が取れるのは、駅前道路の東側に平行する舗装路で、ほんの100m程の区間のみだ。
旧東海道の東奥を北上する旧線側の青木(写真CC)は地形図に記載がないため、藤枝市郷土博物館の資料により位置を把握した。駅北方の青木川を越すと一車線道路(写真CD)に転用され始め、次の志太(写真CE)もこの延長線上となる。
さらに北上を続ける道路は、やがて瀬戸川に突き当たる。川を越えていた当時の木橋は新線への切替え時に撤去されたものの、現在は新たな歩行者専用橋が旧線跡に架橋され、その後を引き継いでいる。
手前の道路は鉄橋で越えていたとの話を聞いたが、こちらも既に痕跡は無い。
旧田沼街道に沿って進む新線側(写真CF)は歩行者専用道に利用され、やはり瀬戸川まで続く。
南側を流れる青木川の歩道橋直下には、水面から当時の橋脚らしき遺構(写真CG)も顔をのぞかせている。
途中でアンダーパスする旧国道1号線は、建設時に旧線との平面交差が問題となり、これを避けるべく新線に切替えたと言われている。原因者負担の原則からすると、費用の大半は公費ということになる。
しかし単に踏切を排除するだけなら鉄道側を持ち上げ陸橋とすればよく、瀬戸川の橋梁移設まで必要とした大幅な経路変更は、別の意図があったのかと勘ぐりたくもなる。
瀬戸川の左岸で新旧両路線が合流し、一車線の舗装路として北東に向かう。堤防脇に設けられていたのが瀬戸川(写真CH)で、ここから旧来の藤枝市街地に入る。
駅北側の下り勾配を終え、更に進むと県道32号線が横切る。この交差点に藤枝本町(写真CI)が置かれ、駅跡らしい広がりも見られる。最近まで木造駅舎が残されていたようだが、すでに解体され、廃材の檜で記念の鉛筆を作ったとの話も耳にした。
さらに一旦大きなS字カーブを描いたのち、慶全寺前(写真CJ)から緩やかな右カーブが始まると、そのまま県道215号線に接近し道路脇を並走する。
県道は当時の国道1号線で、藤枝バイパスが完成するまでは当地の大動脈を担っていた。
大半の期間で終着駅を務めた大手(写真CK)には書店や銀行等が建ち、大きな構内であったことは偲ばれるが、鉄道の雰囲気はどこからも感じ取れない。
ここから先は籐相鉄道時代に廃止されたため、大手線と区別され別途岡部線と呼ばれる場合もある。その跡地は旧国道沿線の店舗等に取り込まれ、直接はたどれない。
路線廃止後に校名変更した、現藤枝北高校の玄関口を担った農学校前(写真CL)。駅跡は民家として利用され、今では周囲と完全に同化しているため場所の特定にはやや苦労させられた。
駅の北で旧国道を横切り、ホームセンターを抜けると水守(写真CM)に到着する。ここは土地宝典から位置を把握できるが、既に住宅用地として升目に区画変更され、駅を想像できるものは何一つ残されていない。
そのまま建ち並ぶ民家を抜けた先に、八幡橋跡の標柱(写真CN)を見つけることができる。やや劣化が目立ち、うっかり見過ごしそうなのが残念なところ。
更に農地と民家が混在する中を北に進むと、線路跡を転換した一車線の舗装路が現われる。ただこの道は集落内に限定され、すぐ農地に飛び込んでしまう。
その農地内を北に向かう路線上に、連続して二本の河川が横切る。葉梨川と朝比奈川で、共に橋梁跡を見つけることはできない。両河川の間には工場脇をすり抜ける未舗装路が延び、現地でこの道を廃線跡と聞いたが、空中写真では道路と微妙に角度のずれるルートが認められるため、鉄道とは関係ないと判断した。
川を越えると住宅地内に入り込み、さらに横内白髭公園内を通り抜ける。公園入口に籐相鉄道の碑(写真CO)が立てられるものの、鉄道名が記されるのみで、線路跡等の表示は何もない。
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CP |
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公園の北方に設けられていた横内(写真CP)も、地元で教示を受けたのは路線のルートのみで、残念ながら駅に関する情報は得られなかった。ただしその正確な所在地は、土地宝典で確認することが可能だ。 |
22年6月 |
続いて国道1号線藤枝バイパスをアンダーパスすると、鉄道用地は住宅地から工場、店舗等へと変化し、相変わらず路盤上を直接トレースすることはできない。
再び住宅地に戻り、更にグランドに変わると終点駿河岡部(写真CQ)に到着となる。駅跡には立派な市民ホールが建設されている。
場所に関しては異なる話も聞いたが、多数側の意見を尊重した。 |
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CQ |
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17年3月 |
-軍用軌道-
地頭方~新三俣間延伸時に利用したといわれている軍用軌道跡。駿遠線よりもさらにクネクネしていたらしいが、今残されるのは遠江射場のホーム跡(写真CR)だけとなっている。
藤枝駅前周辺変遷図
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参考資料
- 鉄道ファン通巻246号/静岡鉄道駿遠線/臼井茂信 著
- 軽便の思い出/静岡新聞社/阿形昭 著
参考地形図
1/50000 |
静岡 |
[S28応修] |
住吉 |
[S27応修] |
掛川 |
[S31資修] |
家山 |
[S27応修] |
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御前崎 |
[S31資修] |
磐田 |
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1/25000 |
下平川 |
[S2鉄補] |
袋井 |
[T6測図/S31三修] |
住吉 |
[T5測図/S31三修] |
向谷 |
[S31三修] |
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焼津 |
[S2鉄補/S32資修] |
島田 |
[T5測図/S31三修] |
相良 |
[S31三修] |
千浜 |
[S31二修] |
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御前崎 |
[S31二修] |
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No173・279に記帳いただきました。
最終更新日2023-9/24 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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