静岡鉄道駿遠線を訪ねて

廃止鉄道ノート東海  減速進行

 地区:静岡県藤枝市 区間:駿河岡部〜新藤枝〜新袋井69.4km 軌間:762mm全線単線 動力:蒸気内燃

日本一長いと言われた軽便鉄道。その始まりは官設鉄道と旧市街地、あるいは鉄道から取り残された地区を結ぶ二社から始まった。第二次世界大戦中に、国の政策により両社を含む域内の会社が合併し、静岡鉄道へと名を変えた。通常は旧来の路線を存続させることに汲々とするところだが、同社は積極的に路線を延ばし、藤枝と袋井を一本のレールで結んだ。ここに全線通しで四時間近く必要な長大路線が完成した。


 略史
大正 2 (1913) - 11/ 16 籐相鉄道 開業
3 (1914) - 1/ 12 中遠鉄道 開業
昭和 18 (1943) - 5/ 15 籐相鉄道、中遠鉄道、静岡電気鉄道等が統合、静岡鉄道となる
23 (1948) - 9/ 6 静岡鉄道 駿遠線連絡部 全通
45 (1970) - 7/ 31        〃 当日を以て全廃

 路線図



 廃線跡現況
A 藤枝と袋井からそれぞれ路線を延ばしてきた駿遠線。中遠鉄道側から全線をたどってみた。

東海道線の南側に隣接していた袋井(A参照)は、近年の南口整備により大きく変貌している。西に向かって出発した列車はすぐに左カーブで方向を変える。ここは当時の築堤が残され、駐車場として利用されている。
17年3月
駐車場脇に立つ三本の木製電柱(B参照)は当時から残されていると聞いたが、三本すべてなのか一部だけかの確認は取れなかった。

カーブが終了すると県道41号線に合流する。県道の東側を併走していた路盤は、すでに道路拡幅に利用されている。県道上を進むとすぐ新幹線をくぐる。実際に交差していたのは三年弱だが、今も駿遠線架道橋の銘板が付く。
B
17年3月
C 次の信号交差点で一旦県道から東に離れるが、分岐点付近の小川に煉瓦造りの橋台(C参照)を発見する。更に川を越え沿道に建ち並ぶ住宅の中を抜けると、公会堂となった柳原に着く。

駅の南で小笠沢川を渡り、再び県道に合流する。なおこの川に橋梁の痕跡はない。
南に向いた道路が左、右、左と緩やかなカーブを繰り返すと、駿遠線は県道から東に別れ、歩行者専用道としてつながっていく。
17年3月
歩行者道に入って最初の駅は諸井(D参照)。駅名標を模した案内板も立てられ、ベンチを備えた休憩所として利用されている。道路上のマンホールに、軽便鉄道が描かれた四角い蓋が採用されているのは面白い。

道路をしばらく南下すると、機械工場の横に小さな橋(E参照)が架かる。ここは鉄道時代の橋梁をそのまま再利用し、横からのぞくと大きさの異なるガーダー桁が並んで見える。
D
17年3月

E 次の(F参照)も駅名標によりその位置を知ることができる。





F
17年3月



17年3月
G 同じく案内板のある浅名を過ぎると、図書館にぶつかり一旦線路跡は消滅する。ただ県道41号線との交差後は、再び歩行者専用道としてそのルートをたどることが出来る。なお図書館向かいの公園にレプリカのSLが展示されている。

道なりに進むと太平洋に流れ込む弁財天川が横切る。ここに架かる人道橋(G参照)もやはり当時の橋梁を再利用したもので、煉瓦造りの橋台は十分に歴史を感じさせてくれる。
17年3月
川の東に設けられていた五十岡(H参照)はホーム跡が残され、休憩所としてきれいに整備されている。
道路から歩行者専用の標識が消え、自動車通行可能になると新岡崎に到着する。駅名標や笠原軽便電車道の案内板もあるが、実際の跡地は一車線道路を挟んだ西側となり、今は消防施設や事務所として利用されている。

駅を過ぎると県道41号線の歩道として南に向かう。そのまま三沢川を渡り、左岸堤防上に移る。堤防道路のフェンスに新三輪の案内板も取り付けられているが、旧版地形図とずれがあり、場所の特定は保留した。
H
17年3月
I しばらく堤防道路を南下し、本流の弁財天川が西から近づくと堤防から離れ、南東に向きを変える。路盤跡は既に区画整理された農地に変わり、跡地をたどることは不可能となっている。堤防への上り勾配で速度が遅く、走行中の列車に飛び乗ったこと等の話を地元で耳にした。

再び県道と併走したのち、今度は細い舗装路に転換され、左カーブを描く。ホーム跡が今も顔をのぞかせる石津(I参照)はこのカーブ途中に位置し、その東方には踏切設備の基礎を見つけることもできる。
17年3月
カーブが終了し向きを東に変えると一車線の生活道と併走をはじめる。一見歩道のように見えるが、両者とも自動車通行可能となっている。

しばらく進み大須賀新川を越えると生活道は二車線に広がり、鉄道用地はその歩道へと変わる。道路が用水路に突き当たって終了する手前に七軒町が設けられていたが、駅位置を示す案内標はない。
駅の先からは当時の路盤が空き地(J参照)として残されている。
J
17年3月
K 横須賀の市街地に入ると一旦県道41号線に合流する。ただこれも短区間で、信号交差点を越えるとすぐ南に分離し、跡地は工場、生活道、水路(K参照)の順に利用される。

この水路は新横須賀の駅跡に建つスーパーに突き当たって終了する。
17年3月
ここから東は密集地に飲み込まれ、ルートを直接トレースすることは不可能で、西大谷川にも痕跡は無い。

その中で大須賀交番の西向かいに、橋台跡(L参照)を見つけることができる。しかし川は既に暗渠に変わり上部は歩道となったため、住宅地の中で異様とも思える姿をさらしている。由来を記した説明板、標柱等が設置されれば、見る目も変わるかも知れない。
L
17年3月
M 県道沿いの民家裏手を走り、遠鉄バスの駐車場等を抜けると、二車線道路にぶつかる。ここが河原町で、道路を中心とし東西の花壇付近が駅構内に相当する。

ここからは旧道に沿って進み、現在は北側の歩道として活用されている。一旦右に緩やかに曲がったのち左に反転し、現県道と交差する。その手前で小さな川を越えるが、歩道側の橋(M参照)は鉄道時代の橋台、橋桁がそのまま使用されている。
17年3月
県道との交差後は一車線の生活道として続き、しばらくして変則五差路を過ぎると未舗装(N参照)に変わる。竹藪に囲まれた作業道のような雰囲気だ。

ただこの区間は短く、すぐ一車線道路に合流する。合流地点の工場南付近に野中があったと思われる。工場にはひと気がなく、すでに廃業した雰囲気が漂う。
N
17年3月
O 駿遠線の跡地を転用した道路は茶畑に囲まれた山の中腹を東へと向かい、途中から未舗装路(O参照)に変わる。一部に藪が深く立ち入りが難しい箇所もある。

やがて民家の車庫裏に出て、道路は終了する。
17年3月
この東方は民家が建ち並ぶが、その中に少し空き地が広がる。野賀(P参照)の駅跡だ。この一画は南側を通る市道の拡幅に伴う代替地として鉄道用地が提供されたため、道路転用されず住宅内に取り込まれたと聞いた。ちなみに市道は北側のみ6m拡幅されたとのこと。

駅を出ると一旦その市道と交差した後、左カーブで接近しそのまま合流する。ここからの市道は廃線跡を拡幅転用したもので、二車線の快適な舗装路となっている。
P
17年3月
Q 大浜公園入口の手前に位置した谷口は、店舗前に駅名標が立つ。ただ痕跡も雰囲気も全て消し去られている。
駅の東から始まるなだらかな勾配を下ると南大坂(Q参照)に到着し、駐車場となった駅跡にはやはり案内板が設けられている。なお西隣の舗装路が当時の駅前道路に相当する。

続く大坂北交差点付近から市道を右にはずれ、沿道の住宅を抜けると、一車線の生活道として線路跡が姿を現わす。この道路は緩やかな左カーブを描き、T字交差点に突き当たって終了する。
17年3月
突き当たり正面が中遠鉄道時代の終点新三俣(R参照)で、跡地は民家等に変わる。その中にある事務所駐車場の片隅には、遠慮がちに駅名標が立てられている。
またレールは駅の東にも続き、今は電気部品工場に変わった旧農協への引き込み線として、菊川手前まで延びていた。ここは舗装路に変わっている。

本線側は駅のやや東で右に曲がり、住宅地に飛び込む。そのまま大東支所の角をかすめ、農地と住宅が混在する中を南東方向に進むが、残念ながら痕跡は見つけられない。
R
17年3月
S 左カーブで南に向きを変えると、そのまま二車線の市道に合流する。この合流地点が西千浜で、やはり駅名標が設けられ、駅跡の特定が容易なのはありがたい。
しばらく南下すると道路から再び分岐し、左カーブで東に向きを変え国道150号線に合流する。国道は鉄道用地を利用して建設されたものの両者は完全に一致するわけではなく、ほぼ直線状に続く道路に対し、鉄道側は丘陵を避けながら右に左にと、ふらふらルートを変えながら進んでいた。

共に痕跡の消えた菊川と高松川を渡った先に千浜が設けられていた。ここも道路脇に駅名標あり。駅の東で鉄道側は北に大きく離れ、農協の北側に回り込む。現在は完全な藪地と化し、直接ルートをたどることは不可能となっている。丘陵を迂回した後、国道の20m程北を平行して進むと合戸(S参照)に到着する。
17年3月
駅の先で国道に合流し、しばらく両者のルートは一致する。

浜岡の市街地に近づくと道路は四車線化される。この地点に塩原新田が設置されていた。案内板は道路北脇に立てられているが、実際の駅は南側の空き地付近にあったと考えられる。
この先で両者は離れ、南側に続く農道が線路跡に相当すると思われるものの、現地で確認を取ることは出来なかった。
T
17年3月
U 農道を東に進むと一旦国道に合流し、更にコンビニを過ぎた付近で再び南に分離する(U参照)。道路脇の空き地には鉄道用地の境界線も認められるが、その先は藪地となり入り込むことは難しい。

続く信号交差点の東で国道と交差し、そのままカーショップの裏手に出る。
17年3月
再び藪地を抜けるとレストランにぶつかり、そのまま国道に吸収されて県道37号線との立体交差に向かう。この交差点東に位置したのが浜岡町(V参照)

道路脇樹木の西側に交換設備を持つ駅構内が広がり、東側の現駐車場付近には引き込み線を持つ倉庫が建っていた聞いた。しかし、その大きな構内の大半は国道に飲み込まれ、痕跡を見つけることはできない。連続していた駅跡表示が当駅で途切れたのも残念なところ。
V
17年3月
W 道路上を東へと向かい落合川と新野川を渡ると、鉄道跡の国道転用は終了し両者は完全に分離する。左カーブで北東に向きを変えた鉄道側は、池宮神社の大きな鳥居の北を築堤で抜け桜ヶ池(W参照)に達する。駅名標はあるが、農地等に転用された跡地にその雰囲気はない。

駅を出て右カーブを描くと、まず一車線道路、続いて二車線の市道に合流する。市道は廃線跡を拡幅転換して造られ、途中の遠州佐倉には駅名標と共に運行時の写真、路線図等を載せた案内板も添えられている。
17年3月
続く玄保にもに写真が飾られ、当時を偲ぶことが出来る。
道路はここから一車線となり、そのまま筬川に突き当たり分断される。鉄道橋梁の痕跡は消滅している。

川を渡り県道240号線と交差した後、道路は南にふくらむようにクランクする。ここが堀野新田(X参照)で、保線の詰め所も備えたかなり大きな駅だったと聞いた。構内は既に住宅地へと変わるが、道路は南端をかすめるようにつながっていく。
X
17年3月
Y 駅を過ぎると道幅が更に狭まり遊歩道状態となるが、国道150号線との交差箇所に地下道が設けられているのは驚きだ。交差後も一車線の生活道として続き、再び国道をアンダーパスで渡り戻す。
地下道から地上に出ると道路脇に静岡御前崎自転車道線の県道標識が現われ、自動車の通行が禁止される。通称では太平洋岸自転車道と呼ばれているようだ。

道路が緩やかに左カーブを描き北に向きを変えると、正面に工場建屋が見える。藤枝から延びてきた籐相鉄道の終着駅、地頭方(Y参照)だ。やはり大きな構内を持った駅跡には住宅や工場が建ち並び、自転車道はその西端を通り抜ける。
17年3月
駅北方の東沢川では鉄道の橋台(Z参照)が両岸とも放置され、自転車道はなぜか西側に新たな橋が新設されている。
道なりに北に進むと、道路脇に立つ落居の駅名標を確認できる。その先で西側を並走する横須賀街道と交差し、その位置を入れ替える。なお参考とした旧版地形図では交差箇所の北側に駅位置が記され、何らかの理由により駅が移動したと考えられる。

自転車道のはずだが大半の車止めは外され、また車両通行止の標識もないため、自動車の乗り入れも散見される。ただ通過車両はなく、危険を感じることはない。
須々木もその道路途上に設けられていた。
Z
17年3月
AA しばらくして自転車専用道から一般道に切り変わると、進路をやや西に振り横須賀街道を横切る。この手前に位置したのが波津
駅の北方には当線唯一の小堤山トンネル(AA参照)が掘削され、この区間のみ自転車道が復活し、由来を記した銘板も埋め込まれている。

トンネルを出た後は相良の市街地に飲み込まれ、ルートを直接たどることが不可能となる。その中の静鉄バス営業所は新相良駅跡の北半分を利用したもの。南側の商店等にも跡地が含まれ、間を抜ける県道69号線が当時の駅前道路に相当する。
17年3月
駅の北も住宅地となるが、一区画飛び越えると再び生活道として姿を現わし、栄丁通りと交差する(AB参照)。ここには踏切番が置かれ、女性が遮断機の上げ下ろしをしていたと聞いた。
踏切の先は相良高校のグランドに飛び込み痕跡は消える。

学校の東を流れる萩間川は護岸工事の真っ最中で、橋梁の痕跡は認められない。川の左岸から線路跡は生活道に転用され、相良は最初の十字路北側に設置されていた。
AB
17年3月
AC 生活道はやがて道路中央に車止めが出現し、歩行者専用道に変わる。

すぐ二本の小川を連続して渡るが、共に鉄道時代の橋台とプレートガーダーがそのまま転用されている。両者の橋台が石積み(AC参照)とコンクリート製(AD参照)に分けられているのは面白い。
17年3月
右カーブで向きを一旦東に変え、旧国道と現国道150号線を連続で横断したのち、北に進路を戻し、国道の東脇を併走し始める。なお国道交差点には地下道が設けられている。

しばらくは国道にぴったり寄り添い歩道のような形で続くものの、坂井地区に入ると両者は徐々に距離を置き、独立した自転車道として「太平洋岸自転車道」の案内標識も出てくる。道中の小橋梁には、鉄道時代の橋台を改修、再利用している箇所もあるようだ。
AD
17年3月
AE 沿道は同じような景色が続くため現在地の特定すら難しくなるが、途中に設置されていた太田浜は国道の坂井バス停横、同じく片浜(AE)は同名バス停横と判断した。後者は、構内東端に沿ったと思われるクランクも見られる。

駿河湾を右手に見て更に北上すると、大きな左カーブを描く。と、同時に並行する国道と交差し自転車道は終了する。この北で勝間田川を渡るが、駿遠線時代のコンクリート橋台(AF参照)は今も両岸に残されたままだ。
17年3月
橋の先からは一車線の舗装路に転換される。しかし道路中央と橋台のセンターが微妙にずれているのは何とも不思議だ。

市街地の中を進む道路は静鉄バスの営業所に突き当たる。ここが榛原町(AG参照)で、かなり大きな敷地を持っていたようだ。なお当地の地名は静波となっている。
AF
17年3月
AG 駅を後にするとルート上に生活道と住宅地が交互に現われ、途中には鉄道用地に沿った境界線を持つ民家も散見される。そのまま北東に向きを変え、一車線道路の西側を並走し始める。最初の信号交差点角に静波が設けられていた。現在は郵便局となり、こちらは榛原郵便局と名付けられている。

沿道の家屋などに取り込まれた路盤は、大きな製茶工場の前から再び生活道に転換され、すぐ左に曲がる。更に続く右カーブが終了すると二車線道路と交差し、この北側が細江となる。道がやや広がり、駅跡らしい雰囲気も残されている。
17年3月
道路上を進むとやがて西隣に用水路が現われ、榛原総合病院まで来ると両者の位置が逆転する。ここからの水路は鉄道跡地を利用して開削され、以前東側に流れていた流路を直線化させた。次駅の根松(AH参照)付近まで続き、当線の中では珍しい活用法だ。

駅を過ぎると再び舗装路と線路跡が一致し、そのまま警察署の裏手を抜け坂口谷川に突き当たる。橋梁は既に架け替えが済んでいる。
橋の先には歩行者専用の標識が立てられ、一時的に太平洋岸自転車道へと変わる。途中に位置した下吉田は痕跡もなく、駅跡の特定は難しい。
AH
17年3月
AI さらに県道230号線で分断されたのちは、自動車通行可能な一般道に戻る。ただし自転車道も一緒に西隣を走るため、妙な錯覚に陥る。

続く上吉田には久しぶりに駅名標を模した案内板が設置されており、これを見るとほっとする。
ここで北北西に向きを変えた廃線跡は湯日川の手前で県道34号線に並び、自転車道と西側の歩道を兼務する。湯日川に架かる専用橋(AI参照)の橋台、橋脚は当時のものを再利用したようだ。
17年3月
県道が大きな左カーブを描き神戸南交差点を越えると、自転車道は隣の車道を横断し、両者は分離する。この横断箇所にはルートに沿った地下道(AJ参照)が用意されている。

分岐点から右カーブが続き、北東に向きを変え終わった地点が遠州神戸。線路がやや迂回しているようにも取れるが、地元政治家のごり押しによるものとの話だ。
この神戸、全国で多様な読みがあるのには驚かされる。当地では[かんど]と発音する。
AJ
17年3月
AK 道は駅の北で一旦県道に分断されるものの、その先も歩行者専用の標識と車止めが設置された状態で東へと続く。しかし太平洋岸自転車道の文字はいつの間にか消えている。

場所を特定できない大幡を過ぎると、大井川に行く手を阻まれる。技術面かあるいは費用面の問題なのか、初期には人車軌道で連絡し、次の併用橋時代を経て専用橋に移行した経緯を持つ。その橋台(AK参照)が今も両岸に残り、川底からは「ぼっくい」と呼ばれる橋脚の杭(AL参照)も顔をのぞかせている。
17年3月
左岸に渡った駿遠線は一旦工場内に入ったのち、すぐ生活道に姿を変えて現われる。堤防に駈け上がる築堤が築かれていた区間だが、現在は大きく削られ、勾配も極端な急坂に変わっている。当時は、まれに登り切れない列車を押すこともあったと聞いた。

道なりに進むと、道路は駅構内の外周を沿うようにクランクする。ここが大井川で、跡地はアパートや店舗等に変わっている。
AL
17年3月
AM 駅の北東を流れる泉川にも当時の鉄橋(AM参照)が残され、橋桁に並べられた枕木の上に縞鋼板がかぶせられ、人車が通れるように改修されている。枕木が再用品なのか、判断はつかない。
なお車両通行止めの規制はないが、幅が狭いため乗用車は通れそうもない。

橋の先で左カーブを描き、続いて右に曲がると、今度は田中川が横切る。現在は新規の道路建設中で迂回を強いらる。
川を越えると農地に取り込まれ、線路跡を直接たどることは不可能となる。
17年3月
上新田は県道227号線に面した二階建住宅が駅跡に相当し、近隣の民家に駅名標が保管されていると聞いた。
更に北北東に向かうルートは田沼街道と呼ばれる県道33号線との交差後、再び一車線道路に転用される。交差箇所の踏切は近所の女性が警手を勤めていたとのこと。踏切の先で東名高速をくぐり、進路をふさぐ数軒の建物を抜けると、先程交差した県道33号線に合流する。合流点の信号交差点北側に大洲が設けられていた。

ここからの県道は線路用地を拡幅して建設され、今では当地の主要道路として通行車両も多い。次の高州(AN参照)は道路脇の標柱がその位置を示す。駿遠線ではなく籐相鉄道と記されているのは興味深い。
ここで県道はやや西寄りに進路を振るが鉄道側は真っ直ぐ進み、沿道の店舗を飛び越えた先の一車線道路が廃線跡に相当する。
AN
17年3月
AO 市街地にとけ込み鉄道の雰囲気を消した道路は、東海道線を越すための上り築堤部にかかると徐々に幅員を広げる。と、同時に民家に突き当って終了してしまう。
オーバークロスの痕跡はないが、北側の文化施設駐車場(AO参照)がカーブして造られ、ここが路盤と一致する。また乗客が列車を押したとの逸話を、沿線で最も多く聞いた難所でもある。

駐車場の先からは一車線道路の南沿いを西に向かう。ただ痕跡もなく地元で確実な情報は得られなかった。
17年3月
JR駅の東北側に設けられていた新藤枝(AP参照)は既にマンションが建ち、更に現在進行形で再開発中のため、痕跡は何も残されていないと考えられる。

なお駿遠線は藤枝駅の北地区で数度の路線変遷を繰り返したが、中心地は既に区画整理が終了し正確な跡地を探し出すことは不可能に近い。空中写真から唯一確認が取れるのは、駅前道路の東側に平行する舗装路で、県道222号線から北上して突き当たる迄の200m程の区間のみ。
AP
17年3月
AQ 開業時の藤枝新はやや北に離れた場所に置かれ、スイッチバックして駿河岡部に向かうルートも新旧両路線が存在した。こちらは側は大手線とも称される。

その旧路線は旧東海道の東奥を北に向かい、青木川を越すと一車線道路(AQ参照)として姿を現わしそのまま瀬戸川橋梁につながる。現在は歩行者専用のふれあい大橋で渡ることが出来る。その手前に跨道用の鉄橋があった事を聞いたものの、途中の青木志太各駅は位置の特定が不可能だった。
17年3月
旧田沼街道に沿って進む新線側(AR参照)は歩行者専用道に利用され、やはり瀬戸川まで続く。途中でアンダーパスする旧国道1号線は、開通にあたり旧線との平面交差が生じるため、これを避ける目的で立体交差の新線が敷設された。しかし踏切を排除するだけなら鉄道側に跨道橋を設ければよく、瀬戸川の橋梁移設までした大幅な経路変更の真意は別にあった可能性もある。

なお青木川の遊歩道橋下には、水面から当時の橋脚らしき痕跡が顔をのぞかせている。
AR
17年3月
AS 瀬戸川の左岸で新旧両路線が合流し、一車線の舗装路として北東に向かう。堤防脇に設けられていたのが瀬戸川。ここから旧来の藤枝市街地に入る。

駅北側の下り勾配を終え、更に進むと県道32号線が横切る。この交差点に藤枝本町(AS参照)が置かれ、駅跡らしい広がりも見られる。最近まで木造駅舎が残されていたようだが、すでに解体されている。廃材の檜で鉛筆を作ったとの話も耳にした。
17年3月
一旦大きなS字カーブを描いたのち、慶全寺前から緩やかな右カーブが始まる。そのまま県道215号線に接近し、道路脇を並走する。県道は当時の国道1号線で、藤枝バイパスが完成するまでは当地の大動脈を担っていた。

大半の期間で終着駅を務めた大手(AT参照)には書店や銀行等が建ち、大きな構内であったことは偲ばれるが、鉄道の雰囲気はどこにも感じられない。
AT
17年3月
AU ここから先は籐相鉄道時代に廃止されたため大手線と区別され、別途岡部線と呼ばれる場合もある。その跡地は旧国道沿線の店舗等に取り込まれ、直接はたどれない。今は高校に変わった農学校前の所在を現地で尋ねるが、納得のいく返答はなくその存在すら忘れ去られてしまったようだ。

駅の北で旧国道を横切り、ホームセンターを抜けると水守に到着する。周囲は住宅用として升目に区画変更されたため、駅跡は推測にとどまざるを得ない。
そのまま建ち並ぶ民家を抜けた先に八幡橋跡の標柱(AU参照)を見つけることができる。やや劣化が目立ち、うっかり見過ごしそうなのが残念なところ。

更に農地と民家が混在する中を北に進むと、一車線の舗装路が現われる。この道が線路跡に一致するものの、用途は集落内の生活道に限定されるため、すぐに終了し再び農地に変わる。
17年3月
北に向かう路線上に連続して二本の河川が横切る。葉梨川と朝比奈川で、共に橋梁跡を見つけることはできない。両河川の間には工場の間をすり抜ける未舗装路が延び、現地でこの道を廃線跡と聞いたが、空中写真により道路と微妙に角度のずれるルートが認められるため、鉄道とは関係ないと判断した。

川を越えると住宅地に飛び込み、その中で神社に隣接する横内白髭公園内を通り抜ける。この北に横内が設けられていた。公園南の入口には籐相鉄道の碑(AW参照)が立てられているものの、鉄道名が記されるのみで、駅跡とか線路跡等の表示は何もない。
なお地元で確認が取れたのは線路が敷設されていたことだけで、駅に関しての情報は得られなかった。
AV
17年3月
AW 続いて国道1号線藤枝バイパスをアンダーパスすると、鉄道用地は住宅地から工場、店舗等へと変化する。相変わらず路盤上を直接トレースすることはできない。

再び住宅地に戻り、更にグランドに変わると終点駿河岡部(AW参照)に到着となる。駅跡には立派な市民ホールが建設されている。
なお場所に関しては異なる話も聞いたが、多数側の意見を尊重した。
17年3月

 藤枝駅前周辺変遷図





 参考資料
 参考地形図
1/50000  静岡 [S28応修]  住吉 [S27応修]  掛川 [S31資修]  家山 [S27応修]  磐田
 御前崎 [S31資修]
1/25000  袋井 [S31三修]  下平川 [S2鉄補]  住吉  向谷 [S31三修]  御前崎
 焼津 [S2鉄補]  島田 [S14二修]  相良  千浜

 
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