近畿日本鉄道志摩旧線を訪ねて
伊勢電気鉄道 伊賀線 八王子線 松阪線 廃止鉄道ノート東海 減速進行

 地区:三重県鳥羽市  区間:鳥羽~真珠港  軌間:1067→1435mm  動力:電気

志摩電気鉄道が開業した路線は、のちに近畿日本鉄道に合併し志摩線となった。当初は国鉄以外に接続のない孤立した支線だったが、大阪万博の年に改軌・昇圧が実施され、大阪・名古屋から標準軌車両が直通運転を開始した。改軌に際し数十ヶ所で路線改良が行なわれ、特に鳥羽付近では線路の付け替えを伴い、従来の急カーブが大幅に改善されている。改軌後、さらに2ヶ所で新線への切り換えが実施され、複線化を含む改良工事は今後も続くと予想される。

路線図

略史



昭和 4(1929) - 7/ 23  志摩電気鉄道 開業
19(1944) - 2/ 11  三重交通に合同
39(1964) - 2/ 1  三重電気鉄道として鉄道部門独立
40(1965) - 4/ 1  近畿日本鉄道に合併
44(1969) - 7/ 1       志摩線 賢島~真珠港  側線化
50(1975) - 3/ 1        〃 改軌
〃           〃 鳥羽~赤崎他 付替
平成 5(1993) - 6/ 1        〃 穴川 移転
9/ 21        〃 白木~五知 付替
〃           〃 賢島~真珠港 廃止

廃線跡現況

-鳥羽~赤崎-

鳥羽駅跡
A
71年01月
写真左から近鉄、国鉄の順で、中央の空き地が狭軌時代の鳥羽(写真A)となる。今は駅前広場の一部として利用されている。

駅を出て最初の右カーブ区間(写真B)は市道に吸収され、続く左カーブで、鳥羽城の堀として利用された妙慶川を横切る。橋梁は歩行者橋(写真C)として利用されていたが、現在は市道の岩崎大橋が同所に架かる。

B
71年01月
C
71年01月
妙慶川橋梁跡

D
71年01月
対岸の鳥羽水族館(写真D)はすでに海岸沿いに移転し、建物の西側を走っていた線路跡転用の舗装路も、新たな区画整理によって姿を消している。

水族館の跡地は駐車場となり、傍らには金属製の架線柱が立てられている。しかし当時は木製であったことから、改軌後の単線区間から移設されたものと考えられ、位置にも若干のずれがみられる。
鳥羽工場跡
E
71年01月
左カーブ終了地点の西側、葬儀会館の駐車場が鳥羽工場(写真E)跡で、小さいながらも全車両の整備を受け持っていた。
城山トンネル跡
F
71年01月
ここからの線路跡は生活道に転換され、新線を左手に見ながら進むと、正面に城山トンネル(写真F)が現れる。当時の姿を保ちつつ、今も道路トンネルとして活用されている。

トンネルを抜けた先で新線と合流(写真G)する。切り換え直後に残っていた橋梁痕も、その後の複線化、二代目中之郷(写真H)の建設によって既に過去のものとなってしまった。なお初代駅は、踏切ひとつ南側に置かれていた。

G
71年01月
H
71年01月
二代目中之郷駅

この先にもカーブの緩和箇所(写真I)があり、旧線側の用地がそのまま残されるため確認が取りやすい。カーブ終了地点の赤崎トンネル(写真J)は、付け替えに伴い東側の坑口が移動しているようでもある。

I
20年10月
J
20年10月
赤崎トンネル

-白木~五知-

初代白木駅跡
K
21年01月
トンネルによって、五知峠の勾配と急カーブを緩和させた区間となる。

北側の初代白木(写真K)は大きなS字カーブの中間に位置したが、改軌時に曲率が緩和され、駅もやや東の現在地に動いた。
L
21年01月
旧線(写真L)の一部区間は道路に転用されるものの、通り抜けが不可能なため、利用するのは地元の農家ぐらいか。
M
20年10月
改軌後、更に青峰トンネルの完成に合わせ、複線化された上でルートが再度変更されている。移行前の線路の一部が今も残され、保線車両の留置線(写真M)として使われている。
N
20年10月
留置線の先で狭軌時代の旧線と合流し、国道167号線と平行しつつ、峠に向かっての登り勾配が続く。合流点の先は放置状態のため、直接跡地をたどることは難しく、道路側から観察する他ない。途中にコンクリート橋(写真N)を見つけるが、草木に覆われてうっかりすると見過ごしそうでもある。
O
20年10月
しばらく進むと一旦国道から離れ、東奥に入り込む。バラストが残されているためか雑草は少なく、路盤(写真O)上の歩行も可能だ。途中までは小道が隣接し、家屋も数軒あるが全て廃屋と化している。

小さな橋梁痕(写真P)が現れると、ここから先は白木川右岸の藪地に変わり、足を踏み入れることが困難になる。その後、伊勢志摩クリーンセンターの前で再び国道に並び、路盤の確認が可能となる。一部に残存する枕木(写真Q)も確認できる。

P
20年10月
Q
20年10月

R
20年10月
しかし相変わらず路面には草木が密生し、跡地を直接たどることは難しい。

その中に放棄された橋梁(写真R)を発見する。撤去費用がかさむためなのか、今もプレートガーダーが載せられたままだ。
S
20年10月
藪地と化した区間が多い中、一部には見通しのきく箇所(写真S)も混在するが、長く続かないのが厄介なところ。やむなく道路側に迂回すると、境界の擁壁に組み込まれた架線柱の台座(写真T)が目にとまる。

廃止直後は随所に残されていたレールや架線柱本体(写真U)も、既に撤去が完了したようだ。

T
20年10月
U
96年07月

V
20年10月
五知峠は軽い切通しで進み、眼下を走っていた国道と位置関係が逆転する。路盤(写真V)の判別は容易で、無理をすれば歩ける程度の状態が保たれている。
W
20年10月
サミットを過ぎ下り勾配に掛かると、すぐに水路跡(写真W)を見つける。構造や風化具合から狭軌時代の遺構と考えるが、改軌に合わせて改造したのか、桁の間隔は1500㎜程を示している。
なお近くには、数本の枕木も放置されている。
X
96年07月
ここは国道側から線路跡(写真X)を視認できる区間で、以前は、今にも列車が走ってきそうな雰囲気だったが、20年時点では既に森林と同化し、鉄道の存在そのものを隠しているようでもある。
Y
21年01月
青峰トンネルを抜け出た新線が左手に見えると、行く手には跨道橋の橋台(写真Y)が現れる。年代を感じさせるものの、狭軌時代のままなのか、改軌時に改修されたものか、判断はつかない。
二代目五知駅
Z
20年10月
その先が二代目五知となり、旧線は西側の広場(写真Z)付近を通り抜けていた。初代駅はかなり南方に設けられていたが、すでに痕跡はきれいに消し去られている。

-穴川付近-

AA
20年10月
穴川トンネルによってルートの改良が図られた区間で、新旧両線の分岐部には、付替え前の架線柱(写真AA)が残されている。リゾート施設に沿って走る旧線敷では、さらに数本の架線柱と雑木に埋もれたレール(写真AB)を垣間見ることができる。標準軌のレールが放置された廃線跡は珍しく、貴重でもある。

リゾート南口に架かる道路橋は、線路と直角ではあるものの、鉄道橋跡(写真AC)を上手く利用して架けられている。

AB
96年07月
AC
20年10月

初代穴川駅跡
AD
20年10月
橋の東方には、狭軌時代の穴川(写真AD)が置かれていた。既に更地に戻されてはいるが、入り組んだ場所のためか、いまだ利用計画は未定のように受け取れる。

駅の南でコンクリート橋(写真AE)を渡り、そのまま県道61号線と交差(写真AF)する。

AE
20年10月
AF
20年10月


二代目穴川駅跡
AG
96年07月
さらに駐車場を抜けた先に、二代目穴川(写真AG)が設置されていた。改軌と同時に移転開業した駅だが、トンネル完成により現在は三代目へと引き継がれている。

跡地はやはり更地とされるものの、その先の路盤を含めて、藪地化への進行が加速しているようでもある。

-賢島~真珠港-

賢島駅
AH
96年07月
賢島(写真AH)にも変遷がある。当初は地上駅だったが、改軌時に高架ホームを追加して特急専用とし、旧駅側は普通列車用に使い分けていた。その後、地上駅が廃止され、現在は高架ホームに統一されている。
南口に隣接するとがった屋根の建物が、地上時代の駅舎となる。
AI
96年07月
地上にホ-ムがあった時代は、海岸の港に向かって貨物線がつながり、駅の先は市道に沿ってゆるやかな曲線(写真AI)を描いていた。今その跡地は、駐車場や店舗らしき建物に利用されている。
真珠港駅跡
AJ
96年07月
カーブ終了地点の住宅を抜けると、真珠港(AJ参照)に到着する。港と言っても真珠業者に向けた設備で、一般的な漁港や貨物船が寄港する港湾とは趣が異なっていた。

駅は改軌時に閉鎖され一旦留置線へと変わったが、のちの賢島改造工事によりレールが分断されてしまい、以南の路線と命運を共にした。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル219号/鳥羽線建設および志摩線改良について/近畿日本鉄道株式会社

参考地形図

1/50000   鳥羽   波切
1/25000   鳥羽 [S34二修]   磯部 [S42改測]   浜島 [S42改測]

 69年当時の各所

 No212に記帳いただきました
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最終更新2021-1/19 
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