三重電気鉄道松阪線を訪ねて
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 地区:三重県松阪市  区間:松阪~大石(20.2km)/平生町~大口(2.8km)  軌間:762mm/単線  動力:蒸気→電気

松坂牛の産地、本居宣長の生誕地などで有名な松阪。他にも伊勢商人三井家発祥の地として知られる一方、道に迷いやすく、観光バスの運転手泣かせの評判もある。この松阪から西に向い、櫛田川沿いの大石まで軽便鉄道が延びていた。

略史

大正 1(1912) - 8/ 17  松阪軽便鉄道 開業
*8(1919) - 7/  松阪鉄道に改称
昭和 3(1928) - 1/ 20  松阪電気鉄道に改称
19(1944) - 2/ 11  三重交通に合併  同社松阪線となる
23(1948) - 1/ 21     平生町~大口 休止
39(1964) - 2/ 1  三重電気鉄道として鉄道部門分離独立
12/ 13       松阪線 当日限りで廃止
40(1965) - 4/ 1  近畿日本鉄道に合併

路線図

路線変遷図



廃線跡現況

国鉄駅に隣接していた松阪(写真A)。廃止後は三交百貨店に生れ変わったが、20年時点で建物は既に取り壊され、更地の駐車場に変わっている。駅を出ると右カーブで向きを南西に変え、その線路跡(写真B)は舗装路として利用される。

A
94年11月
松阪駅跡
B
20年10月

C
21年01月
平生町駅跡
道路上を進み、左手に児童公園が見えてくると平生町(写真C)に着く。公園の他は店舗が多数を占め痕跡は見つからないが、一角を占める料理店の店先に、駅跡を示す案内板が掲示されている。

港へ向かう大口線はここから分岐していた。
D
94年11月
茶与町駅跡
駅の南方で、伊勢街道と呼ばれる県道60号線と交差する。街の中心地区でもあり、街道沿いには松阪牛の名店や、焼き肉店も軒を並べる。

南へと続く道路の突き当たりに位置したのが、茶与町(写真D)。以前は三交旅行等の関連会社に利用され、今は学習塾と駐車場に変わっている。
E
94年11月
花岡駅跡
さらに数軒の建物を飛び越えると、再び生活道としての転用が始まる。

国道42号線に続き県道756号線と交差し、この南側が花岡(写真E)となる。県道は旧伊勢電気鉄道の線路跡を利用して建設されたもので、当時はここで両線が立体交差し、駅を結ぶ連絡通路も設けられていた。今では上方を通過していた伊勢電の遺構が一部残るのみだ。
F
20年10月
駅部田駅跡
駅部田(写真F)は小さな切通を過ぎた先、道幅が一車線から二車線に広がる地点のはずだが、正確な位置の調査はあきらめ、旧版地形図からの把握にとどめた。

道路はしばらくして県道147号線と交差した後、金剛川にぶつかり終了する。
G
20年10月
篠田山駅跡
川の対岸に篠田山(写真G)が設けられていた。

駅の先は一部が竹藪となり、その中にガーダーを載せたままの小橋梁跡(写真H)を発見する。
続いて県道160号線沿いの店舗裏を抜けると、放置された路盤(写真I)が現れ、そのまま県道に接近し東脇を併走する。跡地の大半は沿道の店舗に取り込まれ、駐車場等として利用されている。

H
20年10月
I
94年11月

J
20年10月
その後、旧道(写真J)が左に分かれると鉄道側もこれに並ぶが、長くは続かず、やがて旧道とも離れてしまう。直後から当時の路盤が復活し、はじめは車の轍が確認できるものの、次第に雑草が増え(写真K)、最後は背丈ほどの高さになる。ルートを利用した送電線も確認できる。

雑草が減少し路面上に轍が復活すると、蛸路(写真L)へと滑り込む。道路脇に残るホーム跡は草木に覆われ、うっかりすると見落してしまう。

K
20年10月
蛸路駅跡
L
94年11月

M
20年10月
この先、一直線で続く線路跡(写真M)は地元の農道として利用され、途上で国道42号線と交差する。続く孫川を越えた先の、十字路東方に下蛸路(写真N)が設けられていた。

路面は未舗装から舗装路へと変わり、鉄道らしさの残る勾配とカーブで南西に向きを変えたのち、圃場整備の済んだ農地内を抜けて中万(写真O)に至る。

N
20年10月
下蛸路駅跡
中万駅跡
O
94年11月

P
94年11月
射和駅跡
駅を出ると県道701号線に合流する。この先の県道は、松坂線の用地を拡幅転用して建設された。

射和(写真P)は主要駅でもあり、側線を持った広い構内を生かしてバスロータリーに転換されている。
阿波曽(写真Q)は同名バス停が目印となり、続く(写真R)のバス停名は射和幼稚園前とされている。南側へ延びる駅前道路の先に幼稚園が見える。

Q
94年11月
阿波曽駅跡
庄駅跡
R
20年10月

S
94年11月
御麻生園駅跡
御麻生園(写真S)にもやはり同名バス停が置かれ、北側車線が線路跡に相当し、道路は南側へ拡張されているとの話を地元で耳にした。

同所から県道番号も700号へと変わる。
T
20年10月
大師口駅跡
更に大師口(写真T)では、赤い屋根のガレージ付近に駅舎があったこと、交換可能駅で構内は広く、北に向かって長いホームが延びていたこと、郵便局の建つ旧道側から出入りしたこと、北行車線が線路跡で南行車線が拡幅されたこと、等の話を聞くことができた。
U
94年11月
片野橋駅跡
その後、櫛田川支流の六呂木川沿いに進み、ゆるやかな丘陵を越える、旧道と併走していた区間で、鉄道が南、道路が北を通っていた。歩道の幅が変動するのは、両者の間隔がそのまま表れたものと思われる。

峠を過ぎると国道166号線に合流し、直後に片野橋(写真U)が設けられていた。以前は食堂が建っていたが、既にコンビニへと変わっている。
V
94年11月
大石駅跡
国道上を西に向かい、線路跡と国道に若干のずれが生じ始めると、終点大石(H参照)に到着となる。当然のことながら、蒸気時代に開業した終着駅として大きな構内を持ち、鉄道廃止後は三重交通のバスターミナルに利用されている。

下記参考資料によると、櫛田川で荷揚げされた木材を運び込む、トロッコ軌道も接続していたようだ。

-大口支線-

W
20年10月
当初は、伊勢湾に面する大口港へも線路が延びていた。

平生町で分岐し(写真W)、すぐに紀勢本線と近鉄線を陸橋で越える。ただ近鉄線は当線より後に開通しているため、橋の延長が必要なはずで、当時どのような工事が施行されたのか、興味を引かれるところでもある。
今は前後の築堤を含めて痕跡は無く、詳細なルートも判然としない。
X
20年10月
一旦市街地の中に消えた路線は、国道166号線を越えた後、一車線の舗装路(写真X)として姿を現す。

唯一の中間駅天神(写真Y)は国道23号線の南方に位置し、町内会の掲示板付近にホーム跡らしきコンクリートの塊があったと聞いた。
国道との交差後、倉庫の間(写真Z)を抜けるとルート上に水路が現れる。鉄道跡としては幅が狭く、用地の北半分を利用して開削されたようだ。

Y
20年10月
天神駅跡
Z
94年11月

AA
94年11月
大口駅跡
市道を利用し水路を迂回すると、クレーン置き場にたどり着く。ここが終点の大口(写真AA)となる。跡地には車両を含めた資材が雑然と置かれ、残念ながら鉄道の雰囲気を感じ取ることはできなかった。

貨物線が更に工場地帯まで続いていたが、痕跡は残らず正確な位置を探しだすのは難しい。旧版地形図では、現在の自動車学校付近が最終地点となっている。

参考資料

  1. 三重の軽便鉄道/三重県立博物館

参考地形図

1/50000   松阪 [S24応修]   二本木 [S12二修]   丹生 [S32要修]
1/25000   松阪 [T9測図/S12二修]   松阪港 [S12二修]   大河内 [S34資修]   横野 [該当無]

 No149・220に記帳いただきました
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2020-12/13最終更新 
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