地区:北海道厚岸郡浜中町 区間:茶内~西円朱別(7.8km)/秩父内~上風蓮(13.4km)/中茶内~別寒辺牛(7.8km)
軌間:762mm/単線 動力:馬力→内燃
道東の殖民軌道内では有数の輸送実績を誇り、全線が動力化された上で昭和47年まで運行され、全簡易軌道のアンカーを務めた。また途中で浜中町に移管されたが、支線はそれぞれ厚岸町と別海町へも足を延ばしていた。
略史
| 昭和 |
2(1927) - |
11/ |
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殖民軌道 茶内・円朱別線 |
開業 |
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17(1942) - |
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簡易軌道に名称変更 |
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28(1953) - |
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浜中町営となる |
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| 昭和 |
47(1972) - |
4/ |
1 |
〃 軌道 |
廃止 |
路線図
廃線跡現況
-茶内線-
根室本線との接続駅茶内(写真A)。昭和の後半まで残った殖民軌道最終組だが、始発駅構内は細道が一本通るのみで、残りは空き地として放置されたままだ。
JR線に並行して出発した列車は、やがて左カーブでほぼ直角に向きを変える。カーブ途中からは雪印工場(写真B)への引込線が分岐し、多くの牛乳が運び込まれた。工場は社名を変えて今も操業中だ。
カーブ終了地点の右前方に置かれていた車庫(写真C)跡は、既に駐車場への変換を終えている。続く人工水路のようなノコベリベツ川を越えると、路盤跡は放置され雑木林へと姿を変えるため、ルートを直接たどることは難しくなる。
この一画を抜けた先で、国道44号線を横切る。同所に設けられていた国道(写真D)は、JA浜中町の敷地に組み込まれた。なお途中の各駅は地形図に記載が無く、下記参考資料や当時の写真等を元に駅位置を判断した。
駅の先もしばらくは樹木帯と牧草地に軌道跡を消され、茶内西四線から作業道(写真E)として復活する。道路突き当りのオラウンベツ川は雑草に邪魔され、橋梁の痕跡は見つからない。
川の対岸はやはり荒れ地と牧草地が入混じる中、路線は少しずつ道道807号線に近づきやがて合流する。この手前に位置したのが秩父内(写真F)で、整備された駅跡には保線詰所が残され、歴史を記した案内看板も立つ。円朱別線との分岐駅でもある。
北西に向かう茶内線は道道と位置を入替え、その北脇(写真G)を併走し始める。途中には交差道路名を冠した西八線(写真H)、西九線(写真I)、西十線(写真J)と細かく続く。ただし各駅とも痕跡は残らず、おおよその位置を把握したに過ぎない。駅の西方で道道は右にカーブを描き、直進する軌道側は再び農地内に入り込む。西十一線(写真K)は、そのトウモロコシ畑の一角を占めていたはず、としか言いようがない。
若松線との分岐駅となる中茶内(写真L)。茶内西十二線に分断された構内西側は既に民家等に変わり、待合室が置かれていた東側は空き地のままだ。内燃化以前は北方の集乳所まで側線が延びていたと下記参考資料1に記されるも、正確な経路の把握は難しい。
ここでやや北寄りに向きを変え、右手の道道を横切り、茶内第三小学校の裏手を右カーブで駆け抜ける。路盤(写真M)は放置状態だが、クマザサにより雑木が抑えられ、植生が異なるため跡地を明確に区分できる箇所もある。
カーブ終了地点が校名を元とした第三学校(写真N)で、通常なら付くはずの「前」が無いのは、位置関係を考慮した結果なのか、あるいは単なる付け忘れか。なお同校は茶内市街の茶内小学校に統合され、2009年に廃校となっている。
ここからの路線は大半が牧草地内を横切るため、ルートの把握は困難と言わざるを得ない。西十四線(写真O)もこの一画に含まれ、遠望のみにとどめた。
西十五線(写真P)付近は、少しだけ作業道として利用される。この北で渡る二号川は雑木林に取り囲まれ、アクセスが難しいため橋梁痕の確認は取れていない。萩の里(写真Q)もやはり牧草内で、道道807号線から遠望するにとどめた。
駅の北は丘陵を避けるように、右へ左へと大きく屈曲して進み、西十七線を越えた地点でJA施設内に至る。西円農協支所前(写真R)の置かれた場所となる。
駅の手前から、クーラーステーション(写真S)と称される牛乳の冷蔵施設への側線が分岐していた。こちらも今では一面に雑木が生い茂り、施設跡、線路跡共に判別がつかない。
本線側も雑木林の中で5号川を渡り、続く牧草地を越え、既に廃校となった西円朱別小学校へと向かう。同校が西円朱別(写真T)跡地に建てられ、終点として備えられた車庫、転車台が隣接する西円朱別農民研修センターの一角を占める。
-若松線-
中茶内駅から分岐する若松線。北西に向かう路線は他線同様、起伏に富んだ牧草地(写真U)に飲み込まれ、軌道跡を探す術が見つからない。
西十六線との交点に置かれた上茶内(写真V)。牧草地に隣接する雑草地内に鉄条網で結ばれた柵杭が立ち並び、当時の用地境界を示すようにも見える。位置は殖民軌道各線別粁程表による中茶内駅からの距離程2309mを計測した結果だが、下記参考資料は共に駅名を西十六線とし、これは途中で駅名変更された可能性を示している。
その後、一旦、二車線の町道(写真W)脇を併走するも、すぐ左に分かれ定番の牧草地に飛び込む。ここで南西へと向きを変えしばらく進むと、左手に一軒の牧場が現れ、参考資料2の路線図は建ち並ぶ施設の奥に上茶内(写真X)を描く。駅の先は道道813号線(写真Y)に近づき、やがてその東脇を併走し始める。と同時に浜中町から厚岸町へと町境を越えるが、軌道は引き続き浜中町が運営に当たった。
オラウンベツ川の手前に位置したのが若松(写真Z)で、内燃化後に若干場所が変わった可能性もあるが、詳細は把み切れていない。南方の高知小中学校周辺は軌道が西、道路が東と両者の位置が逆転した区間で、その後、旧道部が放棄され、軌道跡が道路に転換されている。同校は25年時点で休校中とされ、ひと気の無い校庭脇に、当時使用されたと思われる集乳缶が放置されたままだ。
終点の別寒辺牛(写真AA)は道道脇を進んだ先、南十八号と交わる十字路北東に設けられていた。転車台も備えていたが、一部が歩道に重なるため、道路拡幅工事中に撤去されてしまったようだ。終点といえども近くに集落はなく、現時点で見渡す範囲に民家はない。一般の旅客鉄道ではありえないが、殖民軌道では、たまに見かける光景だ。
-円朱別線-
秩父内から分岐する円朱別線。こちらもまずは牧草内(写真AB)から始まる。その後、町道に近づき、西脇を併走し始める。当初は雑木に邪魔されるが、やがて路盤(写真AC)を認識できる箇所が増えてくる。町道と位置を入替え東脇に移り、南四号を越した地点が四号(写真AD)となる。
いったん離れた町道と再合流した先に下茶内(写真AE)が置かれていた。駅を出ると両者は再び分離し、軌道側は牧草地内へと入り込む。参考資料2によると、途中のノコベリベツ川に橋台と築堤が残されているとされるが、今回、現地までたどり着く術はなかった。続く中円朱別(写真AF)、宮の岡(写真AG)は共に牧場施設の一角を占め、駅らしい雰囲気はどこにも残されていない。
馬鉄時代の終点円朱別(写真AH)は昭和40年の延伸時にやや北に移され、同時に東円朱別(写真AI)へ駅名変更されたと思われる。延伸区間は駅直後に左カーブを描いて北西に向きを変え、そのまま北十号道路脇(写真AJ)を進む。
西十線との交差付近に設けられたのが日向前(写真AK)で、直近の牧場名がそのまま駅名になったようだ。また施設の片隅にレール(写真AL)が放置され、その形状から町営軌道の残痕と捉えてよさそうだ。
軌道はこの先で再びノコベリベツ川を渡るが、牧草地の最深部に相当するためアクセスは難しい。同所の橋梁痕に関しては参考資料2に詳細が記される。また河川の対岸は別海町へと変わるが、軌道は引き続き浜中町が越境運営していた。
川を越えしばらく進むとルート上に未舗装路(写真AM)が現れ、これが線路跡の転用道路となる。
道路が緩やかな左カーブを描き始めた地点で両者は別れ、直進する軌道側は樹林帯を抜けて殖民区画の十九号に突き当たる。ここが終点の上風蓮(写真AN)で、きれいに整地された駅跡の片隅に転車台の一部が顔をのぞかせ、傍らには由来を記した説明板も立てられる。別海町の文化遺産にも指定されているようだ。
-保存車両-
参考資料
- 北海道の殖民軌道/レイルロード/今井啓輔 著
- 北海道の簡易軌道/イカロス出版/石川孝織・佐々木正巳 著
参考地形図
| 1/50000 |
姉別 |
[S46編集] |
霧多布 |
[S45資修] |
茶内原野 |
[S17修測] |
厚岸 |
[S30測量] |
| 1/25000 |
東円朱別 |
[S45修正] |
茶内 |
[S45修正] |
茶内原野 |
[S43修正] |
糸魚沢 |
[S31測量] |
制作公開日2025-11/13 *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*
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