地区:福岡県北九州市 区間:北九州市内 軌間:1435mm/複線 動力:電気
門司、小倉、戸畑、八幡の各市を結び、北九州市誕生の原動力ともなった路線。道路上を走る路面電車のため、基本的には何も残されていないが、一部の区間に道路から外れた専用軌道が敷設され、その遺構が今も各所に存在する。
略史
明治 |
44(1911) - |
6/ |
5 |
九州電気軌道 |
開業 |
昭和 |
17(1942) - |
9/ |
21 |
西日本鉄道に合同 |
|
平成 |
12(2000) - |
11/ |
26 |
〃 北九州線 |
全廃 |
路線図
廃線跡現況
-砂津付近-
門司から国道3号線上を南下する北九州本線。砂津の東方にあった旧日田線との交差は、踏切を設けた国道と分離され、南側の専用軌道で乗り越えていた。
後年開通した新幹線の高架橋には軌道用の大きな開口部(写真A)が残され、築堤となっていた跡地は、十分すぎる程の広い歩道に生まれ変わっている。
また日田線も廃止からすでに半世紀以上が経ち、両線の交差箇所(写真B)に痕跡は見つけられない。
交差後、一旦国道上へ戻った直後に砂津車庫への引込線(写真C)が分岐する。93年時点では車庫(写真D)の中にまだ複数の車両(写真E)が取り残されていたが、現在はその大きな敷地を活かしたショッピングモールへと生まれ変わっている。
この西側に砂津が設けられていた。
レール上にアスファルトを冠しただけの国道を進むと、米町から小倉駅前(写真F)へと至る。路面はその後の再舗装によりきれいな四車線道路となり、今は頭上にモノレール軌道も横切る。
-戸畑線-
戸畑線は国道199号線上の大門で本線から分かれ(写真G)、直後に併用軌道から専用軌道へと移行する。
日豊本線を越える跨線橋を含めて市道に隣接していたため、用地の大半は道路拡幅に利用されている。
鹿児島本線と競演していた中井口~中原間(写真H)も、残念ながら当時の面影は既になくなってしまった。
専用軌道は三六でいったん終了し、その後は市道上から再び国道199号線上に乗入れる。
終点の戸畑(写真I)だけが道路を離れ、若戸渡船の乗り場前に駅を構えていた。バスターミナルとして利用された時期もあるようだが、22年時点ではただ空地が広がるのみだ。
-枝光線-
戸畑線の幸町から分かれた枝光線は沖台通で市道上を脱し(写真J)、専用軌道となって鹿児島本線越えに挑む。直後の線路跡には住宅が立ち並び、その西端、舗装路との交点に跨道橋の橋台(写真K)が残される。
ここから当時の築堤(写真L)が西へと続き、今も西鉄が所有していると聞いた。残念ながら道路に面していないため、宅地としての利用価値はなさそうだ。
築堤は鹿児島本線に突き当たって終了するが、同線と側道を一括で越えていた陸橋(写真M)が今も現存する。
道路側が石積橋台なのに対し鉄道用はコンクリート製となり、桁もPC桁のように見える。途中で一度更新されたと考えてよさそうだ。
立体交差の先は住宅が建ち並び、一部がその街路に利用されている。
徐々に向きを南へと変えた路線は、やがて県道50号線の東隣を併走し始める。直後の歩道橋南側に牧山(写真N)が設けられていたものの、駅跡は斜面の住宅街に埋没し、当時の雰囲気は一切伝わってこない。
その南方で市道が上を横切る。県道の東隣に路面電車分のスペースを確保した、同所の陸橋(写真O)は今も健在だ。
続いてルート上にやや低めの橋台(写真P)を見つける。水路用と思われるが、隣の細道も同時に越えていたのかもしれない。いずれにせよ複線用の幅があるだけで、立派な大橋梁跡に見えてしまう。
しばらく公園や駐車場として利用されてきた跡地は、ここからまた築堤(写真Q)としてつながっていく。途中には架線柱らしき台座も顔をのぞかせているが、確証は掴めない。
ゆるやかな下り勾配の終了間際に県道とやや距離を置き始め、同時に宅地への転用が再開される。用地の形に合わせたのか、アパートも散見される。
二度目となる鹿児島本線との交差北側には、やはり背の低い橋台(写真R)が残されている。歩行者用の跨道橋のようにもみえるが、用途は判然としない。
当初は国鉄枝光駅の正面に位置したはずの枝光駅前(写真S)。連続高架化により国鉄側の駅が移動したため、昭和中期以降は若干距離が離れてしまった。
駅の南方で再度県道に並ぶと線路跡は東側の歩道として転用され、次の枝光本町(写真T)までつながる。
その後は一旦県道を横切り西側に位置を移すが、やがて道路上に乗り入れ、併用軌道として本線に合流していた。
-熊西~折尾-
筑豊電気鉄道の黒崎駅前~熊西間は、かつて乗入れていた北九州本線を引き継いだもので、熊西の西方で両線が分岐(写真U)していた。同所には今も架線柱の一部が残り、西鉄時代の面影をかすかに残している。
線路跡は駐車場として使われたり、一部で放置されつつといった状態で、あっという間に次の皇后崎(写真V)に着く。ただし跡地は全て舗装で覆われ、駅を示す痕跡はどこを探しても見つからない。
すぐ西を流れる割子川には、煉瓦積の橋台(写真W)が残されている。大正に入ってからの開業区間だが、一瞬、明治時代の建設かと惑わされる。
川を越えると路盤跡には住宅が建ち並び(写真X)、途中に「にしてつホーム」の看板も見受けられる。両側を道路に挟まれるため、出入りには便利そうでもある。
この宅地街の西端が陣ノ原(写真Y)で、路面電車らしく西行ホームが市道の東側、東行は反対の西側と、それぞれが千鳥に配置されていた。
駅から西は道路に転用され、旧来の細道が広い歩道付きの生活道に生まれ変わっている。
道なりにしばらく進むと、道路脇に当時の築堤(写真Z)が現れる。しかし、こちらも宅地化への準備が着々と進んでいるように見受けられる。
築堤はゆるやかな左カーブを描いたのち国道3号線に並び、右手には鹿児島本線も平行する。鉄道時代の遺構なのか、空地となった路盤上には数多くのコンクリート柱が点在する。
続く右カーブで国道と別れた直後、煉瓦造りの橋台(写真AA)を確認する。河川らしき水の流れはないが、少し離れた国道側にも橋梁があることから、南手に広がる瀬板貯水池の放水路と思われる。
さらにカーブ終了地点の金山川では、道路化の計画でもあるのか、スルーガーダーを載せたままの橋梁(写真AB)が残されている。
ただ上記橋台との材質や老朽度の違いを考えると、河川改修時に一度更新されたとみて間違いはなさそうだ。
橋の先から道路に転用され始めるものの、工事車両専用道路の標識が掲げられ、関係者以外の立入は禁止されている。
その途中、県道281号線との交差部に折尾東口(写真AC)が設けられ、やはりホームは道路を挟んだ千鳥配置が用いられていた。
工事用道路の終了地点から連なる煉瓦造りの高架橋(写真AD)は、一部に「ねじりまんぽ」と呼ばれる特殊な構造が採用され、今では数少ない貴重な遺構とされている。
続いて越えるJRの短絡線は、平成の半ばから始まった折尾駅改修工事の一環として既に新線に切り替わり、現状の線路はいずれ撤去されるものと思われる。
終点の折尾(写真AE)は煉瓦橋上の高架駅となっていたが、こちらも構造物は撤去済みで、今はJR駅前広場の一部に組み込まれている。
具体的には市民トイレ付近となるが、この表現には若干抵抗があり、写真もやや離れた位置から撮影した。
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻319号/西日本鉄道北九州線/瀬川義之 著
- 鉄道ピクトリアル通巻451号/小倉軌道・徳力軌道沿革史/谷口良忠 著
参考地形図
1/50000 |
小倉 |
[S26応修] |
折尾 |
|
|
|
|
|
1/25000 |
下関 |
[S6鉄補] |
小倉 |
[S50修正] |
折尾 |
[H2修正] |
八幡 |
[S44改測] |
82年当時の各所
旧日田線交差東側 写真Aの逆方向
旧日田線交差西側 写真Bの逆方向
制作公開日2022-4/27 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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