北恵那鉄道を訪ねて
大井線 廃止鉄道ノート東海 減速進行

 地区:岐阜県中津川市  区間:中津町~下付知/22.1km  軌間:1067mm/単線  動力:電気

付知川沿いの木材搬出を目的として建設された鉄道。木曽川での水力発電用ダム建設から派生した事業だったため、初代社長には当時電力王と呼ばれた福沢桃助が就いている。終点の下付知で森林鉄道に接続し、起点では貨物のみ中央線に乗り入れていた。鉄道路線なきあとは北恵那交通と社名を変え、バス、タクシー等を中心事業として発展している。

路線図

略史



大正 11(1922) - 2/ 15  北恵那鉄道 設立
13(1924) - 8/ 5     開業
昭和 53(1978) - 9/ 19      廃止

廃線跡現況

連絡線跡
A
21年2月
旅客列車の乗り入れはなかったが、貨物専用の連絡線(写真A)が中央線の中津川駅まで延び、その跡地はJRの構内通路として利用されている。
連絡線の下り終了地点に中津町(写真B)が設けられ、鉄道廃止後は後継会社となる北恵那交通の拠点として活用されていたが、21年時点ではすべて駐車場に切り替わっている。

線路跡を利用した歩行者道路(写真C)や脇に置かれた廃車体も、道路新設を伴う整備事業によって既に過去のものとなってしまった。

中津町駅跡
B
94年6月
C
94年6月

D
21年2月
駅の先では未舗装の通路(写真D)として利用される箇所もあるが、すぐ第一中津川橋梁(写真E)に行く手を阻まれる。

次の第二橋梁(写真F)もデッキガーダーが残され、共に水流の早い中央部の橋脚のみ円形の断面を持つのが面白い。

第一中津川橋梁跡
E
21年2月
F
21年2月
第二中津川橋梁跡

さらに当線最大の遺構ともいえる木曽川橋梁(写真G)が続き、伊勢湾台風の増水を契機として4m程嵩上げされた姿を見せている。
一時は中津川市による遊歩道化の話もあったらしいが、現在は立ち消えてしまったようだ。ただ一級河川にこれだけの遺構が残されるのは珍しく、貴重でもある。
G
94年6月
初代恵那峡口駅跡
H
94年6月
川の対岸に置かれていたのが初代恵那峡口(写真H)となる。橋梁嵩上げ以前に使われていた駅で、旧版地形図には堤防道路との交差部に描かれるが、当時は平面交差だったことから道路の南脇と考えるのが合理的だ。
二代目恵那峡口駅跡
I
94年6月
橋梁につながる路盤が盛土されたことにより、駅も西に移動され二代目(写真I)となった。しばらくはホーム階段が残されていたが、今は骨組み用と思われるレールの台座(写真J)が数箇所目に付くのみだ。

路線は一旦地元の生活道に転換されるが、これもすぐに終了し、再び大きな橋梁(写真K)に行く手を阻まれる。やはり一箇所円形の橋脚が採用されている。

二代目恵那峡口駅ホーム跡
J
21年2月
K
21年2月

L
21年2月
すでに急カーブと急勾配が連続する最大の難所に差し掛かりつつあり、跡地は山道(写真L)として続くものの、途中の第一山之田川橋梁(写真M)から先は進むことが難しい。
続く第二、第三、第四橋梁の確認はあきらめ、県道を迂回して最初に見つけるのが民家脇に放置された路盤(写真N)となる。

第一山之田川橋梁跡
M
21年2月
N
21年2月

第五山之田川橋梁跡
O
94年6月
農地に転換された箇所もあり、その中に第五橋梁の橋台(写真O)が姿を見せている。

路線はそのまま県道6号線に近づき、西脇を併走すると山之田川(写真P)に着く。ホーム背面の石積は残されるが、線路側は埋められてトラックの駐車場となっている。また構内西側では地面からレール(写真Q)も顔をのぞかせているが、走行用に使用されたものか判断が難しい。

山之田川駅跡
P
94年6月
Q
21年2月

R
21年2月
ここから先は農地転換や市道の拡幅、放置(写真R)など利用方法が目まぐるしく変わる。さらに築堤に続く数軒の民家を過ぎると、今度は一車線の舗装路(写真S)が続く。山沿いの険しい地域を走る路線の中で、ホッとするような、のんびりした光景が広がる。

道なりに進み変則五差路に達すると、その西が苗木(写真T)となる。貨物側線や倉庫を備えた構内はすでに宅地造成され、大半の区画は埋められている。

S
21年2月
T
94年6月
苗木駅跡

麦搗川橋梁跡
U
21年2月
相変わらず多様な活用方法が繰り返される中で、国道257号線との交差後には、麦搗川の石積橋台(写真U)を見つけることもできる。

上苗木(写真V)は農地に囲まれた和菓子店が目印となるが、漠然と畑が広がるのみで駅跡らしい雰囲気は一切感じ取れない。
さらに圃場整備された農地の中でやや北に向きを振り、再び国道と交差し東側に位置を変える。一部に放置された築堤や路盤(写真W)を確認できるが、やがて竹藪に行く手を阻まれてしまう。

上苗木駅跡
V
94年6月
W
21年2月

旧国道交差部
X
94年6月
藪地の先には旧国道との交差(写真X)が待ち構える。鉄道側が下をくぐっていた箇所だが、跡地は既に埋め戻され、建設工事で切り取られた地盤を復活させたかのようだ。当時の立体交差を証明する道路橋は今も残されるが、なぜか名称に跨線橋の文字はない。
並松駅跡
Y
94年6月
ここで現国道に並んだのち、再び旧国道を越えると並松(写真Y)に到着する。長く原形をとどめていたホームや待合所も今は無く、宅地造成された上で買い手を待つばかりとなっている。
Z
21年2月
駅の北方に続く築堤の大半はクマザサ等に覆われるものの、太陽光パネルが並ぶ区間や、一部の民家裏では手入れされた路盤(写真Z)を見せる箇所もある。

国道沿いの「くりくりの里中津川」で築堤は終了し、その先は道路脇の空き地に変わる。
関戸駅跡
AA
94年6月
ゆるやかな上り勾配の途中に設けられていた関戸(写真AA)は、やはり当時の築堤が撤去され、駅の痕跡も認められない。

その後も国道の西側を走る路線は、しばらくして右手に別れる旧道脇へと移る。築堤となる箇所もあれば、道路脇に空き地(写真AB)として放置される箇所もある。途中に藪地も出てくるが、これを抜けると松島川の石積橋台(写真AC)が目に飛び込む。

AB
21年2月
AC
21年2月
松島川橋梁跡

美濃福岡駅跡
AD
94年6月
川を越えた先が美濃福岡(写真AD)となり、跡地の大半は21年時点も空き地のままで、片隅に立てられた石碑が駅のあったことを示すだけだ。

駅を出た後は掘割の中を進み、そのまま国道257号線の下を抜けていたが、道路の改良工事により当時の景観はすっかり消えてしまった。
付知川橋梁跡
AE
21年2月
国道の西側に移動した路線は続けて付知川を渡る。ここからの線路跡は歩行者道に転換され、橋梁(写真AE)もそのシンボルとしてデザイン性の高いものに架け直されている。
同所の福岡ふれあい文化センターには金属製のゲート(写真AF)が設置され、ローマン渓谷遊歩道の案内看板も掲示されている。また道中の橋梁には、鉄道用(写真AG)をそっくり転用した箇所も見られる。

AF
21年2月
AG
21年2月

栗本駅跡
AH
21年2月
遊歩道が終了した後、先に続く未舗装路には車両進入禁止の立て看板が掛けられる。ただし轍が認められることから、地元の作業道として利用されている様子がうかがえる。

看板に隠れるように残されているのが栗本のホーム跡(写真AH)で、珍しく玉石の石積擁壁を採用している。
AI
21年2月
道なりに進むと、鉄道時代の石積橋台を利用した小橋梁(写真AI)を見つけることが出来る。桁は換装されるものの、普通車の通行には十分耐えそうだ。また道路沿いに廃屋(写真AJ)も現れるが、住居ではなく観光客向けの店舗跡と思われる。

散策路としては快適なルートだが路面状態はけっして万全とは言えず、バラストが残る箇所や、一部には未撤去の枕木(写真AK)も顔を出している。

AJ
21年2月
AK
21年2月
未撤去の枕木

柏原川橋梁跡
AL
94年6月
車両通行禁止区間が終わると舗装路に変わり、そのまま柏原川橋梁(写真AL)につながる。今も二連のプレートガーダーを載せたままで、当時の雰囲気をよく伝えている。
美野下野駅跡
AM
94年6月
橋の北方に位置したのが美濃下野(写真AM)で、以前はホーム、駅舎が残されていたが、21年時点では更地とされ、何らかの土地利用計画が進行しているようでもある。
AN
21年2月
この先はクマザサの密集(写真AN)から藪地へと変わり、足を踏み入れることが難しくなる。

その荒れ地を抜けると再び草木のない路盤が現れ、歩行も可能となる。切通(写真AO)や水路跡(写真AP)等を確認しながら進むが、バラスト、枕木が放置された路面の凹凸は激しく、速度はなかなか上がらない。

切通跡
AO
21年2月
AP
21年2月
水路跡

AQ
21年2月
農地との境にある獣害除けの柵ゲートを過ぎると、右手から付知川を渡って国道が近づきそのまま合流する。一部で歩道(写真AQ)に利用される箇所も見受けられる。
AR
21年2月
しばらくすると両者はやや距離を離し、北恵那鉄道側は単独の築堤を築いて北上する。この中にプレードガーダー橋(写真AR)が残り、国道側からも視認することが可能だ。
AS
21年2月
続けて小橋梁(写真AS)も見つけるが、こちらは草木の中に埋没する寸前のところだ。さらに一旦藪地を経た後、線路脇に石積の台座(写真AT)が現れる。頂部に4本のボルトが埋め込まれることから、信号等の鉄道用に使用された可能性も考えられる。

この北が田瀬(写真AU)となり、ホーム跡の残る構内は手入れが行き届き、公園のような雰囲気を感じさせる。

AT
21年2月
AU
94年6月
田瀬駅跡

AV
21年2月
引き続き国道と平行して進む路線は山腹の中段に痕跡を残し、一部は道路拡張に供され、一部は落石防止柵の設置スペース(写真AV)として利用されている。しかし歩行不可能な個所も多く、点在したと思われる水路跡(写真AW)の発見はごく少数にとどまる。

道路との高低差が縮まると、今度は小橋梁跡(写真AX)が姿を見せる。外された桁の代わりに枕木が載せられ、人の行き来だけは確保されている。

水路跡
AW
21年2月
AX
21年2月
小橋梁跡

さらに集落付近では民家に取り込まれた区間(写真AY)もあり、その後の藪地を含めて国道へ迂回せざるを得ない。

次の稲荷橋(写真AZ)にもホーム跡が残るものの、以前見られた待合室はすでに跡形もない。
駅の先は二車線の県道に転用され、黒川谷橋梁(写真BA)も新たな道路橋に変わっている。
AY
21年2月

稲荷橋駅跡
AZ
94年6月
BA
94年6月
黒川谷橋梁跡

下付知駅跡 BB その県道が T字交差点で突き当たった先に、終点の下付知(写真BB)が設けられていた。

しばらくは当時の駅舎が原形をとどめていたが、今はただ空き地が広がるのみで、同名のバス停が駅跡の目印となるに過ぎない。
94年6月
駅舎内に掲げられた時刻表(写真BC)によると運行は朝夕限定で、まさに路線廃止を暗示しているようでもある。 BC 時刻表
94年6月

 

-保存車両-

BD 夜明けの森に保存されていた車両(写真BD)は既に解体され、その姿を見ることは不可能となってしまった。
94年6月

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻199号/北恵那鉄道/白井良和 著・・・私鉄車両めぐり
  2. RM-LIBRARY32/北恵那鉄道/清水武 著/ネコ・パブリッシング
  3. 北恵那鉄道/稲垣博司 編/名古屋大学鉄道研究会

参考地形図

1/50000   中津川   妻籠 [S6修正]   付知 [S32二要]
1/25000   中津川 [S52測量]   妻籠 [S52測量]   美濃福岡 [S48測量]   付知 [S48測量]

 No177に記帳いただきました。
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2021-3/24最終更新 
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