地区:茨城県筑西市 区間:大田郷~三所/6.0km 軌間:1067mm/単線 動力:蒸気・内燃
鬼怒川の砂利採取を目的として建設された路線。やがて旅客営業を開始し一時はドル箱路線とも言われたが、バスとの競合により乗客は減少し、資源の枯渇も加わりその役割を終了するに至った。
略史
大正 |
12(1923) - |
8/ |
1 |
鬼怒川砂利専用鉄道 |
開業 |
昭和 |
2(1927) - |
7/ |
1 |
常総鉄道 太田郷~三所間を譲受、鬼怒川線とする |
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20(1945) - |
3/ |
31 |
常総筑波鉄道に改称 |
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39(1964) - |
1/ |
16 |
〃 鬼怒川線、鬼怒川砂利専用鉄道 |
廃止 |
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40(1965) - |
6/ |
1 |
関東鉄道に合同 |
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路線図
廃線跡現況
常総線との接続駅だった大田郷(写真A)。当時は東側が駅前で、西側に鬼怒川線乗り場と貨物側線が配置されていた。現在の駅舎付近を二本の線路が通り抜けていたことになり、この前後は空地として放置されたままだ。
駅の先は歩行者道路(写真B)と重なる部分もあるが、歯科医院の前を過ぎると右カーブを描いて道から離れ、農地の中に進路を向ける。
東西に延びる市道との交差後は、住宅街の中に入り込む。線路用地は宅地として細分化され、痕跡は探しようもない。但し跡地の西側に沿うような街路が設けられ、これが一応の目印となる。
一画を抜け南西に向きを変えた路線は一旦農地内に戻り、この中で内沼川を越えると今度は藪地化した路盤(写真C)が現れ、そのまま林の中へと消える。
二車線の市道との交差で林から抜け出し、再び農地の真ん中を西へと向かう。
途中から農道横に路盤(写真D)を確認でき、藪地化には至らないもののかなり背の高い雑草が密生する。関東鉄道所有のまま売却が進まず、無用の長物化しているようにも思われる。
一部に芝生地(写真E)となる箇所もあるが、ごく短距離にとどまる。
地区の圃場整備は元々の地割を生かして実施されたようだが、鉄道用地は考慮されない箇所も多く、その後はルートの確定が難しくなる。
やや置いて、太陽光パネルが並ぶ一帯の東端に三角形の空地(写真F)を発見する。中途半端な面積で特に活用はされてないようだが、ルートに一致することから、ここを路盤跡と判断した。
パネルの一画を抜けると、未舗装路(写真G)へ転換された線路跡が現れる。但しこれも距離は短く、次の十字路で再び農地内に姿を消してしまう。
しばらく進んだのち、耕作放棄された農地の中から一本のあぜ道(写真H)が始まり、これも路盤の転用に含まれる。圃場整備から取り残されてしまったのか、農地を分断するよう斜めに進むが、途中から舗装路(写真I)へと変わり、地元の生活道として利用されはじめる。
道沿いには距離標(写真J)も残され、二分の一、四、と刻まれる。4.5㎞地点を示していると考えて間違いなさそうだ。続く江連用水には道路橋が新設され、鉄道橋時代の痕跡は見当たらない。
この西側に関本(写真K)が置かれ、晩年は砂利の積み込み拠点となっていたため、構内の広がりを示すような側道が隣接する。
駅を出て数軒の民家を過ぎると、目の前に水田が広がる。やはり旧来の地割を生かした圃場整備がなされ、この中に線路跡の水路転用(写真L)も確認できる。用地幅はかなり削られているが、当時のカーブに沿って緩やかな曲線を描いている。
水路の先は一車線の舗装路(写真M)に変わり、やがて民家に突き当たって左に折れる。ここが終点の三所(写真N)で、折れた側が当時の駅前道路に相当する。傍らには路線の沿革を記した駅跡案内板が立てられ、その存在を後世に伝えている。
砂利採取が本来の目的でもあり、駅からさらに採取企業の線路が河川敷まで続いていた。ただし当時の常総鉄道は、その距離にほぼ匹敵する2kmの貨物線敷設免許を1930年に得ている。これは採取線の譲受に向けた動きのようにも取れるが、正確なところは掴みきれていない。
南北に広がっていた採取場の北側(写真O)は既に藪地化した箇所が多く、南側(写真P)も雑草地となり、その痕跡を探し出すことは不可能と言わざるを得ない。
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻155号/常総筑波鉄道・・・私鉄車両めぐり
参考地形図
1/50000 |
小山 |
[S27資修] |
1/25000 |
下館 |
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制作公開日2022-9/1 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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