地区:茨城県石岡市 区間:石岡~鉾田/27.2km 軌間:1067mm/単線 動力:蒸気→内燃
全国的な私鉄ブームに合わせるように開業した鉄道。当初の社名からは鹿島神宮への参宮路線を目指していたと取れるが、実際の線路敷設は霞ケ浦の北岸地域にとどまった。沿線に集落が少ない中、自動車の普及にも何とか対抗しつつ持ちこたえてきたが、最後は力尽き平成の半ばにその使命を終えた。
略史
大正 |
13(1924) - |
6/ |
8 |
鹿島参宮鉄道 |
開業 |
昭和 |
4(1929) - |
5/ |
16 |
〃 |
全通 |
|
40(1965) - |
6/ |
1 |
関東鉄道に合併、鉾田線となる |
|
54(1979) - |
4/ |
1 |
鹿島鉄道として独立 |
平成 |
19(2007) - |
4/ |
1 |
〃 |
廃止 |
路線図
廃線跡現況
常磐線駅の東側に広大な敷地を有していた石岡(写真A)。北半分は更地のままだが、南半分は線路跡を転用したBRT路線のバスターミナルとして、整備供用されている。
南へと延びる跡地は駅を出た直後からバス専用道(写真B)に変わり、国道6号線の下をくぐったのち左カーブで東に向きを変える。
一般道との交差点ごとに他車の進入を防ぐ遮断バーが取り付けられ、また専用道側に一時停止義務が課せられる箇所が大半だが、例外的にバス優先となる小さな十字路も見受けられる。
ゆるやかな上り勾配が終了すると、南台と呼ばれるニュータウンに差し掛かる。この街路に架かる陸橋(写真C)は、鉄道時代のPC桁を再用したものと思われる。
ニュータウン造成に合わせ、平成初期に設置されたのが南台(写真D)となる。洒落たスタイルの跨線橋やホームは今も原形をとどめたままだが、残念ながら構内への立入は禁止されている。なお同所のバス停名は石岡南台駅に変わっている。
次の東田中(写真E)にもバス停が設けられ、こちらは同名の東田中駅を名乗る。
なおバス停は鉄道時代の駅間に1-2か所増設され、BRT化によって利便性は確実に向上している。ただ県内の日立電鉄線を転用したBRT専用道と比較し、歩行者道の併設がないためか若干ラフな雰囲気が漂う。
左手の運動公園を過ぎた地点で国道355号線が接近し、北隣を併走し始める。その中に玉里(写真F)、新高浜(写真G)と続き、それぞれ同名バス停が設けられている。
ルートを探すのは容易だが、鉄道の痕跡がすべて消し去られる道路転用。しかしこれも次の四箇村(写真H)で終了する。
路線バスは国道上へ乗り移り、無用の長物となった路盤(写真I)は放置されて藪地化し、直接たどることが難しくなる。
長い下り坂が終わるとようやく藪地から解放され、路面(写真J)にはバラストが顔をのぞかせ、レールが残されたままの踏切(写真K)も確認できる。跡地の大半は定期的に草刈りされているようだが、一部には放置された荒地も見受けられる。
県道144号線との交差から舗装路に変わり、そのまま常陸小川(写真L)に滑り込む。駅跡はバスターミナルとして整備され、茨城空港への分岐点ともなっている。
BRT計画は当駅までの予定とされるが、今のところ工事着手の様子はうかがえず、完成はまだまだ先の話のようだ。
駅の先、しばらくは駐車場や舗装路に利用されるものの、県道194号線との交差後は雑草に包まれた低い築堤として続き、一部には雑木の成長も見られる。
途中の園部川に架けられたデッキガーダー(写真M)は塗装が劣化し、随所に錆が浮き始めている。
小川高校下(写真N)には、ホームと上屋が当時の姿で放置される。駅名の元となった高校は路線廃止の数年後に閉校となり、今は小川南中学校として再生されている。
短距離で下馬場(写真O)と続くが、こちらは第二次世界大戦中に閉鎖された駅で旧版地形図にも記載がないため、場所は集落等の状況から判断して推測したに過ぎない。
駅東側の踏切にはレール、その隣の小橋梁(写真P)にはガーダーと、それぞれが未撤去のまま残されている。さらに鎌田川西側堤防にもレール付の踏切痕(写真Q)、河川内にはデッキガーター(写真R)を確認できる。
石岡口のBRT転換区間とは打って変わり、利用予定の無い廃線跡には信号用と思われる制御盤(写真S)や、橋梁跡(写真T・W・X)、踏切跡(写真U・V)が連続する。
しばらくして路線は霞ケ浦の湖岸沿いに到達し、珍しい石積擁壁で支えられた路盤(写真Y)が堤防道路沿い延びていく。石材には横長の大きなものが使用され、大谷石のようにも見える。
島式ホームが残された桃浦(写真Z)は、一部が太陽光パネルに占拠されている。全面ではなく、若干中途半端な配置となっているのは何か理由がありそうで、小さな興味がわいてくる。
駅を出た後も相変わらず農地の中に路盤がつながり、踏切痕(写真AA・AE)、橋梁痕(写真AB・AC・AD)が高頻度で姿を見せる。
放置されたガーダーには日本橋梁の銘板も取り付けられたままだ。
やがて農地から外れた路線は、集落をかすめて林の中に入り込む。民家近く(写真AF)は歩行も可能だが、少し離れると藪地に変わってしまう。
その藪地を抜けた先に八木蒔(写真AG)が置かれていた。今のところホームと待合室は健在だが、何もしなければ、生い茂る樹木に包まれるのも時間の問題かと思われる。傍らの線路跡は作業道の状況を示し、車の轍も認められる。しかしこれもすぐ終了し、再度森林に同化した藪(写真AH)の中に突き進んでいく。
次に路盤を確認できるのは、国道355号線沿いの食品工場横(写真AI)からとなる。ここからは農地の中に戻るが以西と比べて遺構は減少し、踏切跡(写真AJ)一箇所を見つけただけで浜(写真AK)に着いてしまう。
駅は1面1線のこじんまりとした構成だが、一時は鹿島神宮へ向かう霞ケ浦航路との中継点を担っていたことから構内はかなり広く、その敷地を生かし数多くの太陽光パネルが設置されている。
駅の先で東に向きを変える鹿島鉄道と、石岡出発以来つかず離れずで並走してきた国道355号線が交差し、それぞれの行き先を違える。
鉄道側はアンダーパス部(写真AL)のみ未舗装路に利用されるが、他は背の高い雑草や藪地に阻まれ、跡地を直接たどることは難しい。
梶無川まで進むと比較的新しいコンクリート橋(写真AM)が現れ、内部にはバラストも放置されている。
川の先に設けられていた主要駅の玉造町(写真AN)は、既に東半分がバス停兼転回場となり、また駅舎のあった西半分は宅地化され、昔日の面影はほぼ消滅したと言わざるを得ない。
駅の東側は築堤で徐々に高度を上げはじめ、玉造城址の北を通り抜ける。
人家近くはきれいに整えられたバラスト(写真AO)も顔を出しているが、少し入ると背の高い雑草が密集するため、迂回を余儀なくされる。
再びルートを捉えるのが市道との交差部(写真AP)で、デッキガーダーを載せたままの陸橋や前後のバラストがその位置を示している。沿線にはゴルフ場も数多く自然環境に恵まれた丘陵地帯だが、利用予定の無い土地は藪地化しやすく、短期間で荒れ放題(写真AQ)となってしまう。
路線廃止前に閉鎖された武田(写真AR)は旧版地形図に記載がなく、場所の特定に手間取るが、玉造町史に「現在の緑ヶ丘の踏切のところに武田駅」と記述され、1940年代の空中写真では踏切北側に小さな構造物を確認できることから、同所を駅跡と判断した。
全体に荒地が続く中、人家や工場周辺では人の手が入った様子もうかがえ、ややラフな草地(写真AS)といったレベルの箇所も散見される。
自衛隊百里基地への航空燃料輸送の拠点となっていた榎本(写真AT)。最盛期は専用の側線を持ち、周囲には石油タンクが建ち並んでいた。
駅跡の大半は現在も更地のままで、徐々に住宅が建ち始めているといった状況のようだ。なお駅南方の線路跡も、一部が宅地として分譲されている。
その後はまさに、無用の長物と呼びたくなるような雑木林が借宿前(写真AU)まで続く。
駅にはホームと待合室が、手前の踏切にはレールが残され、当時の駅前商店は自販機のみの営業となっている。駅名に借宿の文字が入るものの、実際には隣接する半原地区に属する。
駅の北にはコンクリート暗渠(写真AV)も隠れている。
なおこの区間は平行する道路が狭く、線路跡の道路転換は有用と思われるが、人口希薄地帯ゆえ計画の立案すら難しいのかもしれない。
再び藪地化した路盤(写真AW)がその姿を現すのは、借宿の中心集落にほど近い市道との交差(写真AX)からとなる。この踏切跡に未だレールが残され、その先は一車線の舗装路に転用される。
道路はやがて巴川(写真AY)に突き当たって終了する。きれいな更地となっているのは、なにか利用計画が立てられているのかもしれない。
借宿の中心地区に近いのは当駅だが、なぜ地名ではなく川の名を冠したのか、興味を惹かれる点でもある。
駅の東側を流れる巴川(写真AZ)には、二連のスルーガーダー橋が架けられたままだ。当然と言えば当然だが、塗装が剥がれて錆が浮くなどの劣化が目立ち始めている。
この先は県道8号線と平行し、道路沿いの店舗奥には砂利で整地された廃線跡(写真BA)を見つけることができる。駐車場として利用されているのかもしれない。
途中、バラストが顔を出す場所や雑木が生い茂る箇所も出てくるが、今度はあまり長続きしない。
小さな左カーブを描いて旧県道と交差し、その直後に置かれていたのが坂戸(写真BB)となる。撤去費用の節約によるものか、現在もホームと待合室が原形を保ち、西方の25キロポストも健在だ。また周辺の線路跡には、初めて散策路のような雰囲気が漂う。
駅を出て県道8号線をくぐると、目の前に再び藪地が広がり始める。この中にガーダー付きの小橋梁(写真BC)を見つけることができる。
路盤はその後も放置状態が続き、雑草の密集する耕作放棄地の中で一段抜きん出た樹林帯(写真BD)を形成し、そのラインをはっきり示している。
しかし近づくことは難しく、水路痕等の有無を含めて調査は不能としか言いようがない。
二度目となる県道8号線との交差は踏切で越え、その先に設けられていたのが初代鉾田(写真BE)となる。終端駅としての大きな跡地が広がり、多くの倉庫が建並ぶ貨物中心の駅だったこと、側線が数本あったこと、石炭も運んでいたこと、線路跡は個人所有となった箇所が多く、BRT路線としての復活は不可能なこと、等の話を現地で聞いた。
同じ敷地内ではあるが、より市街地に近づいたのが二代目鉾田(写真BF)で、バス営業所と一体化されていた構内は既に駅舎が撤去され、二面のホームだけが取り残されている。ただ震災の影響なのか全体が大きく変形し、陥没箇所も見られるなど、まさに過ぎ去りし時代の悲哀を感じ取ることができる遺構だ。
-保存車両-
ほっとパーク鉾田に展示保存される車両(写真BF)。
参考地形図
1/50000 |
石岡 |
|
玉造 |
[S19部修] |
鉾田 |
[S4修正] |
|
|
1/25000 |
石岡 |
[H5修正] |
常陸玉造 |
[S62修正] |
鉾田 |
[S62修正] |
常陸高浜 |
[H4部修] |
83/07年当時の各駅
最終更新日2023-9/25 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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