上田丸子電鉄丸子線を訪ねて
西丸子線 真田傍陽線 廃止鉄道ノート北陸・甲信越 減速進行

 地区:長野県上田市  区間:上田東〜丸子町11.9km  軌間:1067mm単線  動力:蒸気→電気

製糸業で発展した丸子町。産業の発展を望み、碓氷峠を越えて信州にやってきた国鉄に接続すべく、地元資本を中心として丸子鉄道が敷設された。しかし、時代の移り変わりと共に丸子線は廃止され、今では信越線も第三セクターへ移行し、その隣を北陸新幹線が通り抜ける。

略史

大正 7(1918) - 11/ 21  丸子鉄道  開業
昭和 *18(1943) - 12/ 23  上田電鉄と合併、上田丸子電鉄となる
44(1969) - 4/ 20  上田丸子電鉄 丸子線 廃止
5/ 31  上田交通に社名変更
平成 17(2005) - 10/ 3  上田電鉄として独立

路線図



廃線跡現況

A 駅名そのままに、上田市街地の東に位置した上田東(写真A)。JR上田駅とはやや距離を置くが、市街地には近く利便性は高かった。

駅跡は長く駐車場として利用されていたが、18年時点ではドラッグストアに変わっている。
93年11月
駅の東に狭い路地が続き、すぐ二車線の市道に合流(写真B)する。線路跡を拡幅、転用した道だ。しばらく進むと道路は左に曲がるが、鉄道側は右カーブで南に離れ一車線道路(写真C)として続いていく。

カーブの終了地点が染屋(写真D)で、跡地には店舗等が建てられている。
B
18年10月

C D 染谷駅跡
93年11月
18年10月

E 駅の南側は病院の東脇から国道18号線沿いのロードサイド店舗裏を通り抜け、信州大学の構内に入り込む。
その先は住宅地となるため路線を直接たどることはできないが、線路用地に建つ民家(写真E)を数軒見つけることもできる。
18年10月

さらに、国道141号線との交差点南に置かれていたのが上堀(写真F)で、今はリサイクル会社に利用されている。駅の南方も市街地(写真G)に埋没するが、一部に鉄道の境界線を確認できる箇所もある。

上堀駅跡 F G
18年10月
93年11月

路線はそのまま南へと進路を取り、信越線にぶつかるとこれをオーバークロスし、左急カーブで南東に向きを変える。当時の交差を証明しているのが、北側に残る石積の橋台(写真H)だ。

なお同区間の信越線は、北陸新幹線開業と同時に第三セクターのしなの鉄道へと変わっている。
H
18年10月
I 信越線を越えた後は一車線道路の南脇を走り、変則交差点横には小さな橋台跡(写真I)を見つけることができる。
18年10月
この東側は放置された空き地(写真J)から小さな藪地に移り、さらに信越線に接近し南側を並走し始める。

丸子線廃止後はその用地を信越線の下り線分として提供し、複線化に利用されたため、当時の痕跡は探しようもない。
J
18年10月
K 信越線に並んでから最初の駅が、信濃国分寺史跡の真っただ中となる八日堂(写真K)。島式ホームを備えた列車交換可能駅で、八日堂と呼ばれた国分寺の縁日には大混雑したと伝えられている。

構内の東端に何らかの基礎らしきコンクリート残骸も残されているが、丸子線との関連は不明。
18年10月
続く神川(写真L)は築堤上に設置されていたため、ホームは鉄骨で支えられていた。当時、駅東側の道路は鉄道と平面交差しており、その踏切南側に入口が接していた。 L
18年10月
M 岩下(写真M)は自動車修理店の東端附近だが、痕跡は見つけられない。

東特前(写真N)は同名企業の南方、小さな踏切の西側に位置し、線路脇には空地も広がる。上田市による工場誘致に伴って、新たに開設された駅でもある。
駅の東側には信越線と共用のアーチ橋(写真O)が残され、確認は取れなかったが、石積であることから当時の設備と判断した。
18年10月

東特前駅跡 N O
18年10月 18年10月

さらに信越線に沿って進むと、国道152号線の下で丸子側から来た路線と合流する。 廃止後しばらく空地だった線路跡(写真P)も、今は側線部を含めて駐車場等に利用されている。 P
93年11月
Q その駐車場を抜けると、国鉄との接続駅大屋(写真Q)に滑り込む。信越線下りホームの南側を使用していたが、改札は別個となっていた。

丸子線はここでスイッチバックし、進行方向を変えた列車はすぐ左急カーブで南へと進路を向ける。カーブ地点は住宅が建ち並び痕跡は消えるが、市道との交差後は線路跡を転換した二車線道路が現れる。
93年11月
道路上を南進すると千曲川に突き当たる。橋梁(写真R)は当初トラスとデッキガーダーの混成だったが、水害により丸子側が交換され、以後は二種のトラスが使用されていた。ただこの時、国鉄から払い下げを受けた曲弦トラスが若干短かったのか、左岸橋台まで届かず、わざわざ数メートル手前に橋脚を一基設けている。

鉄道廃止後は道路橋に転用されていたが、これまた水害で破損し、現在は新しい橋に架け替えられてしまった。
R
93年11月
S 橋の先も道路として再利用され、跡地をトレースするのは容易だが、当時の痕跡を見つけるのは不可能と言ってもいい。

国道152号線との交差点北側が信濃石井(写真S)、信号のない十字交差点北側が下長瀬(写真T)となるが、共に正確な位置の特定はできなかった。
長瀬(写真U)はJA関連施設に利用され、西側を通る国道152号線からのアクセス路も残されている。
18年10月

下長瀬駅跡 T U 長瀬駅跡
18年10月 18年10月

上長瀬(写真V)はS字カーブの途中で、ホームもかなり急な曲線だった。また駅南方の水路では、道路用として再利用された石積の橋台(写真W)を見つけることができる。ただし西半分はコンクリートで構成され、道路転換時に拡幅されたものと思われる。

上長瀬駅跡 V W
18年10月 19年10月

続く丸子鐘紡(写真X)は駅名が示すように紡績会社に近く、工場に向かう専用線が分岐していた。工場はすでに閉鎖され中央病院へと変わっているが、その裏手まで延びていた線路跡も、大半は道路に転用されたようだ。 X
18年10月
Y 本線側を道なりに南下すると、右手に変電所が見えてくる。この手前に石積橋台を再用した道路橋(写真Y)が架けられ、変電所の南にも小さな暗渠が隠されている。
19年10月
鉄道関係者の住居となった中丸子(写真Z)は今も駅舎が残り、北側の駐車場付近までホームがあったと教えてもらった。 Z
18年10月
AA 上丸子(写真AA)は消防倉庫や駐車場に利用されている。当時の写真を見ると駅前に洒落た劇場が写るが、残念ながら今はその跡形もない。
ここで一旦途切れた道路は、駅の先から再び生活道としてつながっていく。
93年11月
さらに道路上を進み、現在はドラッグストアに衣替えした終点の丸子町(写真AB)へたどり着く。電車区も備え、かなり大きな構内を有していたことは、現状からも偲ぶことが可能だ。

また西方の県道交差点は今も駅前通の名称が使われ、鉄道への思いがまだまだ強いことを感じさせる。
AB
93年11月

 

−保存−

AC 丸子町文化会館に保存される電気機関車(写真AC)
93年11月
千曲川橋梁で使用されたトラス桁(写真AD)が、総合体育館に保存されている。歩行者用として、りんどう橋の名が付き、説明書きも添えられる。 AD
18年10月

参考資料

  1. なつかしの上田丸子電鉄/唐沢昌弘 著/銀河書房
  2. RM LIBRARY73/上田丸子電鉄(上)/宮田道一・諸河久 著/ネコ・パブリッシング・・・沿革と現役時代の紹介

参考地形図

1/50000   上田 [S27応修]   小諸 [S27応修]
1/25000   上田 [該当無]   丸子 [該当無]

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2020-1/15最終更新 
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