地区:島根県安来市 区間:荒島~出雲広瀬 軌間:1067mm/全線単線 動力:電気
昭和 | 3(1928) - | 7/ | 24 | 広瀬鉄道 | 開業 |
19(1944) - | 10/ | 31 | 伯陽電鉄と合併、山陰中央鉄道となる | ||
23(1948) - | 4/ | 1 | 島根鉄道として分離 | ||
29(1954) - | 12/ | 1 | 一畑電気鉄道に合併 広瀬線となる | ||
35(1960) - | 6/ | 20 | 〃 広瀬線 | 廃止 | |
平成 | 18(2006) - | 4/ | 1 | 一畑電車に改称 |
A | ![]() |
広瀬線の始発駅でもあり山陰本線との接続点でもある荒島(A参照)は、当時の国鉄駅に乗入れ、現在の下りホーム南側、駅舎の東側にレールが敷設されていた。 駅を東に向けて出発するとしばらくは山陰本線に沿って走っていたが、その跡地は民家が建ったり、あるいは空地のままであったりする。 |
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14年5月 |
右カーブで南に向きを変え始め山陰本線と別れを告げると、スクラップ置場の中を抜け(B参照)、県道180号線に合流する。 県道はここから鉄道跡を拡幅利用して建設されたもので、2車線の走りやすい道路となっている。 |
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B | |
14年5月 |
C | ![]() |
南東に向いていた道路が緩やかなカーブでやや西寄りに方向を変える地点が仲仙寺(C参照)。 旧道が西から合流しすぐにまた東へと別れる重複地点で、現在は仲仙寺の駐車場になっている。元々は沿線の寺が土地を寄贈して設置された駅なので、元の鞘に戻ったというところか。 |
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14年5月 |
第二次世界大戦中に廃止となった西赤江(D参照)は場所の特定が難しい。参考地形図上ではまったく何の特徴もない小さな交差点で、西に民家が数軒あるのみの場所を指し示している。 もちろん駅の痕跡等は何一つ発見出来ないし、地元の人の姿も見えず聞取り調査が出来ないことも痛手だ。 |
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D | |
14年5月 |
E | ![]() |
続く西中津も県道180号線上の西中津公会堂付近(E参照)、田瀬は広域農道との交差点の南、コンビニ付近と推測するが共に確証は得られなかった。 廃止された鉄道駅跡にバス停を設ける例は全国に数多く、一般的には探索時の目標施設として大いに役立つ。この広瀬線も同様なのだが、なぜかその位置が駅跡と微妙にずれ、残念ながら振回されただけという結果が多くなってしまった。 |
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14年5月 |
更に進むと県道は大きなカーブでその方向をほぼ真南に変える。同時に旧道が東側から合流するが、この地点で廃線跡は道路上からやや西へとルートを外れ始め、田頼川を越えた先に橋台跡(F参照)が顔をのぞかせている。 ただ雑草に覆われ目視ではなんとか確認できるものの、写真に写すとほぼ判別不能となってしまう。 田頼川にも橋の跡があると聞いたが、どれだけ探しても見つけられなかった。 |
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F | |
15年5月 |
G | ![]() |
広瀬線はそのまま南進し、県道沿線に建つ商店の裏へと入り込む。ここが小原(G参照)で、周囲には路盤がそのまま藪となって残る箇所や、当時の石垣と思われる上に立つ民家等を見つけることが出来る。 なお当駅も、第二次世界大戦と共に廃止になった駅の一つ。 |
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14年5月 |
南北を見渡すと、鉄道がほぼ一直線のルートを取り、県道がやや東にふくらんでいることがよくわかる。 駅の南で県道180号線と再度合流し、道なりに進むと次の飯梨(H参照)に着く。広域生活バスの同名バス停付近にあった。ここは当線唯一の交換駅として広い構内を構えていたが、今はその面影を見つけることは出来ない。 |
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H | |
14年5月 |
I | ![]() |
更に道に沿って南下し、同じく県道上に位置した植田(I参照)は横断歩道を備えた小さな交差点の南側で、交差点に接する民家から社会福祉法人あたりにかけてかと推測するが、痕跡は見つけられなかった。 | |
14年5月 |
当初の鷺ノ湯(J参照)は県道180号線沿いに立つ広告看板の空き地付近で、旧県道からの取付け道路が今もあぜ道として残る。 ここからの上り坂は、雪の日に登り切れない事もあったと聞いた。スパークによる集電不良か漏電が原因らしい。そんな時はスピードをつけたまま駅を通過させ、惰性で何とか乗り切るが、乗客は坂の途中で速度が落ちた時に飛び降りると言う、何とも乱暴な逸話も教えてもらった。 |
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J | |
17年5月 |
K | ![]() |
旧駅で県道への転用からはずれた鉄道跡地は方向をやや西向きに変えた後、万松院の前を横切り、県道45号線沿いの民家の北側(K参照)を進む。一部が地元で物干し場として利用されているのは、何とも微笑ましい。 | |
14年5月 |
その奥は切通しへとつながっていくが、既に足を踏み入れることは難しくなっている。 切通しを抜けると鷺湯温泉前(L参照)。県道脇に空地が広がるのみとなっている。駅を過ぎると県道45号線、それに平行する洞貫川を越えその位置を変える。 |
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L | |
14年5月 |
M | ![]() |
ここに最大の目玉とも云うべき当時の橋台・橋脚(M参照)の一部が残されている。12mスパン4連で当線最長の橋梁であった。 道路への転用が主となる鉄道ではこのような遺構は大変貴重で、末永く残って欲しいと願うばかりだ。その橋梁の先にあったのが温泉前(N参照)。松の木が植えられた築堤が少し残され、駅跡は地元の駐車場に利用されている。 なお、この温泉前と前出の鷺ノ湯は第二次世界大戦中に移転統合され鷺湯温泉前となったため、広瀬線廃止時には既に駅としては存在していなかった。 |
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14年5月 |
その鷺湯温泉前も設置当初は温泉前と称したため、調査時には混乱に輪を掛ける。更にその3ヵ駅共、温泉利用客の利便を図るために場所を転々と変えたと聞けば、「う~ん」と唸るしかない。 ここからは洞貫川の右岸に沿って南西方向にほぼ真っすぐ進んで行く。当時から里道の脇に線路が敷設されていたもので、現在でも生活道として利用されているがどこまでが鉄道用地であったのかの区別はつかない。 |
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N | |
17年5月 |
O | 広瀬の市街地に入った直後、緩やかな左カーブが始まるあたりで両者は別れ、すぐに県道45号線と交差する(O参照)。写真中央を奥に延びるのが当時からの里道で、広瀬線はその左側の民家の建つ地を抜けていた。 当初は県道もなく洞貫川対岸から直角に延びる道があるのみで、その踏切番を勤めた人の家が今でもすぐ近くにあることを地元で教えてもらった。 |
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14年5月 |
ここから先のルートも確認してみるが、納得出来る明確な答は返ってこなかった。生活道になったという人もいれば、そうでは無いという人もいる。廃止からの年数も長く、記憶も次第に薄れてきているのかもしれない。 地形図から読みとる限り、民家に取入れられてしまったと考えるのが合理的だろう。 終点広瀬(P参照)は市街地の北に位置し、現在は地元の栄町集会所及び駐車場として利用されている。ここは廃止後一旦グンゼの作業所として利用されたのち、現状の姿へと変えられた経緯を持つ。なお当時の駅舎は市街中心部にある広瀬バスターミナルに移設、再利用されている。 |
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P | |
14年5月 |
短い路線だが沿線には足立美術館、安来節演芸館、富田城祉等の見所がたっぷりある。探索のあとは各施設をゆっくり見学するのも一興だ。
1/50000 | ![]() |
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1/25000 | ![]() |
[S33資修] | ![]() |
[S9修正] |