光明電気鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート東海 減速進行

 地区:静岡県磐田市  区間:新中泉~二俣町19.8km  軌間:1067mm単線  動力:電気

沿線の集落を東海道本線に結ぶと同時に、天竜川上流からの物資輸送をも視野に入れて計画された光明電気鉄道。競合他社を押さえて線路敷設の許可を得たものの、見通しの甘さから天竜川には接続することが出来ず、わずかな営業期間で終焉を迎えている。その結果幻の鉄道とも呼ばれるが、地元ではこの鉄道の名を知る人は意外に多く、忘れ去られた鉄道の仲間入りはまだまだ先のようだ。廃止後、国鉄二俣線に譲った路線の一部は、第三セクターの天竜浜名湖鉄道に移行した今も現役で頑張っている。

路線図

略史



昭和 3(1928) - 11/ 20  光明電気鉄道  開業
5(1930) - 12/ 20     全通
10(1935) - 1/ 21     休止
11(1936) - 7/ 20     廃止

廃線跡現況

A 当時は中泉と呼ばれた東海道本線の磐田駅。光明電気鉄道の始発駅新中泉(写真A)はこの北東寄に設けられていた。今では周辺の再開発が進んだため駅跡の痕跡は既に消え失せ、舗装路(写真B)に転換された線路跡もすぐ市街地(写真C)に飲み込まれてしまう。しかも、一旦、二車線道路に転換されたのち、改めて区画整理されたため、痕跡を探す術すら見つからない。
16年04月

B
16年04月
C
16年04月

この一画内に設けられた二之宮(写真D)は旧版地形図に記載がなく、距離計測によりおおよその位置を把握したに過ぎない。北に向かう路線は、駅を出てしばらく進むと二車線の市道(写真E)に合流する。線路跡を拡幅転用して建設された道路だ。

D
24年11月
E
16年04月

市道は市民文化会館の前を過ぎて二手に分かれる。ここで鉄道は道路から離れて加茂川沿いを進み、正確なルートを把握できないまま、旧国道1号線の加茂川交差点に出る。この東南角が列車交換可能な遠州見附(写真F)で、車庫等も備えた大きな構内を有していた。 F
16年04月
G 旧国道を越えると再び住宅地の中に飛び込み、一部の民家には当時の路盤境界線(写真G)が残されている。
16年04月
H
24年11月
さらに西光寺の境内(写真H)を抜け、再び加茂川の右岸に接近する。ここからの路盤は舗装路(写真I)に転換されて水堀川との合流点まで続き、同所上流で加茂川を左岸へと渡る。
駅を印した地図がない川原(写真J)は、下記参考資料1に対岸の変電所付近と記される。

I
24年11月
J
24年11月

K
24年11月
ここから先は川沿い道路の東脇を併走し、路盤上に建つ民家(写真K)や鉄道時代の地割も散見される。なお当時の道路は国道1号線との交差手前で左に向きを変えるため、同所から北に直進する現在路は線路跡を転換して建設された。
L
16年04月
緩やかな上り勾配が終わると国道の下をくぐり、加茂川を渡り戻す。続く左カーブで県道44号線に接近し、そのまま気賀坂トンネル(写真L)へとつながる。県道の直下となるが、両側とも抗口はふさがれ痕跡を確認することはできない。
ここは以前、陥没事故を起こして大穴が開いたため、発砲コンクリートを注入して埋めたとの話を聞いた。
M
24年11月
トンネルを抜けると右にカーブを描き、グランドや農地の中を通り抜ける。途中に置かれていた加茂東(写真M)には既に住宅が建ち、駅跡の雰囲気はきれいに消されている。
N
16年04月
駅の北で小さな右カーブを描くと、鉄道跡は生活道路(写真N)に変わる。ただ当時から里道と併走していた区間で、現在の道幅を考えると、鉄道用地が全て道路に組み込まれたかの判断は微妙なところ。西側の一部は農地に戻された可能性もある。道路は東名高速で一旦途切れたのち、民家に突き当たって終了する。
O この手前に置かれていたと思われる三ッ入(写真O)は地形図に記載がなく、距離計測と接続道路を考慮しておおよその位置を推測したに過ぎない。
さらに寺谷用水東岸の民家敷地内に当時の構造物が残ると聞き、探してもらったものの、現時点では見つからないとの返答だった。もし残っているとすれば橋台跡と考えられる。
24年11月
用水を越えて県道44号線と交差した後、北に向う一車線の舗装路(写真P)が現われる。この道は光明電気鉄道のルートに一致するものの、やはり元々の里道に隣接して線路を敷設した区間で、跡地は道路東沿いの農地に戻ったと考えるのが自然だ。 P
16年04月
Q 道路上を進むと、最初の交差点北東角が遠州岩田(写真Q)となり、列車交換設備を備えた広い構内は、自動車整備店等に利用されている。
16年04月
R
24年11月
駅を出てしばらく北上するとやがて小学校が近づき、この校内でやや東に向きを振ったのち匂坂[さぎさか](写真R)に到着する。小さな墓地の南方に位置し、当時は東側の民家南端に沿って駅前道路が延びていたようだ。
S
24年11月
北に続く一車線道路はルートに重なるものの、線路跡と断定する情報は得られなかった。さらに直線で続く路線は、再び農地の中を通り抜けて用水路に合流する。水路の東脇には空き地も見受けられ、参考資料はここを入下(写真S)とする。ただし地形図には記載がない。
ここからは鉄道廃止後に開削された水路に沿い、一部は水路に利用されつつ北上し、やがて県道44号線と交差する。この手前に設置されていたのが寺谷(写真T)で、相変わらず痕跡等は見つからない。既に姿を消したが、区画整理前の東西道路に接していた。 T
24年11月
U
16年04月
県道の西に移り数軒の民家を抜けると、今度は一車線道路に近づき、東奥を並走する。線路跡の大半は農地に戻り、空き地として残された区画には高圧鉄塔(写真U)なども立つ。
V
16年04月
やがて正確なルートの把握が難しくなると、左側から堤防が接近してくる。と言っても河川があるわけではなく、当地の西方を流れる天竜川の洪水対策として造られた霞堤だ。この外側に沿って進んだのち、切り通し(写真V)でこれを斜めに横切り、内側に位置を変える。通常、堤防の切り欠きには陸閘を設けるが、なぜかここにその形跡は見られない。交差後は霞堤に沿った側道に転用される。
W 痕跡の消えた掛下(写真W)は地形図に記載がなく、距離計測も整合性が取れないため、当時の接続道路のみでおおよその位置を判断した。
駅を出てしばらくすると再び左手から堤防が接近し、両者が併走する。これも霞堤の一部と思われるが、今は天端が舗装され地区の生活道として利用される。
16年04月
両者の合流点に平松(写真X)が設けられ、残されたホーム跡を見つけることができる。なお堤防道路脇にも細長いコンクリート構造物を確認できるが、その形状を観察した結果、堤防側の擁壁と判断した。 X
16年04月
Y 北に向かう路線は堤防沿いの住宅地を抜けた後、再び農地や空き地の中に姿を消してしまう。その中に橋梁跡(写真Y)が一箇所だけ顔を出す。既に川は消滅し場違いな雰囲気も漂うが、貴重な遺構だけに末永く保存されることを願うばかり。
16年04月
Z
16年04月
空き地を抜け出ると今度は水路に転換され、緩やかな左カーブを描く。その終了地点に設けられたのが神増(写真Z)で、ちょうど豊岡南小学校とJA遠州中央との間にあたる。
AA
16年04月
その後一旦二車線道路に近づき、東脇を併走するも、線路敷には既に住宅が建ち並ぶ。この区間は最新の航空写真から、経路を読み取ることが可能だ。
上神増(写真AA)は線路跡を転換した細い路地の突き当たり手前で、16年時点では住宅の新築中だった。なお当時の状況を確認する中で、昔は近くに映画館等もあったと聞き、やや驚かされた。
AB
16年04月
駅の北には空き地として残る路盤跡(写真AB)を目にすることができる。さらに新東名高速に近づくとルート上に一車線道路が現われ、ここもやはり道路西沿いに建ち並ぶ民家が線路跡と考えられる。
AC
16年04月
高速道をくぐった先の一雲済川に橋梁の痕跡は認められないが、前後に鉄道用地の土地境界線が散見され、対岸では砂利道、宅地、空き地(写真AC)等へ変わった区画を確認できる。
合代島下公会堂の前まで進むと、今度は一車線の生活道(写真AD)に転換される。しかし、この道もすぐ突き当たって左に折れてしまう。真っ直ぐ進む鉄道側は建ち並ぶ住宅や農地等の中を通り抜け、今は建設会社となった田川(写真AE)に到着する。駅を出ると、国鉄二俣線から移行した天竜浜名湖鉄道(写真AF)が右手から接近し、両線が合流する。ここからの二俣線は、光明電気鉄道の路盤をそのまま再用して開業した。 AD
16年04月

AE
16年04月
AF
16年04月

AG
24年11月
同区間に存在した上野部(写真AG)は駅を記した地図がなく、前後駅からの距離と接続道路を考慮し大雑把な範囲を推測したに過ぎない。
AH
24年11月
次の神田公園前(写真AH)は駅名こそ変更されたものの、今でも上野部駅として同一場所に置かれている。ただし二俣線移行にあたって一旦撤去され、しばらくのちに再設置されたためホーム等の設備はすべて新設となる。
駅の北には神田(写真AI)、伊折(写真AJ)の各トンネルが二本連続する。こちらは光明開業時に掘削されたものが、今も大きな手直し無しで活用されている。

AI
24年11月
AJ
24年11月

AK 同一ルート上を進んだ両線は天竜二俣駅構内の西で分離し、光明電気鉄道側は右カーブで北に向かう。分岐点には二俣口(写真AK)のホーム跡が残され、線路跡は舗装路に変わる。
16年04月
道路は100m程で終了し、続く数軒の民家を過ぎると阿蔵トンネルの抗口が姿を現わす。内部は崩落しているようで立ち入りは出来ないが、反対側も抗口(写真AL)は当時の原形を保っている。
余談だがトンネルは入口と出口が明確に区別され、起点に近い方が入口で反対側が出口となる。従って写真の抗口は出口に相当することとなる。
AL
16年04月
AM
16年04月
トンネルの北で栄林寺(写真AM)の前を横切り、北東に向かう二車線道路に合流すると、すぐに終点の二俣町(写真AN)に到着する。
AN
16年04月
二俣公民館の北から既に廃校となった二俣高校のグランドやや手前あたりまでが駅構内だったと推測するものの、現地で情報は集まらず、正確な位置の特定は不可能だった。なお高校の南端沿いに延びる一車線道路が、駅へのアクセス道であったことを旧版地形図から読み取ることができる。

-未成区間-

AO
16年04月
当初の計画では更に北に向けての路線が予定されており、一部区間はほぼ完成していたが、工事途中で会社が倒産したため、中途半端なまま放置されることとなった。
開通に至らなかった未成線は、二俣高校のグランド内を通り抜け住宅地の中に飛び込む。この一画で二俣川と国道152号線を横切り、その国道沿いの自動車販売店は光明山(写真AO)の予定地といわれている。
AP
16年04月
続いて市営団地をかすめ、大谷八幡神社の前を通り抜ける。この先に掘削されていた大谷トンネルは、既に埋められたのか、痕跡を見つけ出すことは出来なかった。やむなく国道へ迂回して北側に回り込むと、こちらにはポータル(写真AP)が当時の姿を残していた。しかし内部は崩落により完全にふさがれ、悲惨な状況を呈している。
AQ
16年04月
トンネルの先は新たに造成された墓地を抜け、国道152号線に合流する。この付近が本来の終点船明(写真AQ)と言われている。鉄道創業時の目的でもある、天竜川上流の鉱産品や木材輸送の受け渡し拠点として大きな構内を予想していたが、既に痕跡は全て消し去られ、鉄道とは全く無縁な雰囲気が漂うのは寂しい限り。なお同所に設けられたバス停名は、船明ではなく島町となっている。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻554号/光明電気鉄道/山崎寛 著 ・・・失われた鉄道・軌道を訪ねて
  2. 光明電気鉄道-廃線跡を訪ねて-/静岡県立磐田西高等学校社会部

参考地形図

1/50000   磐田   天竜
1/25000   二俣 [S5鉄補]   笠井 [S5鉄補]   磐田 [S5鉄補]

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最終更新日2024-11/8   *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*
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