地区:岐阜県恵那市 区間:大井~岩村/12km 軌間:1067mm/全線単線 動力:電気
女城主の城下町として知られる岩村に鉄道が開通した。全国への普及途上となる明治末期のことで、一般的に動力は蒸気や馬力が中心だった。そんな時代に電気を動力として選択したのは、将来的に電力事業への進出も視野に入れていたためと思われる。ただ道路上に敷設した軌道であったため輸送量には限界があり、明智線の開業によりその使命を終えた。
略史
明治 |
39(1906) - |
12/ |
5 |
岩村電気軌道 |
開業 |
大正 |
9(1920) - |
|
|
矢作水力に合併 |
|
昭和 |
10(1935) - |
1/ |
30 |
〃 電気軌道線 |
廃止 |
路線図
廃線跡現況
当時は大井を名乗っていた中央本線の恵那駅。この駅構内を借用して、岩村電車こと岩村電気軌道の大井(写真A)が設けられた。今は駅前広場が整備されたためその面影すら見つけられず、西側のタクシープール付近かと推測するにとどまる。
駅を出るとすぐ右に折れ、中央通りと呼ばれる県道415号線(写真B)上を併用軌道として南東方向に進む。
道路は市街地内をほぼ真っ直ぐ縦断し、旧中山道を越えたのち国道19号線と交差する。ここからは国道257号線へと道路管轄が変り、ゆるやかな上り勾配で徐々に高度を上げていく。
市街地を抜けると正家のバス停(写真C)を見つける。円通寺への入口にあたり、この付近に正家[しょうげ]が設けられていたと考えられる。円通寺前と呼ばれた時期もあったようだが、詳細は不明。
当時の軌道は道路上から直接乗降することも多く、ホーム等の設備も省略されていたためか情報は少なく、途中駅(停留場)の数、名称、位置等の正確な把握は難しい。
円通寺川を渡り正家のカヤと呼ばれる大木を右手に見つつ、道路上をしばらく進むと左手に葬儀会館が現れる。
明治44年の地形図ではここに駅が描かれ、駅名は付されていないものの初代東野(写真D)の可能性が高い。
路線は続いて変則的な向島交差点に至る。同所手前に位置したのが二代目東野口(写真E)で、昭和8年の地形図に印された駅でもある。ただし当駅も駅名の記載はなく、資料によっては向島の名称も確認できることから、初代駅を含め数次の変遷があったと捉えてよさそうだ。
国道は阿木川ダム建設に伴う拡幅、付替が実施され、工事現場から枕木が出てきたとの話も聞いた。
駅の先から斜め右に折れるのが旧国道(写真F)で、岩村電車はこちらの路上を進んでいた。
道路は左、右の急カーブを過ぎたのちダム堰堤(写真G)に突き当り、行く手を阻まれる。この先の路線はダム湖に飲み込まれ、跡地のトレースは不可能となる。なお湖岸に整備された防災資料館には、当時の資料が数点展示されている。
駒瀬は完全に湖底に沈み、その跡を偲ぶことすら難しい。
続く小沢[こさわ](写真H)には動力源となる発電所が造られ、その発電用水を利用した人工の滝を持つ遊園地を開園し、また鹿の湯温泉も隣接していたため結構な賑わいを見せていたようだ。駅構内は複線で電車二両分の行き違いが可能となっていた。
なお温泉旅館の建物はダム建設時に移設され、今も個人の家として使われているそうだ。
ダム湖の終了地点から旧来の岩村川が現れる。左岸沿いに併用軌道を伴った旧道が走っていたはずが、既に山林と同化して判別が付かない。右岸側の道路を少し進むと川を渡るための橋台跡(写真I)を発見する。ただし昭和28年竣工の銘板が付き、軌道廃止後に架橋された道路橋の跡であることがわかる。さらに注意深く観察すると二基の橋台が並んでいるように見え、当時は道路と軌道がそれぞれ単独橋で渡河していたとも推察される。
橋によって左岸から右岸へと移った旧道は、現在一車線の舗装路(写真J)として使用されている。軌道を敷設するにはやや幅員は狭いが、郊外の新設道路ということで許可が下りたのかもしれない。
ただし登り勾配がきつく、電車が岩村に近づくとモーターの消費電力が増え、同じ発電所から送電される当地の電灯が電圧不足で一斉に消えかけたとの逸話も残されている。
川沿いの浄化センターを過ぎ勾配もゆるやかになると、国道257号線に再合流する。が、岩村川を橋梁で一気に飛び越える国道に対し、旧道側は右岸に沿って走るため両者はすぐに分離してしまう。
山王神社(写真K)の横を通る区間では、その階段下に停車する車両の写真を多数目にする。ただしここに駅があったとする資料は今のところ見つけらず、参拝客向けの臨時駅だったと考えることもできる。
昭和8年の地形図では県道416号線との交差点北側に駅記号が描かれる。やはり駅名の記載はないものの、阿木川ダム防災資料館に掲示された路線図や山王神社に近いことから、ここを列車交換駅の山王下(写真L)と判断した。
駅を出ると再び国道に吸収され、右カーブを描いて南西に向きを変える。この先に位置したのが初代中切(写真M)で、唯一地形図に駅名が載せられた駅となる。
国道は駅の西方で斜め左に曲がるため、直進する岩村電車は旧道側へと移り、しばらく進むとさらに左への細道が分岐する。
この分岐点に設けられていたのが二代目中切(写真N)で、列車交換駅でもあった。箕之輪もしくは分岐点と呼ばれていた時期もあるらしく、資料によっては飯羽間の名も登場するが、同駅を指すのかは不明なままだ。
近くの店舗には当時の貴重な荷扱い資料も残され、道路整備時に枕木が出てきたとの話も聞いた。
なお近年、傍らに駅名票を模した看板(写真O)が立てられ、道行く人の注意を引いている。
ここからの細道は専用軌道の路盤跡を転用したもので、地元で電車みちと呼ばれている。途中に山上(写真P)があったと教えられたが場所の特定は困難で、東海自然歩道との交点付近かと勝手に推測した。
続く小さな切通を過ぎたのち、先程まで多くのルートを共にしてきた国道257号線と交差(写真Q)し、その位置を入れ替える。同所には歩行者用の地下道が設置される。
さらに一色川を渡れば終点の岩村(写真R)に到着する。駅跡は一時期木材の集積場として活用されていたが、今は空き地が広がり、この軌道を廃止に追いやった明知線の岩村駅が隣接する。その明知線も既に第三セクターに転換され、イベント列車などで生残りに全力を挙げている。
なお当軌道は岩村町の有力者が中心となって設立した経緯もあり、書類上はこちらが起点とされている。
軌道開業後、木ノ実峠を越えて上村までの貨物索道が建設され、岩村電車もこれに接続すべく線路を延ばした。
接続点は現在の岩村コミュニティーセンター付近(写真S)と思われるが、残念ながら聞き取り調査も出来ず、確証を得る遺構も何一つ発見できなかった。
参考資料
- 浅見與一右衛門翁と岩村電車/永田宏 著/岩村町
- 恵那市史 通史編第三巻上下
参考地形図
1/50000 |
岩村 |
[M44測図/S8要修] |
|
|
1/25000 |
恵那 |
[該当無] |
岩村 |
[該当無] |
No289に記帳いただきました
最終更新2023-8/31 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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