安倍鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート東海 減速進行

 地区:静岡県静岡市  区間:井ノ宮~牛妻/9.6km  軌間:762mm/単線  動力:蒸気

安倍川流域の木材搬出等を目的として建設された鉄道。東海道線静岡駅への接続計画を立てていたものの果たせず、孤立した路線のまま短期間で終焉を迎えてしまった。当線の営業距離に関しては諸説あるが、私鉄史ハンドブックに記された開業時の5哩77鎖(9.6km)が、地図上での実測値に最も近いようだ。

路線図

略史

安倍鉄道路線図
大正 5(1916) - 4/ 15  安倍鉄道  開業
昭和 8(1933) - 10/ 20    休止
9(1934) - 12/ 1    廃止

廃線跡現況

A
21年5月
井ノ宮
静岡市内でも中心部からはやや距離を置き、東海道線や静岡鉄道とも接続のなかった、起点の井ノ宮(写真A)。集客面で不利に働いたことは否めない。
その跡地は今、工場を中心とした市街地に飲み込まれている。
B
21年5月
駅の先もしばらくは痕跡を消されるが、銀行の駐車場を抜けた後は、路線を転用した舗装路(写真B)が現れる。以前は軽便みちと呼ばれていたようだが、残念ながら沿道でその名を耳にすることはできなかった。
C
21年5月
道路が始まってすぐ、薩摩土手と呼ばれる築堤と交差する(写真C)。安倍川の氾濫から市街地を守るための堤防で、現在は一部を開削して金属製のゲートに代えられているが、安倍鉄道はこの上を乗り越えていたため、かなり急な勾配が設けられていたようだ。
D
21年5月
ここからほぼ一直線で北に向かい、途中から幅員が若干狭くもなる。その道路上を進み美和街道を横切ると、やがて右に緩いカーブ(写真D)を描く。
鉄道側はここで道路転用からはずれ、そのまま国道1号線静清バイパスに向かう。
E
21年5月
菖蒲ヶ谷
国道前後は区画が大きく変わり、ルートを直接たどることはできない。
北側に置かれていた菖蒲ヶ谷(写真E)は旧版地形図に記載がなく、大正13年の静岡全図から、現在の和食店付近と読み取るしかない。
路線に平行する水路は昔から変わらないこと、その西側を鉄道が走っていたこと、等を地元で聞いたが、肝心な駅に関する情報は得ることができなかった。
F
21年5月
その水路脇に、短い区間だが住宅への進入路(写真F)となった路盤跡も確認できる。
以後は水路に隣接して北上するが、鉄道の痕跡は残らず大半は住宅街に埋没してしまう。
G
21年5月
秋山川に近づくと築堤で高度を上げるため、徐々に用地幅も広がったようだ。また、左岸堤防の竹藪内に隠された廃屋は、線路跡地に建てられたとの話も耳にした。
その対岸に石積の基礎(写真G)を発見する。その位置から、安倍鉄道の橋台跡と考えてよさそうだ。21年時点では唯一の遺構なのかもしれない。
H
21年5月
川を越え松富団地内を抜けると、再び南北の小さな水路が現れる。今度はこの東側(写真H)が線路跡に相当しそうだ。昭和20年代の空中写真を重ねることによって、その位置はより鮮明になる。
I
21年5月
御新田
そのまま北上すると、安倍街道に面した美容院が目印となる御新田(写真I)に到着する。
J
21年5月
役場前
さらに比較的短距離で続く役場前(写真J)へは、住宅地内に残るそれらしき土地境界線を頼りに進むことになる。
駅は、細い市道沿いに立ち並ぶ住宅の東奥となるが、現地で情報を収集できず、旧版地図による位置の把握にとどめた。
K
21年5月
路線はその後も密集地の中を進むが、賤機南小学校内を抜けた先では跡地(写真K)がはっきり区分けされた形で残され、今は駐車場や民家等に利用されている。
運転免許センターへの進入路に近づくと、その北側を横切る土手を越えるため、鉄道側の築堤も徐々に高度を上げる。それを証明するのが、高さに合わせて広がる用地幅だ。この土手は薩摩土手と同じく水害を防ぐ霞堤の一種と思われるが、特に名称はなさそうだ。
L
21年5月
福田ヶ谷
土手を越えると、やがて安倍街道と呼ばれる県道27号線に合流する。21年時点では道路西脇に線路区画の一部を確認できるが、四車線化と同時に消え去る運命のようだ。
列車交換駅でもあった福田ヶ谷(写真L)も旧版地図に記載がなく、正確な位置の特定は難しい。ただし昭和30年代の空中写真には、街道に沿った現運送店の対面付近に駅構内らしき膨らみが見られる。断定はできないが、ここに駅があった可能性が高いと考える。
M
21年5月
下村
駅の先も道路と併走するが、緩やかな右カーブでやや東に向きを振ると、間に用水路が割り込む。これは既に道路拡幅に利用されたが、残された線路跡も今回の四車線化に伴って道路内に取り込まれてしまう。
その後、高架の県道74号線をくぐった先に下村(写真M)が置かれていた。やはり地形図に記載がなく、その位置は下記参考資料2からの判断となる。屋号や建物は変わったものの切符を販売していた商店が今も健在で、駅は道を挟んだ向かい側となる。
N
21年5月
駅周辺も道路拡張工事中だが、ここは街道と鉄道がやや離れて並走していた区間で、拡幅用地の西側に当時の線路跡(写真N)が残され、農地等に利用されている。道路に取られ、若干狭くなったとの話も聞いた。
O
21年5月
大土手
その後も両者は離合を繰り返しながら、新東名高速の下をくぐり抜ける。この真下にも土手が築かれ、北側に大土手(写真O)が設けられていた。
現在の県道は土手を削り陸閘を設置しているが、西側を併走していた鉄道に陸閘の痕跡はなく、上を乗り越えていたと考えられる。
P
21年5月
駅を出ると右手に門屋浄水場が見えてくる。安倍鉄道はこの手前で道路と交差(写真P)し、その東脇に位置を移す。
Q
21年5月
門屋
続く門屋(写真Q)は旧版地図に記載があるものの、隣図との境界に描かれるためか誤差が大きく、位置の特定が難しい。現地でも話が聞けなかったため、参考資料により同名バス停北の民家付近と推測するにとどめた。
R
21年5月
初代中沢
しばらく道路脇を走った路線は、右に採石場が見えた地点で道路から離れ、区画整理された農地、さらには住宅地へと入り込む。途中から現れる一車線道路がルートに近いが、線路敷を転用したとの確信は得られない。
初代中沢(写真R)もこの道路上とすれば、大きな物流センターの北端あたりに位置したことになる。
S
21年5月
二代目中沢
しかし当駅は利用者からの要望により、開業後すぐ北へ移動し二代目(写真S)に引き継いだ。参考資料1から計算すると420m、官報では320m程の距離で、写真は前者を元に写したが確認は未だ取れていない。
駅の先はゆるやかな屈曲を経て、再び安倍街道の西側に位置を変える。ただ、これは予測平面図に基づくもので、小さなS字急カーブを描く旧版地図とは若干のずれを見せている。
T
21年5月
地元でルートに関する情報は得られなかったが、河川改修前の丹野川に、橋梁の痕跡が残されていたことだけは聞き込んだ。街道の一本西を並行する舗装路が、河川に突き当たる付近とのことだ。
さらに対岸の作業用倉庫(写真T)が路盤に沿っていると仮定すれば、予測平面図の経路がより正確ということになる。
U
21年5月
牛妻
その後は安部川と安倍街道の間を北上しながら、徐々に街道側へと近づき、やがて終点牛妻(写真T)に到着する。
昭和32年に百軒ほど焼失する大火があったため、痕跡は何も残されていないこと、道路沿いの二軒の民家が駅跡を購入したこと、等の話を現地で教えてもらった。構内はその西側に広がり、隣接する上流側には木材の大きな土場が設けられていたようだ。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻507号/安倍鉄道/山崎寛 著・・・失われた鉄道・軌道を訪ねて
  2. 安倍鉄道史/海野実 著

参考地形図

1/50000   清水   静岡
1/25000   清水 [T4測図]   牛妻 [T5測図]   静岡西部 [T4測図]

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制作公開日2021-8/7  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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