(旧)宇和島鉄道廃止区間を訪ねて
廃止鉄道ノート四国 減速進行

 地区:愛媛県宇和島市  区間:宇和島~吉野/25.7km  軌間:762mm/単線  動力:蒸気

官設鉄道の後進県ともいえる愛媛県。しかし民間では、先駆ともなる伊予鉄道が明治21年に開業しており、宇和島に於いては後背地に向かって軽便鉄道が建設された。港を経由した地域産品の搬出が目的と考えられる。昭和に入ると、ようやく官設鉄道が計画され、そのルートに重なる宇和島鉄道は国有化され、改軌工事に伴い一部区間の線路付け替えが実施された。

略史

大正 3(1914) - 10/ 18  宇和島鉄道 開業
12(1923) - 12/ 12     全通
昭和 8(1933) - 10/ 1      国有化、予土線となる

路線図


廃線跡現況

A
20年8月
開業後の延伸により改めて起点となった二代目宇和島(写真A)は、予讃線の現駅と重なる。ただし駅舎を含めた構内配置は国有化後の改軌で大きく様変わりし、開設当初の面影は既に探しようがない。
駅前にSLが展示されるものの、忠実に復元された模型であると説明板に記されている。
B
20年8月
駅を出た宇和島鉄道はすぐに左急カーブを描き、市街地の中に飛び込む。その一画を抜けると、今度は一車線道路に転用される。ここに下村(写真B)が置かれていたはずだが、痕跡はなく正確な位置は掴めない。
その後路線は一旦国道56号線に吸収されるが、ゆるやかな右曲線が終わると道路から右に離れる。この付近が開業時の旧線との分岐部にあたる。
C
20年8月
旧線は、沿道の店舗内を南西方向へ引き返すように進み、そのまま城北中学校に入り込む。校内が初代宇和島(写真C)と言われているが、周辺を含めて始発駅としての雰囲気は一切感じ取れない。
D
20年8月
分岐部まで戻り、国道56号線の東側を進むが、建物が密集しているため、ルートを直接たどることはできない。やがて右手から高串川が近づきその堤防上に移る。と同時に国道が左手から近づき、ほんの少しだけ鉄道路線に合流する。
しかし国道はすぐ左手に離れ、鉄道側は川沿いの細道(写真D)へと変わる。
E
20年8月
しばらく北上すると川岸から離れ、再度国道に接近したのち右カーブで北東に向きを変える。途中で渡る高串川に橋梁痕はなく、さらにロードサイドの大型店舗や藪地の中を抜けたのち、予土線に合流する。宇和島鉄道の後継路線でもある。
合流後、最初の踏切北側に高串(写真E)が設けられていた。
F
20年8月
同じく今は無き光満(写真F)は、小さな集落裏に駅への取り付け道路があったと聞いたが、利用者の無くなった今ではすべて藪地の中に隠され、見つけ出すことは不可能に近い。
G
22年3月
駅の北方では宇和島鉄道の跨道橋跡(写真G)を確認でき、予土線建設時に若干の線路移設があったことを示している。さらに椿谷付近まで進むと両者が完全に分離する箇所もあるが、旧線側は既に山林に同化しているため確認は難しくなっている。
H
20年8月
三間町の入口に掘削された旧窓峠トンネル(写真H)は、県道57号線の旧道部から視認でき、現在ポータルにはブルーシートが掛かる。ただ内部は漏水もなく、比較的状態は良さそうだ。出口側はゲートボール場造成の際に埋められたと聞いた。
I
20年8月
トンネルの先には生活道が続き、この南側(写真I)を鉄道が併走していたと推測する。その後、務田の西で予土線に合流する。
ここで問題となるのが昭和3年の地形図だ。県道31号線との交差部東側に駅が描かれ、そのまま三間川を渡っている。つまり、現線とは川を挟んだ対岸を走っていたことになる。しかし地図側のルート上に痕跡はなく、地元での教示も得られないため、その真偽は確認できていない。
J
20年8月
続く宮野下(写真J)は急カーブの緩和により駅の位置が移動し、地図に記された旧駅は現駅前の農協付近に位置している。さらに予土線を進み、二名大内を過ぎた先にカーブ緩和箇所があるものの、旧線部は既に藪地化され、線路跡を視認することはかなわなかった。
K
20年8月
深田の北側では、三間川にアプローチする旧線の築堤(写真K)が、舗装路に転用されている。しかし残念ながら橋梁の痕跡は認められない。
駅を出てしばらくすると、再び急カーブの緩和区間が出てくる。ちょうど県道57号線と併走を始めた直後の左曲線だが、旧線跡は藪地と空き地に変わっている。
L
20年8月
続く近永の東方で、今度は新旧両線が大きく離れる。北に向きを変えた旧線のルート上には、一車線道路(写真L)が現れる。おそらく線路跡の転用と思われるが、現地で確認は取れていない。
道路はすぐ国道441号線へ合流し、こちらも推測となるが、国道の南脇を併走していたと考える。その後、奈良川を渡り、再び予土線に吸収される。
M
20年8月
出目を通り過ぎ、更に南東へ進むと、珍しいアーチ橋(写真M)に出会う。下側から補強したようにアーチ部が二重となり、改軌による車両重量の増加に対応したものと考えてよさそうだ。
松丸には旧ホームが隠されているとの情報があり、いろいろな角度から凝視してみたが、見つけ出すことはできなかった。
N
24年3月
予土線はその後、広見川を越えるが、宇和島鉄道側は川の右岸を進み、離合を繰り返した両者最後の別れとなる。分離直後の地点に残される橋梁跡(写真N)は、石積が確認できるものの橋台なのか橋脚なのか判別が難しい。地元の教示により当時の遺構と判断するのみだ。

余談だが、広見川は清流として有名な四万十川の支流でもある。
O
20年8月
橋梁痕の南には、当世はやりの太陽光パネルがずらりと並ぶ。さらに農地が続き、中の細いあぜ道(写真O)がルートに一致する。
P
20年8月
そのまま国道381号線を越え、旧道との交差後は緑地帯に変わる。この途中に小橋梁跡(写真P)が姿を見せる。
Q
20年8月
線路跡はそのまま民家内を抜け、終点吉野に到着する。終端駅としての構内は既に分割され、住居となった個所も多い。やや奥まった個所にはホーム跡(写真Q)が残され、これを利用した住宅も建てられている。

参考資料

  1. 鉄道ファン通巻276号/国鉄狭軌軽便線/臼井茂信 著
  2. 愛媛県総合科学博物館研究報告No3/宇和島鉄道及び愛媛鉄道に関わる鉄道遺産/大島高義・河野藤夫・藤本正之 著

参考地形図

1/50000   宇和島 [S3鉄補]
1/25000   宇和島 [該当無]   伊予吉田 [該当無]   近永 [該当無]   丸松 [該当無]

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制作公開日2024-4/21  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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