土佐電気鉄道安芸線を訪ねて
廃止鉄道ノート四国 減速進行

 地区:高知県高知市  区間:後免~安芸26.8km  軌間:1067mm全線単線  動力:蒸気・内燃→電気

高知の私鉄として唯一の郊外路線となった安芸線。市内線や土讃線への乗り入れも実施し、戦後しばらくは業績も好調に推移していたが、自動車の発達と共に収支も徐々に悪化し始めた。そんな折り、国鉄による阿佐線の計画が浮上するとその用地を譲って廃止された。ただ状況の変化により阿佐線の建設は長らく凍結され、第三セクターの土佐くろしお鉄道が計画を引き継いで開業したのは21世紀に入ってからだった。

略史

大正 13(1924) - 12/ 8  高知鉄道 開業
昭和 16(1941) - 7/ 21  土佐交通に改称
23(1948) - 6/ 3  土佐電気鉄道に改称
49(1974) - 3/ 31      当日を以て廃止

路線図



廃線跡現況

A 後免駅 土佐くろしお鉄道阿佐線の始発駅となった土讃線の後免(写真A)。橋上設備に変わった構内に当時の面影はなく、隣接した土佐電気鉄道の駅跡も駐車場付近かと想像するのみ。なお阿佐線は愛称のごめんなはり線と表記されることが多い。そのごめんなはり線は、駅を出るとすぐ高架橋に駆け上がり右カーブを描くが、このあたりは地上を走っていた安芸線のルートと重なる。
16年3月
カーブ終了地点の舟入川には当時の橋台(写真B)が残る。ここから両者は徐々に別れ、安芸線の用地は南北に延びる生活道沿いの住宅に生まれ変わっている。川を越えるための築堤部に相当するため、住宅の敷地幅が南北で異なる。
その後は保育園や舗装路、駐車場等に利用されている。
B
16年3月
C 路面線との接続駅であった後免町(写真C)はコンビニやバスターミナル、駐車場等に変わり、広い構内を持っていたことを教えてくれる。傍らに安芸線電化開通記念碑も建てられ、英文が先に書かれているのは当地の先進的な気風を現わしているのかもしれない。
駅の東には小さな水路の橋台(写真D)や、放置された路盤、信号用らしき基礎(写真E)なども残されている。
16年3月

D
16年3月
E
16年3月

その先で再びごめんなはり線に合流すると、高架橋の下に小さな橋梁跡(写真F・G・H・I)が連続する。

F G
16年3月 16年3月

H I
16年3月 16年3月

J
22年3月
第二次世界大戦中に廃止されたと思われる永田(写真J)は、駅の記された地図がなく、駅間距離と昭和20年代の空中写真を利用して位置を推定するにとどめた。
K
16年3月
立田(写真K)は新旧でほぼ同一箇所に設けられ、ホーム端には水路橋跡が顔を覗かせている。当時の写真から南側に高床ホーム、対面に低床ホームが配置された様子をうかがい知ることができる。
東に向かう路線はやがて右にカーブを描き、しばらく一車線道路が併走する。
L 次の日章(写真L)に痕跡はないが、大きな構内を示す空き地が広がっている。ここも高床ホームと低床ホームが相対して設けられていた。また駅の東には桁を載せたままの橋梁跡(写真M)を見つけることができる。
駐車場や家庭菜園等に利用された高架橋の下を進むと、戦中に廃止されたと思われる物部川(写真N)に至る。ただ当駅も地形図に記載はなく、現地での聞き取りも思うに任せなかったため、その場所は推測に頼らざるを得ない。
22年3月

M
16年3月
N
22年3月

O
22年3月
駅の東で県道364号線を横切るが、道路脇に踏切関連のコンクリート台座(写真O)が放置されている。一方は4本のアンカーボルト、他方は切断された2本のレールを確認できる。
P 踏切を過ぎたのち、南東に進む現線に対し安芸線は北側のルートを取り、両線は一旦南北に別れる。分岐点やや東方にはガーダーを載せたままの橋梁跡(写真P)が残されている。ちょうど閉鎖されたレストランの裏手にあたる。
16年3月
Q
16年3月
続いて五階建てのアパートを抜けると、用水の護岸に埋め込まれた橋台(写真Q)を見つける。こちらはものの見事に擁壁と同化している。
R
16年3月
更に空き地、料理店を過ぎて物部川に突き当たる。安芸線最長の架橋となる河川で、左岸には橋台(写真R)が残り、川底には橋脚の基礎が今も姿を見せている。
S
16年3月
川を渡ると両線は再び重なり西野市(写真S)にすべり込む。既に痕跡は認められないが、市道を挟んで西側に高床ホーム、東側に低床ホームが置かれていたようだ。ただ土佐くろしお鉄道側に駅の設置はない。
T
16年3月
東に向かう高架橋の下は、相変わらず駐車場等への貸し出しが多い。また途中には、橋台をそのまま護岸として利用したと思われる水路(写真T)もある。
U
16年3月
野市(写真U)は現駅とほぼ同一場所で、当時の駅前通りが少しだけその雰囲気を伝えている。
V
16年3月
駅の東を流れる烏川には橋台(写真V)が認められ、物部川以外では見られない石積構造を採用した経緯に興味を惹かれる。ごめんなはり線はここから一旦地上に降り、線内では珍しい踏切を過ぎて再び高架に戻る。踏切の北側が遠山(写真W)と思われるものの、戦中に廃止された駅群に含まれるため、やはり正確な位置は掴みきれていない。
似て非なる駅名に変更された吉川の、やや北寄りに位置していた古川(写真X)。もちろん駅名以外にも高架駅と地上駅の違いがある。

W
22年3月
X
16年3月

Y
16年3月
この先で渡る香宗川から、ゆるやかなS字カーブを描く旧線が分離し、地元の生活道(写真Y)へと転換されている。両線は一旦交差したのち再び同一ルートに戻り、次の赤岡(写真Z)に達する。新旧両駅がほぼ同位置に設けられ、ここからは北側に国道55号線が併走し始める。
香宗川放水路に半分飲み込まれた岸本(写真AA)。ホームは国道との間に置かれ、西が低床、東に高床と分かれていた。

Z
16年3月
AA
16年3月

AB
23年3月
峯本神社の前に設置されていた月見山(写真AB)。一部にフェンスで囲われた敷地が残るものの、当時の痕跡はなにも見つけられない。
東に進む路線が徐々に南東へと向きを変え始めた直後、小さな橋梁跡(写真AC)を確認できる。その東方に位置したのが夜須(写真AD)で、「道の駅やす」への進入路西側に高床ホームと待合室、東側に低床ホームが追加されていた。

AC
16年3月
AD
23年3月

AE
16年3月
ここからの険しい地形に対し、現線は手結山にほぼ直線のトンネルを掘削して走り抜けるが、安芸線は南寄りを国道に沿って大回りする。
駅の東方で別れたのちは自転車道に転換され、夜須川橋梁(写真AE)も当時のままの状態で使われている。道路には高知安芸自転車道の名称が付く。
AF アップダウンのきつい国道に比べて鉄道跡を利用したこの道は比較的平坦で、自転車で利用するには快適な仕様となっている。
川を渡るとごく短距離で手結(写真AF)に着く。主要駅として大きな敷地を持った構内は、西側にあったグランドとともにマリンスポーツセンターの駐車場へと生まれ変わる。
16年3月
南に向かって高度を上げるルート上には、鉄道時代の築堤がそのまま残され、当時の橋梁を使用した立体交差(写真AG)を一箇所見つける事ができる。
自転車道としての連続した上り坂が終わるとトンネル(写真AH)が待ち構える。第一手結山トンネルだ。続いて第二トンネルも掘削されていたが、その手前右側に海浜学校前のホーム跡(写真AI)を認めることができる。
AG
16年3月

AH
16年3月
AI
16年3月

AJ
16年3月
トンネル出口側の切通し(写真AJ)で最大の難所を終えると再度国道脇に並び、直後の交差点東側に設けられていたのが土佐住吉(写真AK)となる。
ここからは国道の南沿いを歩道兼用の自転車道(写真AL)として駈け降りる。下り坂の終了地点で現線が北から接近し、両線は合流する。と同時に自転車道は安芸線跡から外れ、海岸沿いに位置を移す。

AK
16年3月
AL
16年3月

AM
16年3月
次の長谷寄(写真AM)は浜中公民館が目印となるものの、駅跡らしい雰囲気はどこにもなく、今はただ空地が広がるのみだ。
AN
16年3月
駅を過ぎると安芸線は北に分離し、自然形成された堤防を越えて一車線道路の南沿いを進む。長谷寄津波避難センターへつながる狭い舗装路(写真AN)が路盤跡に相当し、その先も用地に沿った石垣擁壁が連続して続いていく。
AO
16年3月
貨物輸送の一大拠点となっていた西分(写真AO)。跡地には既に民家が建ち並ぶものの、大量の荷物が山積みされたといわれる駅前広場に、わずかながら当時の面影を感じ取ることができる。なお現線の同名駅とは大きくかけ離れている。
AP すぐ東を流れる和食川には右岸橋台(写真AP)と橋脚の下部が残され、同所には当時の写真等も掲示されている。
川を渡ると新旧両線が合流するため、安芸線の痕跡は消える。
16年3月
和食は現駅の東半分が旧駅となる。ここにもホーム跡らしき構造物(写真AQ)が姿を見せているが、現地で情報を得ることはできず、断定するには至らなかった。 AQ
16年3月
AR
24年3月
ほぼ同一箇所に設置された赤野(写真AR)にも長尺コンクリートが二本並んで頭を出し、写真奥側はスロープが付き、手前側はより長い。いろいろ考察してみたが、いまだその用途を掴み切れていない。
駅の先で両線は別れ、安芸線側は再び高知安芸自転車道の一部に組み込まれる。駅の東にはメサイ川(写真AS)、赤野川(写真AT)と続き、共に当時の橋梁がデッキガーダーを含めてそのまま自転車道に再利用されている。

AS AT
16年3月 16年3月

AU
16年3月
国道に並んで連続した上り坂を登り切ると、ホーム跡が残された八流(写真AU)に到着する。なぜかホーム上も舗装され、通路として使用されているのは面白い。
なお当時は駅の西に変電所が建てられていた。
AV
16年3月
峠を越えると今度は連続した下り坂(写真AV)に変わり、海岸沿いの平坦地に降りたのち、トンネルを抜け出てきた現線と重なる。
AW
16年3月
しかしその距離は短く、穴内川は両線別ルートで渡る。安芸線の橋梁跡(写真AW)は歩行者橋に変わり、橋台は経時の劣化を示しているが橋脚はかなり新しい。かといって形状の不揃いさから、新設されたとも思えない。不等沈下した鉄道用を大幅に補修した上で再利用したようにもみえる。
川を越えると、建ち並ぶ住宅等に線路跡は消し去られてしまう。
AX
16年3月
JA施設に変わった穴内では、低床ホーム跡(写真AX)が構内の東端に顔をのぞかせている。
駅の先から再び自転車道(写真AY)に利用され、国道55号線と併走する。新城岬で大きな左カーブを描くと自転車道は海岸沿いへと離れていくが、安芸線はそのまま国道の南沿いを進む。

路盤跡は宅地や店舗、生活道等に利用され始め、一部には放置された空き地も見受けられる。この区間に連続した小橋梁跡(写真AZ・BA・BB・BC・BD・BE・BF)を複数見つけることができる。当時の状態を保つ箇所、生活道に転換された箇所、橋台だけの箇所、鉄条網で転落防止策がとられている箇所等、その形態も様々だ。

AY
16年3月
AZ
16年3月

BA
16年3月
BB
16年3月

BC BD
16年3月 16年3月

BE BF
16年3月 16年3月

BG
16年3月
東に進む路線はさらに国道沿いの民家や店舗の裏を通り抜け(写真BG)、やがて終点安芸(写真BH)に到着する。
当時の駅前広場が今も残り、終端駅らしい広い構内は公園やバスターミナル等として利用される。また園内には安芸線の由来を紹介する説明書が添えられ、歴史を大切にする地域の想いが伝わってくるようだ。 BH
16年3月

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻513号/土佐電気鉄道安芸線/小松和紀 著・・・失われた鉄道・軌道を訪ねて
  2. 安芸線記録集/土佐電気鉄道労働組合

参考地形図

1/50000   高知 [S34部修]   手結
1/25000   手結 [S43修正]   後免 [S47修正]   土佐土居 [S40測量]   安芸 [S45修正]

 No161に記帳いただきました。
お断り    ↑ページtop
最終更新日2024-4/22  *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
転載禁止 Copyright (C) 2016 pyoco3 All Rights Reserved.