住友金属鉱山別子鉱業所専用鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート四国 減速進行

  地区:愛媛県新居浜市   区間:端出場~惣開(10.3km)滝の宮~新居浜(1.8km)星越~新居浜港(1.9km)
軌間:762mm単線   動力:蒸気→電気
住友グループ発展の礎となった別子銅山。その鉱産品輸送を目的として専用鉄道が建設された。精錬所、選鉱場、港、官設鉄道を結ぶ下部線と、鉱脈に近い上部線に分かれ、両者は索道で結ばれていたが、通洞と呼ばれるトンネルの完成により上部線は廃止されている。昭和に入り旅客営業を実施した時期もあったが、やがて銅山の閉鎖と共に使命を終えた。

路線図

略史



明治 26(1893) - 2/  住友 別子鉱山専用鉄道  開業
昭和 4(1929) - 11/ 5  地方鉄道に変更、旅客営業開始
12(1937) - 6/ 21  住友鉱業に改称
21(1946) - 1/ 29  井華鉱業に改称
25(1950) - 3/ 1  別子鉱業に改称
27(1952) -  住友金属鉱山に改称
30(1955) - 1/ 1  専用鉄道に再変更
52(1977) - 2/ 1  住友金属鉱山 別子鉱山専用鉄道 廃止

廃線跡現況

鉱産品輸送を目的として開業した貨物鉄道でもあり、その出発点惣開は工場敷地内となる。今の住友化学(写真A)だ。詳細は調査不能だが、各種地図を比較すると、駅の移動があったことをうかがわせる。
また隣接する重機械工場内に次の原地が置かれ、旅客営業時は東側の市道から乗降が可能だったと思われる。
惣開駅跡 A
19年4月
B 市道を南下すると、手入れされた線路敷(写真B)が工場内から姿を現す。側溝状の構築物を伴うが、金属鉱山跡でよく見かける抗廃水管路のようだ。
19年4月
海水浴客向けの原地臨時駅付近に、架線柱らしき鉄柱(写真C)を見つけるが、鉄道の設備なのか確認は取れていない。
なお現状では海水浴と聞いてもあまりピンとこないが、古い地図には埋立前の磯浜地区に、連続した砂浜海岸が描かれている。
C
19年4月
D 駅を出たのちは南東に進み、続く星越トンネル(写真D)でほぼ真東へと向きを変える。開業当初は峠越えの難所だったようで、10年ほど後にトンネルが掘削され、勾配が緩和された。
旧線も探したが、平行する道路に取り込まれたのか、痕跡を見つけることはできなかった。
19年4月
線路跡は二車線道路の北側を進み、選鉱場が置かれていた星越(写真E)に達する。当時の駅舎が状態良く保存されるものの、残念ながら説明表示はなく、立入りも禁止されている。

ここからは新居浜港へ向かう路線が分岐していた。開通は昭和に入ってからだが、すぐに本線として扱われている。
E
19年4月
F 分岐後は左急カーブで向きを北に変え、工場敷地内を抜けると、図書館通と呼ばれる市道脇に出る。一部はショッピングセンターに組み込まれるが、空き地として残された区画もある。

さらに別労会館付近の昭和橋を過ぎたのち、東川を渡る。ここには当時のスルーガーター橋(写真F)が姿を見せている。
19年4月

川の北にはコンクリート製の小橋梁(写真G)も続く。丁度、食品スーパーの裏手にあたる。この先は再び工場内に入り込むため、廃止時に起点となっていた新居浜港は、正門(写真H)の外側から様子をうかがうより術がない。

G H
19年4月 19年4月

一旦星越に戻り、今度は鉱山方面に向かう。

工場南端を進んでいた路線は、敷地を出た後、遊歩道に利用され始める。直後に設けられていたのが多喜ノ宮信号所(写真I)で、跡地は空き地、自治会館等に変わっている。
鉱山鉄道らしい大きな構内が偲ばれ、ここからは新居浜駅への支線も分岐していた。
I
19年4月
J 支線側も自転車道(写真J)に転用され、歩行者専用道と仲良く並んで延びる。道路上を進むと、アンダーパスに変わった県道136号線との踏切先に、三連のアーチ橋(写真K)が姿を見せる。東川に架かる橋で、762mmゲージとは思えぬ重量感のある造りだ。

続く尻無川もコンクリート橋(写真L)だが、橋桁はPC材のようにも見え、途中で一度交換された可能性もありそうだ。
19年4月

K L
19年4月 19年4月

さらに、路線廃止後に開通した県道11号線をオーバークロスで越えると、路面に描かれた線路模様と共に、新居浜(写真M)へと滑り込む。ここで予讃線と接続し、支線は終了する。 M
19年4月
N 再び本線に戻り、抗廃水管路を併設した遊歩道を進む。

信号所を出るとすぐに右カーブが始まり、南に向きを変える。ここに多喜ノ宮(写真N)が置かれていた。南のはずれに細長いコンクリート残骸が顔を出し、一見ホーム跡にも見えるが、その形状がやや頑強すぎるため判断に躊躇する。
なお駅名は瀧ノ宮とした資料もあり、途中で表記のみ変更したと考えられる。
19年4月
駅の南で滝神社裏の切通し(写真O)を抜け、南東に向きを振り、東川を越えたのち予讃線と交差(写真P)する。
同所の跨線橋は、橋台、橋脚共に布積と谷積を組み合わせた独特の模様を見せており、しばらく立ち止まって見入ってしまった。
O
19年4月
P 遊歩道には歩行者専用の標識が設置され、車止も設けられている。しかし一般道との交差点において、双方とも一時停止の標識が無いのは珍しく、交通マナーの良さを物語っているようでもある。

この先は片勾配の連続した上り坂が、残り区間すべてに待ち構える。
19年4月
徐々に高度を上げ、国道11号線をオーバークロスすると、新土橋(写真Q)に到着する。ホーム跡らしき石垣が残されスロープも付随するが、それだけでは断定は難しい。地元での教示を得られなかったことも痛手だ。 Q
19年4月
R 旧国道の南に位置したのが旧土橋(写真R)。相対式ホームを持っていた駅だが、それらしき面影は見られない。
19年4月
続く山根も新旧両駅が存在し、対向施設を持つ新駅(写真S)は道路に広がりが認められる。カーブ途中に設けられ、やはり相対式ホームを備えていたが、千鳥に配置される路面電車方式のため、構内はかなり長かったようだ。 S
19年4月

ここで線路跡を転用した遊歩道は終了し、そのままスーパーの駐車場を抜け、二車線道路を横切り、旧駅(写真T)となる。こちらは駅跡らしい雰囲気は一切ない。駅の東側には煉瓦造りの橋台(写真U)が姿を見せている。

T U
19年4月 19年4月

V
22年3月
一旦東に向いた路線は、続いて山根処理場と名の変わった収銅所脇をかすめる。当時からの抗廃水処理施設で、構内には側線用と思われるレール(写真V)も顔をのぞかせている。
W
19年4月
その後大きな曲線を描いて向きを南に変え、カーブ途中では内宮神社の参道階段を横断する(写真W)

路盤には相変わらず抗廃水管路が併設され、路面もきれいに整地されるが、立入りが制限される個所が多くなる。
X
19年4月
やむを得ず旧道を迂回し、松山道との交差付近に設けられていた坂之元まで来ると、地元住民の利用を考慮したのか、線路敷にアプローチする階段が新設されている。

ここで再び、跡地を直接たどることが可能となり、直後にトンネルが二箇所連続する。物言嶽隧道(写真X)と車屋隧道(写真Y)だ。共に煉瓦造りのカーブトンネルで、特に後者は内部でS字カーブを描いている。
Y
19年4月
トンネルを含めてルート上はよく手入れされているが、散策路を目的としているわけではなさそうで、隙間だらけの橋梁跡(写真Z)や、丸太を並べた区間(写真AA)などが現れ、細心の注意を払って進む必要がある。

Z AA
19年4月 19年4月

AB
19年4月
きれいに整地された黒石(写真AB)にはホームが温存され、小さいながら当時の写真も掲示されている。路面に車の轍を確認できることから、構内に建てられた携帯基地局の保守通路としても利用されているようだ。

集落へつながる取付道路を降りてみると、狭い上に荒れ放題、おまけに高低差は大きく距離も長い。利用客の不便さを思い知らされた。
AC
19年4月
駅の南には新しい貯水タンク、抗廃水路用の橋脚(写真AC)が線路脇に続き、コンクリートのアーチ橋(写真AD)も今だ健在。

終点の端出場(写真AE)はテーマパーク・マイントピア別子として再生され、多くの来場者でにぎわっている。

AD 端出場駅跡 AE
19年4月 19年4月

AF
19年4月
旧ルートを使って観光列車が走り、共に登録有形文化財に指定された、端出場隧道(写真AF)と端出場鉄橋(写真AG)とを通り抜ける。

列車はあっという間に打除(写真AH)に着くが、開業当初はここが終点となり、端出場鉄橋から真っすぐ進んだ位置に設けられていた。
今は幸運駅と名付けられ、観光坑道の入口ともなっている。

AG 端出場鉄橋 打除駅跡 AH
19年4月 19年4月

-上部鉄道-

別子銅山で採掘された鉱石を、索道を介して工場まで運搬するためにつくられた鉄道。開業は下部の本線と同年だが、その後の搬出ルート変更によって明治44年に廃止されてしまった。距離は5.5km、軌間は762mmで蒸気動力を用いていた。

AI
20年8月
角石原駅跡
起点の角石原(写真AI)はズリで埋められた平坦地に設けられ、今は山の好きな住友OBが建てたヒュッテに変わっている。
人が歩く山道しかない標高1100mの地点まで、よくぞ建設資材を運んだと感心する。
AJ
20年8月
第一通洞跡
駅構内の端に第一通洞と呼ばれる坑道の出口(写真AJ)があり、内部にはレールが残されている。傍らの説明板には、粗銅を運び込むためのトンネルで、人や馬によりにより運搬されていたと書かれている。
AK
20年8月
上柳谷橋梁跡
レールを撤去した上部鉄道の路盤跡はそのまま登山道に転化され、駅を出ると左急カーブで上柳谷(写真AK)を渡る。登山客が多いのか、しっかりした歩行者橋が架けられている。

鉱石を満載した列車が最初に渡る橋梁でもある。
AL
20年8月
谷を越えると東平から登ってくる山道との三差路に出る。わかりやすい案内標識があるので、道に迷う心配はない。その先に丸太三本を渡した橋(写真AL)を見つける。煉瓦積の橋台は鉄道の遺構と考えてよさそうだ。
AM
20年8月
葡萄谷橋梁跡
続く葡萄谷(写真AM)では崩れた橋台を目にする。人力に頼っていた明治中期、この規模の構造物が人里離れた山奥に建設されたことは、ただ驚くしかない。

なお迂回路が山側に設けられ、先に進むことに支障はない。
AN
20年8月
線路跡は散策路的な箇所も多いが、気を緩めると、突如として落石に道をふさがれて(写真AN)しまうこともある。この先には、きれいな状態を保つ石積の切土擁壁(写真AO)が見られる。

下柳谷の橋梁跡(写真AP)には簡易桁が架けられ、歩行者用に補助ロープも張られている。

AO
20年8月
下柳谷橋梁跡
AP
20年8月

AQ
20年8月
路面には落石が多いものの、比較的平坦で歩きやすく、途中には小橋梁(写真AQ)、岩の切通(写真AR)、小橋梁(写真AS)と続く。

この数多くの橋台上、果たして木橋が架けられていたのか、あるいは鉱石の重量を支えるべく鉄橋だったのか、今のところ詳細は調べ切れていない。

AR
20年8月
AS
20年8月

AT
20年8月
唐谷川橋梁跡
次に現れるのが唐谷川の橋梁(写真AT)。橋脚が二基、橋台も両岸に残り、三連の大きな橋であったことをうかがわせる。写真では伝わりずらいが、近くで見るとその迫力に圧倒される。
AU
20年8月
さらにつり橋(写真AU)が続く。今は丈夫なワイヤーで吊られているものの、当時もつり橋だったのか不明で、わかっているのは、かなり長い橋にもかかわらず、途中に橋脚の痕跡が認められないことだけだ。
AV
20年8月
裏谷橋梁跡
裏谷も橋台(写真AV)が残り、簡易桁が渡されるが、劣化が激しいのか通行止となっている。迂回部は勾配が急で、アシスト用のロープに助けられて何とかクリアする。
AW
20年8月
地形から考えるより橋の数が多く、少し進んでは橋、また少し進んでは橋といった具合で、思うようにスピードを上げられない。そんな中に直接渡ることのできる小橋梁(写真AW)もあるが、観察のために下に降りることが多く、結果的に時間の短縮とはならない。
AX
20年8月
この先で抜ける岩の切通(写真AX)には、大きな落石も見られる。崩れた土砂の堆積が多いのも、切通の特徴となっている。

七釜石の橋梁(写真AY)にも丸太の桁は乗っているが、通行止で渡れず、山側へ迂回せざるを得ない。また大半が埋もれてしまったのか、道の端にほんの少しだけ顔を出している橋台(写真AZ)もある。

AY
20年8月
七釜石橋梁跡
AZ
20年8月

BA
20年8月
一本松駅跡
その後路盤に大きな変化はなく、やがて中間駅の一本松(写真BA)に到着する。既に木々が生い茂る中にも、平坦な土地を確保していたことが確認できる。
構内には側線が設けられ、索道を介した鉱石搬出の拠点ともなっていたようだ。
BB
20年8月
駅を出てしばらくすると、再び小橋梁跡(写真BB・BC)が連続して現れる。きれいな状態を保っているが、予想を上回る遺構の数に若干食傷気味でもあり、立ち止まる時間が徐々に減ってくる。

さらに表示板のある保線小屋、給水タンク跡を過ぎたのち、同じく表示のある第二岩井谷(写真BD)に至る。ここは簡易桁に補助ロープが張られているものの、やや離れているため、不安定な体制のまま渡らざるを得ない。

BC
20年8月
第二岩井谷橋梁跡
BD
20年8月

BE
20年8月
第一岩井谷橋梁跡
続くのは第一岩井谷(写真BE)。丸太が架かるものの危険なため通行止めとなり、谷へ降りての迂回を強いられる。
BF
20年8月
さらにもう一箇所、橋梁跡(写真BF)を認める。若干地形が落ち着いてきたのか、あるいは標高が下がったためなのか、谷の間隔、つまり橋梁の出現する間隔が少しずつ開き始める。
BG
20年8月
右手に大きな紫石を見ながら進むと、しばらくして橋梁痕が二箇所(写真BG・BH)続く。うち一箇所はしっかりとした木橋に架け替えられ、自然に歩行速度は上向いてくる。
しかしそれも長くは続かず、やがて目の前に背の高い雑草が立ちはだかる。藪地とまではいかないものの、勢いは半減せざるを得ない。
BH
20年8月
これを通り抜け、再び状態の良い路面を進み始めた途端、野生動物と遭遇する。その大きさ、色合いから熊のように見えたが、猪だったのかもしれない。いずれにせよ相手が「ブフォ」と鳴いて逃げたので事なきを得たが、無用なトラブルを避けるため、同所で引き返す判断をした。

残すは1kmほどで、当線最大の切通と石ヶ山丈の駅跡はお預けとなったが、明治期に建設された鉱山鉄道の雰囲気を充分に味わうことはできた。

-坑内軌道-

BI
19年4月
マイントピア別子には坑内軌道の車両が展示保存され、周囲では数ヵ所の坑道を確認することができる。
また国領川に架かるトラス橋(写真BI)には500㎜軌間のレール、クロッシングが姿を見せる等、各所に鉱山の面影が色濃く残されている。
BJ
19年4月
主力となった第四通洞(写真BJ)は橋の先に坑口を現し、レールもそのまま内部に通じている。
東平に採鉱本部が置かれていた時代の中心は、その上部に位置した第三通洞(写真BK)で、旧別子地区の日浦通洞(写真BL)に直結し、地域住民の旅客輸送も担っていた。

BK
20年8月
BL
22年3月

参考資料

  1. 別子銅山鉄道略史/別子銅山記念館
  2. 四国の鉄道廃線ハイキング/春野公麻呂 著/ロンプ事務局

参考地形図

1/50000   新居浜 [M39測図/S28応修]
1/25000   新居浜 [S42測量]   別子銅山 [S42測量]

 No237に記帳いただきました。
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制作公開日2022-4/7 *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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