地区:大分県大分市 区間:日鉱幸崎~日鉱佐賀関/9.2km 軌間:762mm/単線 動力:蒸気→内燃
この鉄道が計画されたのは第二次世界大戦中だった。佐賀関製錬所の物資輸送を海運から陸運へ転換することが目的で、なんと着工から7ヶ月でのスピード開業を目指していた。しかもこの区間には橋梁9ヶ所、隧道4ヶ所が含まれる。ところが、いやむしろ当然というべきか、実際に開業したのは2年後の戦後になってからだった。開業後、地元からの要望もあって客扱いする地方鉄道に変更されたが、残念ながらわずか十数年の短命で終ってしまった。九州地方の軽便鉄道は914mm軌間が多いが、ここ佐賀関は全国で主流の762mmを採用した。製錬所の構内軌道に直通できることや、険しい地形を通過するための建設費抑制、及び上記の工事期間短縮が大きな要因と考えられる。
略史
昭和 |
21(1946) - |
3/ |
11 |
日本鉱業佐賀関専用線 |
開業 |
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23(1948) - |
6/ |
11 |
〃 地方鉄道に変更、旅客営業開始 |
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38(1963) - |
5/ |
15 |
日本鉱業佐賀関鉄道 |
廃止 |
路線図
廃線跡現況
JR日豊本線の幸崎(写真A)がこの鉄道の始発駅。跡地は駅前広場に組み込まれている。佐賀関鉄道の駅名も日鉱幸崎だが、この地の中心集落は神崎と書いて、同じく[こうざき]と読む。
北に向かう路線は、まず数軒の住宅を抜け、その先に当時の築堤(写真B)が姿を現す。長く放置されたままだったが、近年自転車道として整備され、さがのせきサイクリングロードの名がつく。道の始まりには、20ヵ所といわれるアーチ橋(写真C)の一つが待ち構える。
築堤で方向を東に変えたのち、県道715号線を横切る。この東側が日鉱本幸崎(写真D)となる。現在の神崎中学校前バス停付近で、石積とコンクリートを兼ね備えた、比較的きれいなホーム跡を見つけることができる。
駅の先は一部が国道197号線に利用されるものの、八幡神社前から再び自転車道(写真E)に戻る。ここからは国道に平行して終点を目指す。
しかし、線路跡は以前から生活道として利用されてきた経緯から、自転車専用の規制はなく、車の通行も自由だ。
最初の河川、湊川(写真F)は鉄道用の橋梁が再利用されている。ただコンクリート桁に関しては見た目が新しく、当時のものか判断が難しい。
なお全線を通してパイプラインが併設され、橋梁部では道幅を狭めるように配置されるため、必然的に自動車の通行は不能で、歩行者及び自転車のみが利用可能となる。
次の橋梁(写真G)は、鉄道用をそっくり転用した模様だ。その東隣の跨道橋(写真H)は改修されているものの、762mm軌間用としてやや過大とも思われる立派な橋台が残されている。
続く二俣川を越える高架橋(写真I)もコンクリート製。塗装されているため風化具合は判別できないが、その形状から鉄道用の再利用とみて間違いなさそうだ。
あまり一般的ではないコンクリート橋が続くのは、海水による塩害を防ぐと同時に、第二次世界大戦中の極端な金属不足が要因と考えられる。
日鉱大平(写真J)にはホーム跡が一部残り、海岸からの取り付け道路も健在。ただし参考資料1には当駅のみ昭和28年に移転した記され、こちらは二代目に相当する可能性が高い。
駅の東側には西谷川橋梁(写真K)と跨道橋が連続する。河川側は二俣川と同様のコンクリート構造で、やはり塗装処理が施されている。対する道路側は、橋脚、橋桁共に金属製で、見た目にもかなり華奢なスタイルとなっている。後年、遊歩道向けに新設されたものとみられる。
その東方の跨道橋(写真L)は手直しされた上で供用され、さらにアーチ橋(写真M)が続く。
道なりに進むと、幅員が若干広がる地点(写真N)にでる。国道も近接し、狭いが取付道路もある。ここを旧日鉱太平と言われれば納得する場所でもある。
しかし地元で確認を取れず、憶測の域は出ない。
次の橋梁(写真O)もコンクリート橋で、おそらくオリジナルのまま転用されたと思われる。
道路にはサイクリングロードと名がつくものの、相変わらず自動車通行可能な箇所と、車止めにより制限される箇所が混在する。しかも自転車道の案内標識が最初の幸崎のみで、途中に一ヵ所も無いのはやや心もとない。
道の駅佐賀関の手前で鉄道側と国道が交差し(写真P)、左右を入れ替える。そのまま道の駅を抜けると別府湾の海岸沿いに移り、道も未舗装(写真Q)に変わる。
ここでほぼ90度向きを変えると再び国道と交差し、今度は一車線の生活道に転用される。
日鉱大志生木(写真R)跡の幼稚園は既に無く、19年時点で柵に囲われた更地となっている。また駅東方の大志生木橋は当線内で多用されるコンクリート橋だが、その形状から後年架け替えられたものと判断することはたやすい。
橋の先には大志生木トンネル(写真S)が姿を現し、歩行者用として転用され利用者もそれなりに多いようだ。トンネルを出た線路跡は一旦国道に吸収され、日鉱小志生木(写真T)も道路上のバス停付近に置かれていた。
続く遺構は、この鉄道最長の小志生木トンネル(写真U)となる。旧道の真下に位置する入口は金網フェンスでふさがれるものの、隙間から内部を見通せるため、パイプラインが通っていることや、漏水も無く状態は良好なことを確認できる。
しかし出口側は海岸沿いの崖に阻まれ近づけず、遠望も難しい。崖の中で孤立したように見える管路(写真V)が、鉄道の跡地を示すのみとなっている。
辛幸地区に入るとようやく路盤上を歩けるようになるが、一部に陥没した箇所(写真W)も見受けられ、地中のパイプがむき出しとなった姿は、なんとも痛々しい。
付近には、当時の石垣も数多く残されている。
線路跡と旧道が隣接する地点で、久々にアーチ橋(写真X)を発見する。しかしこれを含めて、全数の二割弱しか把握していないことになる。なんとも情けない限りだ。
日鉱辛幸(写真Y)にはやはりバス停が設けられる。ここからは専用のサイクリングロートが復活し、久々の案内看板も登場する。
また駅の南東方面にある弾薬庫に向けて手押軌道が延び、佐賀関鉄道の開業がもう少し早ければ、弾薬の輸送に利用されていた可能性もある。
海岸沿いの古宮トンネルは、現在、出入口とも封鎖されている。それに伴い、サイクリングロードもこの区間のみ新設路で迂回する。
西側の坑口は以前ロードから視認できたが、19年時点では樹木が生い茂り、注意深く観察しないと見落としてしまう。東側の坑口(写真Z)も健在だが、こちらは国道までの区間は完全な藪地となっている。
日鉱古宮(写真AA)は佐賀関中学校の東端に位置した。道路脇に、おそらく初めてと思われる歩行者専用の標識が出てくる。学校に配慮したものだろう。
駅の東には金山トンネル(写真AB)が当時のまま残り、一部補修され今は歩行者道として利用される。その出口に置かれていたのが日鉱金山(写真AC)で、ここからの路盤は道路や駐車場に吸収され、痕跡は消える。
終点日鉱佐賀関(写真AD)はバスターミナルとして利用されていたが、19年時点では駐車場に変わっている。
なお当駅には一つ疑問が残されている。昭和28年の地形図では、佐賀関製錬所内に駅が描かれていることだ。現在は関係者以外立入れない場所で、当時の写真とも食い違う。単なる記載ミスなのか、それとも実際に駅が移転したのか、今も事実関係を掴み切れていない。
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻160号/日本鉱業・佐賀関鉄道/谷口良忠 著・・・私鉄車両めぐり
- 鉄道廃線跡を歩くⅡ/宮脇俊三編著/JTB
参考地形図
1/50000 |
佐賀関 |
[S28応修] |
|
|
1/25000 |
佐賀関 |
[S35資修] |
坂ノ市 |
[該当無] |
No186に記帳いただきました。
最終更新2020-9/22 *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*
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