日本鉱業日立鉱山専用鉄道を訪ねて
佐賀関鉄道 廃止鉄道ノート関東 減速進行

 地区:茨城県日立市  区間:助川~大雄院(5.3km)/構内線  軌間:762mm/単線  動力:電気

日立鉱山の足元、大雄院に新設する精錬所への入出荷を目的として専用鉄道が建設され、構内線等を含めるとその距離は30㎞近くに及ぶ。当然のことながら従業員の輸送にも利用され、駅も数箇所設けられた。但しあくまで便乗扱いであったため、従業員以外の乗客も全員無料で利用することができた。

略史

明治 43(1910) - 4/ 10  久原鉱業所 日立鉱山専用鉄道 開業
昭和 3(1928) -  日本産業に改称
4(1929) - 4/ 20  日本鉱業として独立
35(1960) -    日立鉱山専用鉄道  廃止

路線図



廃線跡現況

A
22年5月
常磐線への接続駅となっていた助川(写真A)。旅客駅は大きな荷扱所の北側に設けられていたが、駅前の再開発により当時を偲ぶものは何も見つけられず、駅名も現在は日立へと変更されている。

駅を出た後、シビックセンター等のビル群に上書きされた軌道敷は、四車線のバス通りを越えた地点から、細い路地東側の商店群(写真B)として利用されはじめる。一画を抜けると今度は道路中央の駐車場(写真C)に変わり、さらにルート確認が容易となる。

B
22年5月
C
22年5月

D
22年5月
駐車場への転換は国道6号線で終了し、これを横切った先が六号国道宿踏切(写真D)となる。大日本職業別明細図は踏切直近に停留場を描いているものの、ホーム等を備えた正式な駅ではなかったようだ。
E
22年5月
その後は正面に立ち構える電線工場を避けるかのように、右にカーブを描く(写真E)。当時の電線工場正門は線路をそのまま直進したあたりに位置し、カーブ外側に設けられた袋線と呼ばれる側線から、構内へのレールが分岐していた。
F
22年5月
北に向きを変えた路線の大半は駐車場(写真F)となり、やがて日立市役所の中に入り込んでしまう。
この手前で日立セメント専用鉄道をオーバークロスしていたはずだが、今となってはその手掛かりさえ掴めない。両者は北西側の連絡線で結ばれ、おそらく杉本付近で産出されたセメント原料を受け渡していたものと思われる。
G
22年5月
市役所を抜けた先、アパート跡に造成された駐車場外縁に市道を越える橋台らしき石積(写真G))が残されるものの、鉄道用である確実な根拠を得ることはできなかった。
その後は一旦市道脇を併走し、徐々に一体化する。
H
22年5月
さらに右手から県道36号線が近づき、両者の合流地点が芝内(写真H)となる。日立製作所山手工場の正面に位置し、同名のバス停も設けられている。駅からは工場内への側線も多数延びていた。
I
22年5月
この先は県道の拡幅に取り込まれ、しばらくは両者で軌を一にする。
次の白銀町歩道橋交差点を過ぎると、県道左手やや上方の山腹に路盤らしき跡地(写真I)が現れる。ただ藪地化が激しく通り抜けは難しい。
J
22年5月
その後は県道と接近、離反を繰り返し、杉本はその途中で交差する日立有料道路の東付近に置かれていた。が、周辺は既に森林と同化し、痕跡はおろかそれらしき場所の確認すらできない。
さらに有料道路を越えた地点に、平坦な空き地(写真J)が広がる。確証はないが、開業当初のみ設けられていた役宅跡の可能性も考えられる。また第三石灰山への側線は同所付近から分岐していた。
K
22年5月
駅の先も路盤上を直接たどることは難しく、やむなく隣接する県道を進むと、やがて左手に運送会社が近づいてくる。この奥に若干の線路跡が残され、橋梁痕(写真K・L)を二箇所確認できた。

再び県道沿いに戻ったルート上では、生い茂る雑草の中からコンクリート橋(写真M)の一部が姿を見せている。

L
22年5月
M
22年9月

N
22年5月
旅客の終点大雄院(写真N)は、その敷地を生かし大きな駐車場に変わっている。
レールはこの先、本来の専用鉄道として大雄院精錬所内に入り込み、構内では多数の枝線が分岐していた。但し、今もJX金属の一部門として操業中のため、残念ながら遺構の確認は不可能と言わざるを得ない。

参考資料

  1. 鉱山電車むかし話/柴田勇一郎 著/筑波書林

参考地形図

1/50000   日立 [S15三修]
1/25000   町屋 [該当無]   日立 [該当無]

お断り・連絡先    ↑ページtop
制作公開日2022-10/6  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
転載禁止 Copyright (C) 2022 pyoco3 All Rights Reserved.