茨城交通水浜線を訪ねて
茨城線 廃止鉄道ノート関東 減速進行

 地区:茨城県水戸市  区間:袴塚・上水戸〜湊20.8km  軌間:1067mm単線  動力:電気

黄門様の街として、あるいは納豆の本場として知られる水戸市。当地を中心に設立された茨城鉄道、湊鉄道、水浜電車の各鉄道が、第二次世界大戦中に大合同し茨城交通が誕生した。同社水浜線は市街地では道路上を、郊外では専用軌道を走る二面性を持ち合わせていた。

略史

大正 11(1922) - 12/ 28  水浜電車 開業
昭和 19(1944) - 8/ 1  茨城交通に合同、同社水浜線となる
   〃  水浜線、上水戸駅乗り入れ
41(1966) - 5/ 31      〃  当日をもって廃止

路線図


廃線跡現況

A
17年3月
水戸市内では線路付替に伴う新旧二つの起点が存在し、旧線側の袴塚(写真A)は国道118号線に突き当たる形で駅を構えていた。その跡地は既に道路沿いの店舗に飲み込まれ、鉄道とは何の関係もない、といった表情を見せている。
B
17年3月
住宅街に埋没した路線は駅を出るとすぐ左に曲がり、次いで県道342号線と交差する。同所南側の薬局が初代上水戸(写真B)跡となるも、地形図に記載はなく、1934年の水戸市平面図等を参照する必要がある。
駅の先も住宅街が続き、この中で右手から近づく新線と合流する。
C
95年1月
第二次世界大戦中、近接する茨城線に乗入れ、同線上水戸(写真C)が新たな起点となるに伴い、旧線側が廃止されている。連絡新線は駅に直角に進入し、構内の急カーブで茨城線とレールを結び、直通運転も実施された。
茨城線の主要駅でもあった駅跡は、その広さを生かして大型店舗に活用される。
D
95年1月
東に発つ新線は民家への進入路を経たのち、市街地の中で右急カーブを描いて旧線に合流する。直後に軌道跡を転用した生活道が姿を現す。その入口に位置したのが谷中(写真D)で、開業初期の始発駅を担っていたため、道路には今も構内の広がりが残る。
E
95年1月
南下する生活道路上に、馬口労町入口(写真E)一中前(写真F)と続くが両駅共地形図に記載がなく、前記水戸市平面図等にて場所を確認した。
児童公園横の砂久保(写真G)を過ぎると、急角度のクランクを経て国道50号線に乗入れ、道路上を自動車に揉まれながら走ることになる。

F
24年5月
G
95年1月

H
95年1月
国道に入って最初の駅が公園口(写真H)で、駅名は言わずと知れた偕楽園にちなむ。ここからの区間は、道路の拡幅、直線化に伴って線路も若干移動された経緯を持つ。ただその痕跡を探し出すことは、もはや不可能に近い。
なお水戸市街地は上市と下市に分れ、上市は水戸駅の北西に、下市は南東に位置する。この両地域を分けるように走るのが常磐線だ。
I
95年1月
大工町(写真I)は路線計画時の始発駅で、駅名から職人の町だったことが偲ばれる。さらに黄門さん通りの愛称が付く上市の国道上には、泉町三丁目(写真J)泉町一丁目(写真K)南町四丁目(写真L)南町三丁目(写真M)郵便局前(写真N)水戸駅前(写真O)と、各駅が路面電車らしく短距離で連続する。相変わらず地形図に記載のない駅が多く、水戸平面図により補った。

J
17年3月
K
17年3月

L
17年3月
M
17年3月

N
17年3月
O
95年1月

P
24年5月
道路上を走ってきた水浜線は次の本社前(写真P)で左に折れ、専用軌道に移行する。至近で続く次駅は地図に名称が付されず、有力な情報もないため不明駅(写真Q)とせざるを得ない。ここから水郡線を越えるべく続いた築堤は、国道51号線の新設に利用され、西行車線の同名バス停付近が三高下(写真R)に相当する。

Q
17年3月
R
24年5月

S
24年5月
水郡線を越えると今度は高架橋に変わり、一旦地上に降りる。撤去費用の関係からか橋梁部は国道転用から外れ、今はその跡地に数棟のマンションが建ち並ぶ。
下り勾配終了地点に設けられた一高下(写真S)では、水郡線との貨物連絡線が分岐していた。
T
17年3月
駅から常磐線交差までは再度築堤での上り勾配が続き、この区間は国道の建設に利用された。常磐線を越えるとそのまま南隣(写真T)を併走し、高架橋で地表に降りる。平坦地となった直後に日赤入口(写真U)が置かれていた。
駅の東方はJR用地に吸収され、南端を進んだのち右に向きを変え東棚町(写真V)に至る。同所で旧国道上に乗入れ、再度、併用軌道として下市の旧市街地を通り抜ける。

U
17年3月
V
17年3月

W
95年1月
初の併用橋となる桜川の水門橋は、当時の橋梁が今も現役で使用され、一部未撤去のレール(写真W)が舗装面から頭を出している。橋のたもとには石碑が立てられ、水浜線の歴史を後世に伝えている。
X
95年1月
川の対岸で新国道の51号線と交差し、次の信号交差点を左折した先が本一丁目(写真X)となる。ここから下市のメインストリートが始まり、カラー舗装された市道の両サイドに商店が建並ぶ。 通りに沿って本三丁目(写真Y)本五丁目(写真Z)と続くが、上市同様、当時の面影を偲ぶものは何ひとつ見つからない。

Y
17年3月
Z
95年1月

AA
17年3月
二度目となる国道51号線との交差手前で軌道側は右に曲がり、道路上を離脱する。併用軌道終端に置かれていたのが浜田(写真AA)で、南側に併設された車庫跡は、その大きな敷地を活かし今は大型店舗が居を構える。
なお大正14年の大日本職業別明細図には、この旧市街地に二丁目三丁目四丁目七丁目の各駅が記載され、水戸市平面図とはそれぞれ微妙に位置が異なる。移動の容易な路面駅でもあることから、数次の変遷を経た可能性も考えられる。
AB
17年3月
この先水浜線は専用軌道に変わり、農地の広がる水戸の郊外へと抜け出る。舗装路(写真AB)に転換された線路跡は、農作業道を兼ねるのか狭いながらも自動車の通行が可能となっている。
AC 途中、新川に架かる橋梁(写真AC)は軌道用を再利用したため道幅が狭く、実質的な歩行者専用橋となる。
川を越え国道6号線水戸バイパスをくぐり、大きな右カーブ終了地点にあったのが谷田(写真AD)。ここで転用道路はいったん終了し、駅南方の左急カーブ地点に建つ民家を過ぎると、今度は放置された路盤(写真AE)が姿を現わす。
95年1月

AD AE
95年1月
17年3月

ただこれも距離は短く、すぐ未舗装路(写真AF)に変わり、農道のような形で南東に続く。道はやがて国道51号線に接近し、六地蔵寺参道との交差地点から再び舗装路に戻る。
六反田(写真AG)は、一時停止標識が立つ十字路の北側にあたる。駅の先、ゆるやかな右カーブが終了すると道幅が若干広がり、国道に平行するため交通量も少な目で、生活道としての条件が揃い始める。
AF
17年3月

AG
17年3月
道路脇には水浜と刻まれた境界杭(写真AH)を見つけることもできる。
AH
17年3月

AI
17年3月
また各所に車幅を制限する太い支柱(写真AI)が立てられ、大型車の進入を拒んでいる。ただ支柱内側には擦った跡が無数に認められ、傷ついた車の悲鳴が聞こえてくるようだ。
自動車整備工場となった栗崎(写真AJ)を過ぎ、さらに進むと住宅街に突きあたって転用道路(写真AK)は終了する。

AJ
17年3月
AK
95年1月

この先は新たに造成された住宅地の一画に入り、そのまま二車線の街路に合流する。同地点に設けられた東前(写真AL)の跡地は、現在、畑等に利用される。ここからの道路は線路跡を拡幅転用して建設され、住宅群を抜けると一車線に減少する。 AL
17年3月
AM
17年3月
狭くなった道路上を進み、右手に小学校が見えてくると稲荷小下(写真AM)に着く。道路脇の余地が駅跡を示すものの、開設期間が短いためか地元でもその存在はあまり知られていないようだ。
AN
95年1月
東水戸道をくぐった直後に大串(写真AN)が置かれ、列車交換のため複線を有した構内は、道路両側に大きく広がっていたようだ。駅の東で市役所支庁内を抜けると、再び一車線道路に転用されはじめる。
AO
17年3月
十字路といった程度の目印しかない塩ヶ崎(写真AO)を過ぎ、県道40号線を越えた後、平行してきた国道51号線と交差しその北側に出る。ただし国道の横断は不可能で、大きく迂回せざるを得ない。
AP
95年1月
交差後の路盤は農道状態で放置され、途中の用水路に当時の小橋梁(写真AP)を見つけることもできる。
農地帯を脱し、やや東に向きを振るとルート上に生活道が現われ、最初の小さな右カーブ地点に平戸(写真AQ)が位置した。涸沼川畔の船着場(写真AR)へ側線が延び、同社が運航する汽船と連携し那珂湊までの乗客を運んでいた時期もある。

AQ
17年3月
AR
17年3月

AS
95年1月
本線側は船着場のすぐ西隣で涸沼川(写真AS)を渡る。上流は汽水湖の涸沼、下流は太平洋につながるため、潮汐に応じて流れが逆転する珍しい河川でもある。また川幅も広く、当線の中でも多額の建設費用を要したことは容易に想像できる。ただ橋梁の痕跡は見つからず、その前後に軌道跡を利用した道路が続くのみだ。
AT
17年3月
対岸で後輩の鹿島臨海鉄道(写真AT)をくぐり、大洗町最初の磯浜(写真AU)に至る。当地の中心駅としてそれなりの規模を誇っていたと思われ、今はその敷地を活かした大型店舗に変わる。駅を出て再び生活道(写真AV)に戻った路線はすぐ右カーブを描き、次いで逆の左カーブに突入する。共に曲線半径はかなり小さく、まさに路面電車ならではの線形だ。

AU
95年1月
AV
17年3月

AW
95年1月
両カーブを抜け出ると新設の二車線道路に合流する。直後に置かれていたのが大貫(写真AW)で、長く現存していた貴重な駅舎も既に姿を消してしまった。
道なりに進み、次の信号で左に曲がった後は、太平洋を望む海岸沿いのルートを走った。ただ現在は大洗港の整備により、眺望は一変している。なお市街地には併用軌道区間も混在したが、専用軌道部がより長い距離を占め、その路盤の大半は併走した道路の拡幅に利用されている。
AX
17年3月
消防署となった曲松(写真AX)前後は道路転換から外れ、北に向きを変えた地点で再び道路上に戻る。同時に上り勾配が始まるも、道路は次のT字交差点で終了してしまう。この突当りに建つ民家が仲町(写真AY)に相当する。
駅の先でさらに数軒の民家を抜けたのち一車線の町道に近づき、東脇を併走(写真AZ)しはじめる。

AY
17年3月
AZ
95年1月

BA
95年1月
上り勾配の終了地点手前で道路を東に離れ、工場敷地内等に取り込まれつつ東光台(写真BA)まで進む。空き地となった駅跡に食堂が隣接し、当時からの駅前商店なのかと想像してみる。
駅の東で二車線道路に合流し、空き地(写真BB)や一部店舗等に活用された中を進むと、突然北に向きを変え初代大洗(写真BC)に到着する。

BB
17年3月
BC
24年5月

BD
18年9月
この先一帯はゴルフ場として開発され、すでに調査のすべはない。当時は南北の道路がほぼ一直線に走り、水浜線はその西側を平行していた。
以北の部分廃止に伴って駅が移転され、現在のバス駐車場付近に終点としての二代目大洗(写真BD)が設けられた。雑草地となった跡地の中に、今もホーム跡がほんの少し顔を出している。
BE
17年3月
ゴルフ場を抜けて最初の駅が祝町(写真BE)で、町営松ヶ丘住宅の北東角と重なるが既に痕跡もなく、地元でも忘れられた存在のようだ。その後も線路跡は農地や宅地等に変わり、ルートを直接たどることは難しい。
願入寺参道脇で営業する料理店西寄の願入寺入口(写真BF)を過ぎた直後、最後の路盤(写真BG)が姿を現す。勾配緩和を目的とした迂回ルートで、駈け下った先に那珂川の右岸が迫る。

BF
17年9月
BG
17年9月

開業当初の初代海門橋(写真BH)は、同名の道路橋につながる旧道沿いに設けられ、対岸の那珂湊へは徒歩で連絡を取っていた。その後、新たに架け替えられた海門橋を併用橋として利用し、レールを対岸まで延ばした。 BH
95年1月
BI
17年3月
これに合わせ駅前後の路線が東寄りに移設され、二代目海門橋(写真BI)は県道108号線直下付近に置かれたと考えられるも、正確な位置の確認は取れていない。
BJ
17年3月
この併用橋、小説の題材になる程の興味深い経緯を持ち、竣工時から既に歪みが発生していたいわく付きの橋だった。これが原因なのか、架橋から10年足らずで流失し、同時に水浜線の那珂湊乗入れも終了した。橋の残骸(写真BJ)は、今も那珂川の川原で見つけることができる。なお現在の海門橋は、この流失事故後かなりの時を経てから建設されている。
BK
17年3月
対岸に渡ると左手にひたちなか商工会が近づく。この正面に短命に終わった終点、(写真BK)が設置されていた。参考資料1によれば、北側を流れる万衛門川に架かる辰口橋の半ばまでレールが敷かれていたとあり、併用橋として建設されたのであれば更に中心部までの延伸を視野に入れていたと考えられる。しかしこの橋も既に架け替えが済み、当時の面影どころか鉄道の雰囲気さえ感じる取ることはできなかった。

参考資料

  1. 水浜電車/小野寺靖 著
  2. 鉄道ピクトリアル通巻160号/茨城交通・水浜線/中川浩一 著・・・私鉄車両めぐり
  3. RM LIBRARY63/茨城交通水浜線/中川浩一 著/ネコ・パブリッシング・・・沿革と現役時代の紹介

参考地形図

1/50000   水戸 [S27応修]   那珂湊   磯浜 [S3鉄補]
1/25000   水戸 [S15修正]   ひたちなか [S15修正]   磯浜 [S5部修/S15修正]

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最終更新2024-7/7  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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