茨城交通茨城線を訪ねて

水浜線  廃止鉄道ノート関東  減速進行

 地区:茨城県水戸市 区間:赤塚〜御前山 軌間:1067mm 動力:蒸気→内燃・電気

水戸を中心として茨城鉄道、湊鉄道、水浜電車と各鉄道が設立され、第二次世界大戦を期に大合同し茨城交通が誕生した。水戸を流れる那珂川に沿って茨城鉄道が計画されたが、なぜか国鉄との接続駅には水戸ではなく赤塚を選んでいる。これには地元民の反対が大きく影響したらしい。ただ、どちらを選んでいても廃止は避けられない運命にあったのだろう。
廃線跡を赤塚からたどったが、ほぼ全線にわたり道路転用され遺構も少ない。


 略史

大正 12 (1923) - 8/ 26 茨城鉄道 設立
15 (1926) - 10/ 24   〃 開業
昭和 19 (1944) - 8/ 1 湊鉄道、茨城鉄道、水浜電車 茨城交通に合同
46 (1971) - 2/ 11 茨城交通 茨城線廃止

 路線図

* 地図上にマウスポインターを置くと茨城線を表示します


 廃線跡現況

A 赤塚は国鉄駅との共用駅、茨城交通線は水戸寄りの先端部から出発していた。

写真(A参照)は駅東の常磐線並走部跡。
95年1月
常磐線と分かれると、その先は舗装道路に転用される。

東石川(B参照)西原町もこの道路上に位置した。
B
95年1月
C 上水戸(C参照)は大型店舗となる。

茨城線はここで急カーブを描き、向きを北西へと大きく変える。
95年1月
曙町(D参照)は、水浜線車両用の低床ホームと茨城線車両用の高床ホームを備えた珍しい駅だった。

同様の例は広島電鉄宮島線など、ごく限られている。
D
95年1月
E 転用道路を北西へとトレースすると、大学前、さらには廃止後に建設された常磐道をくぐり田野(E参照)と各駅が続く。
95年1月
飯富(F参照)も道路上で、やはり当時の痕跡をとどめるものはない。 F
95年1月
G この先で一旦転用道路が途切れ、一部放置された路盤(G参照)が顔を覗かせる。


藪を抜けると線路跡が再び道路に再利用され、そこには国道123号線の名称が付けられている。
95年1月
国道の東に川が流れ、新旧の地形図で比べるとこの流路が大きく変えられていることを確認することが出来、興味をそそられる。河川名も未変更部が藤井川で、変更部のみ新藤井川を名乗る。

藤井(H参照)はこの藤井川から別れる西田川沿いにあった。
H
95年1月
I 参考とした旧版地形図には、駅のやや北で左方向に分岐し那珂川に至る路線が描かれているが、これは砂利採取の貨物線と思われる。


本線はやがて国道から左に外れ(I参照)、農道に近いような生活道となって北へと延びて行く。
95年1月
その生活道上にあるのが那珂西(J参照)
地元で資材置場にでも使われているのか、トラックや土砂に隠されているがホーム跡が垣間見られる。
J
95年1月
K 廃線跡道路は石塚の市街地に入ると歩道も併設された2車線道路に拡幅され、県道52号線の名称が付加される。


石塚(K参照)は開業当初には車庫を併設していたため、その広い敷地を利用し大型店舗に変った。
また、車庫は写真奥に位置していた。
95年1月
密集地を抜けるとセンターラインのない舗装路に戻り、常陸岩船(L参照)へたどり着く。

この先、桂川と国道123号線に挟まれた間は区画が整理され、農地の中に埋没する。
L
95年1月
M 国道を北へ越えると再び道路転用される。


阿波山(M参照)駅跡地が桂村の役場として利用されていたが、平成の大合併により城里町桂支所へと名称が変っている。
95年1月
阿野沢付近で並走する国道123号線に合流し吸収された形となり、ここに痕跡は発見できない。


だがしばらくして線路跡が国道から離れ始めると、橋台(N参照)を見つけることが出来る。
N
95年1月
O 御前山(O参照)は柵に囲まれ、まさに荒れ放題といった構図で近づくことさえままならない。
茨城線晩年の衰退の様子がひしひしと伝わってくる、寂しい場所となってしまった。
95年1月

 参考資料


 参考地形図

1/50000  水戸 [S3鉄補]  常陸大宮 [S26応修]
1/25000  水戸 [S15修正]  石塚 [S15修正]  徳蔵  野口

 参考web


 
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最終更新2014-10/14  無断転載禁止 Copyright (C) 2007 pyoco3 All Rights Reserved.