長野電鉄屋代線を訪ねて
木島線 廃止鉄道ノート北陸・甲信越 減速進行

 地区:長野県長野市  区間:屋代~木島/24.4km  軌間:1067mm/単線  動力:蒸気→電気

千曲川左岸を走る信越本線を補完するように、右岸の河東地区を縦断していた屋代線。長野電鉄では最初に開業した区間にもかかわらず、最後まで支線扱いを余儀なくされた。鉄道離れの影響なのか、既に信越本線の一部は第三セクターのしなの鉄道へと変わり、当線も平成後期に終焉を迎えてしまった。

略史

大正 11(1922) - 6/ 10  河東鉄道 開業
15(1926) - 9/ 30  長野電鉄に改称
平成 24(2012) - 4/ 1    屋代線  廃止

路線図


廃線跡現況

A
22年5月
しなの鉄道との接続駅だった屋代(写真A)には、現在もホーム跡と共にレールが一部残されている。
南側の検査場も健在で、入口のレールがなぜか銀色の光沢を放っている。よくよく観察すると庫内に大型の車両が留置され、検査機材は整理整頓されている。どうやら路線廃止後もここだけ業務が継続され、しなの鉄道のメンテナンスを請け負っているようだ。
B
22年5月
駅を出ると放置された路盤跡が続き、最初の県道踏切(写真B)にはレールが取り残されたままだ。やや北の五十里川ではガーダーを載せた橋梁跡(写真C)を確認できる。ここで並走していたしなの鉄道と別れ、徐々に東寄りに向きを変える。

後輩の北陸新幹線をアンダーパスし、二車線の市道を横切った先に東屋代(写真D)が置かれていた。22年時点で駅跡は更地となるが、再利用の予定はなさそうに見受けられれる。

C
22年5月
D
22年5月

E
22年5月
南側に隣接した屋代中学の東端付近には、小橋梁跡(写真E)も姿を見せている。桁は一見 Iビームのように見えるが、実際は溝形鋼を背中合わせとした珍しい構造で、リベット接合を含めて河東鉄道独自の仕様なのかもしれない。

線路跡はその先も放置状態だが藪地化はせず、定期的な草刈り等は実施されているようだ。
F
22年5月
続く水路橋(写真F・G)もやはりガーダーが残されたままで、橋台は当初の石積をコンクリートで補強した様子が見て取れる。また用地境界杭もかなり残されているが、長野電鉄の社章ではなくレールマークが刻まれいる。

雨宮(写真H)は構内の一部に工事用の仮事務所が置かれ、東側には小橋梁も顔をのぞかせている。

G
22年5月
H
22年5月

I
22年5月
駅から少し進んだ先の一丁田川(写真I)には、途中で更新されたであろうコンクリート橋が架けられている。
J
22年5月
その一丁田川が流れ込む沢山川(写真J)では、比較的新しいスルーガーダー橋が原形をとどめている。堤防の整備状態からみると、保存に向けて動いているようにも感じ取れる。
K
22年5月
川を越えた後は右岸堤防上の片隅を走り、信越道をくぐったあたりで堤防から東に離れる。
同所にも沢山川支流の橋梁(写真K)が残され、こちらは水面までのクリアランスが少ないにもかかわらずデッキガーダーが採用されている。
L
22年5月
さらに旧国道を横切ると北山トンネル(写真L)が待ち構える。入口は柵でふさがれるものの、内部に漏水はなくまだまだ状態は良さそうだ。出口側は路面(写真M)にバラストが露出するため線路跡の歩行が可能で、一部に車のわだちも認められる。

岩野(写真N)は駐車場となり、既に駅跡の雰囲気は消滅してしまった。

M
22年5月
N
22年5月

O
22年5月
駅の先は深い草地となって国道403号線沿いを走る。やがて上越道をくぐると国道から離れ、今度は一車線の舗装路が併走する。途中では、溝形鋼を張り合わせた独自形状のガーダーを載せた、小橋梁(写真O)を見つけることができる。
P
22年5月
この東方から、線路跡の半分ほどが歩行者道路(写真P)に転用されはじめる。隣接する一車線道路の歩道部分を担当しているようにも見えるが、やや中途半端な印象を受ける。

道なりに進み、当地の史跡勘太郎橋まで達すると、道路の下方に側道一体型の水路用暗渠を確認できる。
Q
22年5月
同所からは鉄道用地全てが歩行者道として利用される。ただその距離は短く、次の象山口(写真Q)で終了してしまう。駅は市道の北側に位置し、ホーム跡の広がりが今も路盤脇に残されている。

北東に向かう路線は農道として利用され車の轍も続くが、その轍が途切れた先にガーダー付きの小橋梁(写真R)が残されている。
路盤はやがて一面の雑草に覆われ、築堤で徐々に高度を上げはじめる。歩行者用の横断通路(写真S)も途中に一箇所設けられていた。

R
22年5月
S
22年5月

T
22年5月
上り勾配が終了した地点で越える神田川は、既に護岸の修復が完了し痕跡は消え去っている。

川の先は再び築堤が続き、直近にコンクリート橋(写真T)を確認できる。本来の水路部分が蓋で覆われ、人の通行も可能な二重構造を持つ。なおこの築堤が比較的新しいコンクリート擁壁に支えられるのは、神田川の改修工事に合わせ、橋梁と共に嵩上げされた結果かと推測する。
U
22年5月
下り勾配が終わり、地上に降りた地点に設けられていたのが松代(写真U)。主要駅としての大きな構内は大半が更地とされ、未舗装のまま駐車場に変わっている。しかし駅舎と南側のホームは残され、保存に向けて動き出しているようでもある。
V
22年5月
駅を出ると今度は自転車道(写真V)へ転換されるが、あまりにも距離が短かく、一人の利用者にも出会うことはなかった。今後の延伸に乞うご期待といったところのようだ。
W
22年5月
再び放置された路盤が顔を出すと、早々に築堤へと変わりその高度を上げる。道路用の陸橋(写真W)を過ぎた先に、塗装のはげ落ちた蛭川のスルーガーダー(写真X)が現れる。広い川幅をワンスパンで越えることから、ここも河川改修時に更新されたと考えてよさそうだ。

さらに橋北側の跨道橋(写真Y)を過ぎたのち、下り勾配で地上に降りる。

X
22年5月
Y
22年5月

Z
22年5月
その後は平行していた国道403号線と離れ、未舗装路(写真Z)として北につながっていく。路上にはマンホールも点在するため、何らかのインフラに利用されているのかもしれない。
AA
22年5月
そのまま農地の中を進むと、道は突如として自転車道に変わる。周りに人家はなく、当然のごとく利用者は皆無だ。飛び石状態なのは予算の関係かもしれないが、サイクリングロードとして有機的に機能するにはまだまだ時間がかかりそうだ。

大きな構内の大半が更地となった金井山(写真AA)では、南側に少しだけホーム擁壁が残される。
AB
22年5月
駅を過ぎ、やがて現れる緩やかな左カーブで自転車道は終了する。ここからは再び放置された路盤が続き、雑草で覆いつくされた中に二箇所の石積橋台(写真AB・AC)を確認できる。

その先には離山トンネル(写真AD)が待ち構え、立ち入りを制限する柵が設けられものの、内部の状態は比較的良さそうだ。

AC
22年5月
AD
22年5月

AE
22年5月
トンネルを出るとそのまま大室(写真AE)に滑り込む。特に利用予定もないのか、空地のまま残されている。

駅の北では、一部に舗装路(写真AF)として利用される箇所があるものの、残りの大半は放置され雑草が生い茂る。その途中に構える関崎トンネル(写真AG)は、まだまだ良好な状態が保たれている。

AF
22年5月
AG
22年5月

AH
22年5月
その後もバラストが浮き出た箇所と雑草の生い茂る箇所が交互に入れ替わる中、小さなコンクリート橋(写真AH)や道路脇の水路用橋台(写真AI)を見つけることも可能だ。

信濃川田(写真AJ)にはホーム等が残され、駅舎はバス待合所として利用されている。一時期は車両も留置され、保存に向けた動きもあったようだが、現状を見る限りその行く末は楽観できるものではなさそうだ。

AI
22年5月
AJ
22年5月


AK
22年5月
駅東方の赤野田川橋梁(写真AK)も、今のところ原形を保っている。デッキガーダーに比して割高なスルーガーダーが採用されたのは、川床の浅さが要因なのかもしれない。続く水路橋(写真AL)は、珍しい鋼材埋め込み型の桁を持つ。

東に向かう路線が左カーブを描き始めた直後、県道34号線と交差しその下をくぐる(写真AM)。相変わらず雑草しかない路面に対し、道路橋側には架線用の碍子が残されている。

AL
22年5月
AM
22年5月

AN
22年5月
上信越道に並んで越える保科川(写真AN)は、やはり当線内に数多いスルーガーダーが未撤去のままだ。

なお踏切も数多く存在したため、機器類の基礎を各所で目にすることができる。
AO
22年5月
痕跡の消えた次の若穂(写真AO)から突如自転車道が再開される。大きな河川の無い区間を中心に、順次整備を進めているようにも受け取れる。ただあまりにも細切れで、利用者の少なさは必然ともいえる。
AP
22年5月
三度目となる自転車道終点が綿内(写真AP)で、大きな構内の大半は未舗装の駐車場となるが利用車は限られる。また駅前広場は青空市場に利用され、バス停も兼務する。新しくできた待合所に鉄道時代の写真や沿革等が掲示され、裏手には当時のホーム跡がその姿を見せている。
AQ
22年5月
駅から先、再び雑草地に戻った路盤上に水路痕(写真AQ・AR)が定期的に現れ、中にはレールで両岸を結合した珍しい橋台(写真AS)も含まれる。位置関係を保持する目的とも思えるが、詳しいことは不明。

AR
22年9月
AS
22年5月

AT
22年5月
さらに上信越道をパスした直後の権五郎川には、3連のガーダー橋(写真AT)が残されている。見るからに年代を感じさせる外観で、開業当初から使用されていたと考えてよさそうだ。特に橋脚は煉瓦積に於いてまれに見る形態を持ち、おそらく後年コンクリートで固め補修したものと推測する。
AU
22年5月
やや東方にはレールを桁代わりに埋め込んだ小橋梁(写真AU)を見つける。当線では珍しい構造で、軌条桁と呼ぶ社もあるようだが、正式名なのかは調べ切れていない。
AV
22年5月
路面は雑草からバラストへと変わり、ようやくルート上を直接たどることが可能となるが、すぐ先で道路への転用工事(写真AV)が開始されたため、大きく迂回を強いられてしまう。ここは自転車道ではなく、その幅員から自動車通行可能な二車線道路に転換されるようだ。

22年時点では、いまだ工事区間に数箇所の水路跡(写真AW・AX・AZ)を確認できるものの、姿を消すのも時間の問題となっている。また同区間内の井上(写真AY)には駅跡を示す案内板が立てられ、簡単な沿革も記されている。が、その跡地は新設の道路に飲み込まれてしまいそうだ。

AW
22年5月
AX
22年5月

AY
22年5月
AZ
22年5月

道路転用予定地を脱すると再び雑草に覆われた路盤が北に向かって続き、築堤で徐々に高度を上げる。途中に跨道橋(写真BA・BB)が二箇所設置されていた。

BA
22年5月
BB
22年5月

BC
22年5月
築堤はそのまま鮎川橋梁(写真BC)へとつながる。目視でも片勾配であることは判別可能で、石積の橋台、橋脚はコンクリートで嵩上げされた形跡がうかがえる。また二連のデッキガーダーが開業初期からのものであれば、一つは鉄道省から払い下げを受けた80フィート桁の短縮加工品である可能性が高い。
BD
22年5月
続いてその支流となる百々川(写真BD)を渡り、こちらは極端に大きさの異なる二連のスルーガーダーが採用されている。ただし北側の120フィート前後と思われる長大桁は、大正期なら一般的にトラス橋を選択する長さでもあり、当初から使用されてたのか判断が難しい。橋脚の一部撤去を伴う後年の更新時に換装されたとも推測できる。
BE
22年5月
二本の川を渡り終えたのち、今度は築堤を使って徐々に地上へと降りる。途中に道路との立体交差(写真BE・BF)が二箇所あり、共に石積の橋台が原形をとどめている。

築堤の先に続く未舗装路(写真BG)には車止めの柵が設けられ、特に標識はないものの実質的に歩行者と二輪車の専用道となっている。

BF
22年5月
BG
22年5月

BH
22年5月
途中で横切る水路(写真BH・BI)は鉄道時代の橋台に枕木を並べて対処している。耐荷重が必要ないことから、簡素なつくりでも十分役目を果たせるようだ。

道路上を進むと、やがて廃線跡を利用した公園が近づいてくる。初期の線名から河東線記念公園(写真BJ)と名付けられ、当時のレールや貨物ホーム等も展示保存されている。

BI
22年5月
BJ
22年5月

BK
22年5月
公園の北側が長野線との接続駅須坂(写真BK)となり、当時の発着ホーム等はいまだ健在だが、途切れてしまった線路上には車両が留置され、車庫の一端を担わされているかのようだ。

参考資料

  1. 長野電鉄60年のあゆみ

参考地形図

1/50000   長野   須坂
1/25000   信濃松代   長野   須坂

 93年当時の各駅

お断り・連絡先    ↑ページtop
制作公開日2022-10/4  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
転載禁止 Copyright (C) 2022 pyoco3 All Rights Reserved.