福井鉄道鯖浦線を訪ねて
南越線 廃止鉄道ノート北陸・甲信越 減速進行

 地区:福井県鯖江市  区間:鯖江〜織田19.2km  軌間:1067mm単線  動力:電気

北陸本線の建設後、各駅から接続するかたちで中小の私鉄が設立された。鯖浦電気鉄道もこの中のひとつに数えられる。開業区間は鯖江〜織田間だか、鯖浦の社名から最終の目的地は日本海に面する旧四ヶ浦村だと云われている。今は合併により越前町と名を変えたが、昔から越前海岸の中心で海産物が豊富なところ。廃線を訪ねたあと、越前ガニ料理などを味わうのもいいかもしれない。

略史

大正 15(1926) - 10/ 1  鯖浦電気鉄道  開業
昭和 4(1929) - 4/ 1     全通
20(1945) - 8/ 1  福武電気鉄道と合併、福井鉄道となる
37(1962) - 1/ 25  福井鉄道 鯖浦線 鯖江〜水落 廃止
47(1972) - 10/ 12      〃  西田中〜織田 廃止
48(1973) - 9/ 29      〃 全廃

路線図


廃線跡現況

鯖浦線の起点鯖江(写真A)は旧国鉄駅構内の西側を利用していたが、今となっては私鉄線が発着していた雰囲気はまったく感じられない。
路線廃止後に北陸本線の複線化工事が実施され、駅の先は北陸本線の下り線分として線路用地を提供している。
A
94年3月
B
94年3月
JRに沿ってしばらく北上すると、国道417号線の馬蹄形跨線橋が上空を横切る。この真下付近に東鯖江(写真B)が置かれていた。
ここで北陸本線と別れた後、線路跡の大半は細分化され、今ではその上に住宅が建ち並ぶが、中には道路に転用された箇所や、若葉(写真C)と長泉寺北(写真D)のように公園への利用も見受けられる。

C
16年4月
D
16年4月

E
16年4月
続いて国道8号線バイパスを斜めに横切り、上り築堤で徐々に高度を上げつつ左に大きくカーブする。この区間は工場等に利用されるため、当時のルートを直接たどることは不可能となっている。
ただし西へと進行方向が変わった途端、築堤の残存部(写真E)が姿を現し、路盤上には住宅も建てられている。
F この西方で福武線と交差し、同所に連絡駅の初代水落(写真F)が設けられていた。福武線が上、鯖浦線が下の立体交差で、駅構内は階段によってつながっていたこと、現水落駅につながる連絡線が出来るまでは軍人の乗換えで大賑わいだったこと、等を地元で教えてもらった。
94年3月
埋め戻された交差部(写真G)に、以前はなぜか0キロポストを確認できたが、現在は撤去されているようだ。ただし当時の跨線橋橋台跡は、福武線のバラストの中から今も顔をのぞかせている。なお連絡線側(写真H)も鯖浦線と同時に廃止され、今は道路として利用されている。

連絡線との合流部から西は二車線道路(写真I)に転用され、さらに南北に走る西縦貫道路との交差点から自転車専用道に変わる。
G
94年3月

H
16年4月
I
16年4月

J その専用道はすぐに日野川を渡るが、橋は既に歩行者橋へと架け替えが完了し、平成橋(写真J)と名付けられている。

川を越えると市街地から郊外へと移り、土地に余裕があるためか越前平井(写真K)川去(写真L)の両駅跡が公園兼休憩所として整備、保存されている。
16年4月

越前平井跡 K L 川去駅跡
94年3月 94年3月

西に向かっていた路線が右カーブで北西に向きを変えると、今度は和田川にぶつかる。この区間、以前は鉄道の路盤がそのまま放置(写真M)されていたが、今は自転車専用道鯖浦線の一部に組み込まれている。

なお和田川に痕跡はなく、その先もグランドや農地、宅地等に変わり線路の跡は消える。
M
94年3月
N 旧朝日町の中心地に設けられていた西田中(写真N)。以前はロータリーを備えたバスターミナルとして利用されていたが、現在は道路建設によりかなり縮小され、雰囲気が大きく変わっている。

駅の西は宅地や農地となり、分庁舎を過ぎて南に向きを変えると二車線道路として利用され始める。この途中に、犬釘を残したままの枕木(写真O)を見つけることもできる。
94年3月

O
16年4月
やがて県道187号線(写真P)に合流し、ここで鉄道跡は道路の東端に位置を移す。
P
16年4月

次の佐々生(写真Q)手前で県道から左に離れ、集落の東を通る。駅跡には相対式ホームが現存し、今も当時の雰囲気を感じ取ることが可能だ。 Q
94年3月
R 駅の先は農地の中に入り込み、鉄道用地の一部は農道として利用されている。その農地の中を和田川が横切り、二度目となる鯖浦線との交差部には当時の橋台(写真R)が残されている。

さらに両サイドから山並みが迫ると、当時の路線は和田川に沿った狭隘区間を抜けるが、その手前に橋梁跡(写真S・T)を二箇所見つけることができる。しかし両者とも自動車向けに改修され、特に東側の橋梁は上部が大きく削られて鉄道時代の面影は損なわれてしまった。
16年4月

S T
16年4月 16年4月

ここからは路面状態が悪化し、すぐ放置された藪地へと変わるため足を踏み入れることは難しい。その路盤は山腹に沿って左カーブを描くと再び和田川を越え、蝉口バス停付近で県道187号線に再合流する。

南進する路線が右カーブを描き、徐々に県道から離れると陶ノ谷(写真U)に到着する。駅跡には手入れ良くホーム等が保存され、説明板(写真V)も用意されている。ここに当時の車両があれば、更に良いのだが・・・。
U
94年3月
V 駅を過ぎると右にほぼ90度向きを変え、峠越えをめざす。カーブ地点の大築堤は既に削られて農地となり、痕跡は見つけられない。

進行方向を西に変えた鉄道は、県道104号線を右手に見下ろしながら連続勾配で駆け上がっていく。
94年3月
現在同区間は完全に放置され、ほぼ自然に還った状態を示すが、その中に二箇所、小橋梁跡(写真W・X)を確認する。

県道側には柵が設置されるものの、なぜか橋梁跡の箇所のみ開口部が設けられ、更に線路跡との間に流れる水路にコンクリート桁まで架けられているのは面白い。
W
94年3月
X 二度三度とカーブを繰り返す県道が上り勾配をやや緩めると、南側山腹を走っていた鯖浦線が合流する。ここからの県道は鉄道用地を拡幅転用したもので、自動車にとっては快適な二車線道路となる。
16年4月
Y
16年4月
峠を越え小さな集落にたどり着くと、そこが樫津(写真Y)。製材所が目印となり、平屋の倉庫付近に駅舎があったこと、タケノコの産地で以前は工場もあったこと、等を地元で聞いた。また道路は県道から国道365号線に管轄変更される。

駅を出ると左に曲がり、同時に鉄道としては不自然な程の急な下り坂となる。これは鉄道廃止後、北側の村道にあわせて盛土したため、勾配が変えられたとのこと。
Z
16年4月
続く下江波(写真Z)は宮崎総合事務所前交差点の西側に設けられ、江波(写真AA)は製材工場が目印となる。このあたりは木材の出荷が多かったのかもしれない。矢倉(写真AB)は下河原交差点の南西部に位置した。

いずれにせよ、線路敷を中心として両側に大きく拡幅された国道に当時の痕跡は認められず、鉄道の雰囲気さえも感じ取ることはできない。

AA
94年3月
AB
16年4月

AC
16年4月
路線の終点で旧織田町の中心となる織田(写真AC)は、貨物取り扱いのため北に長く広がる構内を有し、その大きさを生かしてバスターミナル等が整備された。
当初の計画では更に西に向きを変え日本海まで抜ける予定だったが、残念ながらこれ以上の延伸はかなわなかった。

なお交差点に面して織田信長の銅像が建立され、国道には「信長通り」の別称も付くが、これは織田家発祥の地であることに由来する。但し当地名は濁らずに[おた]と発音する。

参考資料


参考地形図

1/50000   鯖江 [S35資修]
1/25000   鯖江 [S33修正]   織田 [該当無]

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最終更新2022-1/25  
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