越後交通栃尾線を訪ねて
長岡線 廃止鉄道ノート北陸・甲信越 減速進行

 地区:新潟県長岡市 区間:悠久山〜栃尾26.5km 軌間:762mm単線 動力:蒸気・内燃→電気
田中角栄元首相が社長を務めたことや、最近では田中真紀子元外相の秘書給与流用問題で有名な越後交通。栃尾線はナロー鉄道としてはかなり遅くまでがんばった部類にはいる。越後交通の特徴なのか廃止後の跡地利用は遅々として進まず、痕跡も多く残されていたが、時の経過とともに遊歩道等への切り換えが進み、鉄道のにおいも次第に薄れている。
 略史
大正  4 (1915) - 2/ 14 栃尾鉄道 開業
昭和 31 (1956) - 11/ 20 栃尾電鉄に社名変更
35 (1960) - 10/ 20   〃  長岡鉄道、中越自動車と合併 越後交通として発足
    50 (1975) - 3/ 31 越後交通 栃尾線 廃止

 路線図



 廃線跡現況
A 南側の終端駅悠久山(写真A)は、悠久山公園西側に設けられていた。鉄道廃止後はバス営業所として利用され乗り場も同所にあったが、今はコンビニ店舗を挟んだ南側に移されている。

列車はここから西に向かって出発していた。
95年4月
駅の先に続く路盤は長く空き地として放置されていたが、近年歩行者道路として整備が進んだ。途中の長倉(写真B)にはベンチが置かれ、駅跡の目印となる。

その後、国道17号バイパスで道路は一旦途切れ、西側に抜けるには若干大回りする必要がある。自転車の利用が主眼ではなく、地元の散策路といった役割が大きそうだ。
B
95年4月
C 続いて、信濃川の支流である栖吉川を越え市街地(写真C)に入ると、交差道路が一気に増える。必然的に一時停止する回数が増える。そのせいでもないだろうが、自転車の走行姿を目にすることは一度もなかった。
95年4月
国道352号線との踏切東側に土合口(写真D)が置かれ、ここもベンチが備わっている。
なお長岡郷土史第47号に、開業時はカーブ上にホームあったと記されることから、当初は踏切の西側に駅があったものと思われる。
D
95年4月
E 国道を越え北に向きを変えると、今度は二車線の市道に変わる。しかしこの道もすぐ住宅地に突き当たり終了する。その一画に設置されていたのが大学前(写真E)で、北端には交番が居を構える。
95年4月
駅の先はシンボルロードと呼ばれる公園を兼ねた遊歩道が続き、さらに高校前を過ぎて左カーブを描いたのちは、駐輪場(写真F)に転身する。 F
95年4月
G 国鉄との接続駅で当路線の中心でもあった長岡(写真G)。上越新幹線建設時の再開発により、跡地は駅前広場に飲み込まれてしまった。

ここも開業時から若干移動したようだが、旧駅の正確な位置は特定できず、共に当時の痕跡は見つけようもない。
95年4月
駅を出た路線は商業施設西の駐車場を抜け、そのまま信越本線脇を北上する。放置され荒地(写真H)となった箇所も多いが、道路をまたぐ陸橋部では、残された路盤(写真I)を確認することもできる。

国鉄との併走区間には数駅が設置され、移動や開廃も繰り返されている。その中の一つ袋町(写真J)は以前レンタカーの駐車場となっていたが、19年時点では特に利用されるでもなく、ただ空き地が広がるのみだ。
H
19年9月

I J
95年4月
95年4月

K 中越高校前(写真K)は駐車場に利用される。しかし痕跡はなく正確な位置は掴み切れていない。

下長岡(写真L)には車庫(写真M)も併設されていたが、現在は関連企業が使用している。
95年4月

L M
95年4月 95年4月

その先は生活道の西側を走り、一画を抜けると公園(写真N)に変わる。しかし線路跡としては、やけに幅が広い。これは北端を流れる栖吉川に於いて、過去に線路移設を含む橋の架け替えが実施され、新旧両線の跡地を合わせて活用したためと思われる。 N
19年9月
O 栖吉川には鉄道時代の橋脚を利用した道路橋(写真O)が架かり、こちらが架け替え後のルートの相当する。歩行者橋のはずだが、なぜか車が進入した跡も認められる。

橋の東詰めでは、かなりきついS字カーブ(写真P)を描く。これは線路跡に沿ったものではなく、道路だけが旧橋梁側へ移動したことによる。
堤防から降りた地点で新旧両線は合流し(写真O)、遊歩道はさらに北東へと続く。
95年4月

P Q
19年9月
95年4月

以前、住宅地の中に突如として架線柱(写真R)が現れる、といった奇妙な風景をつくりだしていたのもこの付近。
今はふれあい緑道「せせらぎ」としてきれいに整備された。
R
95年4月
S 向きをほぼ真東に変え県道8号線に接近すると、下新保(写真S)となる。県道沿いの二階建民家奥が駅舎跡と聞いた。
95年4月
遊歩道はこの先、稲葉川にぶつかり終了する。ただし橋の痕跡はない。

川を越えたのちは、空き地(写真T)未舗装路を経て放置された築堤につながり、国道8号線バイパスの東側には、レールを組み込んだコンクリートの台座が転がっている。架線柱のようでもあるが、用途ははっきりしない。
T
19年9月
U 鉄道用地は現在も越後交通の所有で、年に一回程度除草するらしいが、すでにかなり背丈の高い雑草が生い茂っている。
小曽根(写真U)は、その草地が途切れた場所となる。
19年9月

駅の東には小橋梁が二ヵ所連続(写真V・W)する。いずれも橋桁代わりに三本のレールを組み合わせて使用するといった、かなり珍しい形態をしている。名称に関しての知識はないが、とりあえずレールガーダー橋とでも呼んでおこうか。

V W
19年9月 19年9月

近くには土管による暗渠を数箇所確認でき、レールを埋め込んだコンクリートの塊(写真X)も連続して残されている。こちらは架線柱の台座とみて間違いなさそうだ。 X
19年9月
Y 集落を抜けると農地中に路盤が続き、そのまま猿橋川に突き当たる。川に沿って置かれていた宮下(写真Y)は河川改修に飲み込まれて跡形もなく、写真やや右寄りに写る旧道のガードレールが、唯一駅跡特定の手がかりとなるに過ぎない。
95年4月
この先も耕地整理された農地内を進み、以前はその中に橋梁跡(写真Z)を見つけたが、既に護岸工事が終了し、今では場所の特定さえ難しくなっている。 Z
95年4月
AA 農地の中で北東に向きを変えると、再び放置された築堤が姿を見せる。ただし、すぐ未舗装道路に変わった後、しばらくして県道8号線を横切る。この北に設置されていたのが浦瀬(写真AA)

駅舎はバス停として利用され、ホーム跡と共にかなり長い期間残されていた。19年時点ではコンビニ店舗とバス転回所に分割されている。
95年4月
駅北側の水路には擁壁兼用の橋台(写真AB)が残され、中にレールが埋込まれている。前述したレールガーダー橋の一種だが、このタイプは各地で目にすることができる。 AB
19年9月
AC ここからの路盤は一部が農道(写真AC)として使われるものの、北に進むにつれ雑草が増え、隣に道路が並んだ地点で完全な荒れ地に変わる。しかし大きな雑木はなく、定期的な手入れが実施されている事をうかがわせる。

農村地帯の廃線跡は道路に転用するか、あるいは農地に取り込む以外の利用方法は少なく、条件から外れた区間はまさに無用の長物といった様相を呈している。近年はやりの負動産の仲間といってもいいかもしれない。
95年4月
その中で草木が刈り取られ、資材置き場のような形で利用されているのが加津保(写真AD)
駅の北側には昔なだらかな丘陵が広がっていたこと、削られて農地になったこと、丘陵を取り巻くように栃尾線が敷設されたこと、等を地元で教えてもらった。
AD
95年4月
AE 続く沢田川(写真AE)、浦加桂川には橋梁痕が残されている可能性もあるが、共に雑草に覆われて近づくことが難しく、確認は取れない。

両河川を越えた後は農道の東脇を走っていた。現在は圃場整備により農地に転換されている。
95年4月
しばらく進むと線路跡に未舗装路(写真AF)が現れる。と同時に道路は右カーブを始める。ちょうど新旧両ルートの分岐点にあたり、道路が新線側となる。

旧線はここで直進し農地内に飛び込む。さらに北に向きを変えると、ルート上に未舗装路が重なる。しかし旧線の用地は切り替え後に換地され、一旦農地に戻っているため、線路跡を転用して道路化したのではなく、偶然一致したと考えるのがよさそうだ。
AF
19年9月
AG 道路はすぐに舗装路へと変わり、やがて初代椿沢(写真AG)に達する。大正14年の地形図では送電線の北付近を指し示しすものの、現状からは正確な位置を知る術がない。
19年9月
新線側の路盤(写真AH)は一応通り抜け可能だが、状態は悪く、農作業道として使用されるにとどまっている。この区間は耕地整理から取り残され、今も越後交通が所有したままとのこと。
道路上にはバラストらしき丸い石が転がり、架線柱の基礎も数ヶ所で目に留まる。
AH
19年9月
AI さらに進んで、左カーブの終了地点が椿沢(写真AI)となる。新線に変わった後も駅の移動が行われ、95年の写真が北側の二代目駅、19年の写真が南側に移された三代目駅跡となる。

南側の道路脇にはホーム状のコンクリートが地中から顔をのぞかせている。しかし他所と形状が異なり高さも極端に低いこと、地元で確認が取れなかったこと等から、ホーム跡と判断するには至っていない。
95年4月
この先の路盤は遊歩道に転用され、途中の椿田川に架かるコンクリート橋(写真AJ)は鉄道橋を改修利用している。近くには架線柱の基礎も散見される。

道路は県道138号線に突き当たって一旦終了する。ここで西側から接近してきた旧線と合流したのち、再び歩行者道となって二車線の市道脇を併走し始める。
AJ
95年4月
AK 耳取(写真AK)は地元で正確な位置の確認が取れなかったため、旧版地形図から判断するにとどめた。

当駅もおそらく二代目で、官報に記載された初代上見附-耳取間 0.8哩(1.3km)、初代椿沢-耳取間 1.1哩(1.8km)から計測すると、開業時の駅は鳥屋脇バス停付近に設けられていたことになる。
95年4月
その鳥屋脇地区を過ぎてしばらくすると、平行する市道が左に曲がり両者は別れる。この分岐部に架かる橋(写真AL)は、橋台の一部が再利用された模様だ。

単独となった歩行者専用道は住宅地に入った後も続き、途中には鉄道用を改修した道路橋(写真AM)を見つけることができる。
橋の北が名木野(写真AN)で、初代上見附駅が廃止されたことによる代替駅でもある。線路跡はここから二車線の舗装路に変わる。
AL
19年9月

AM


AN


95年4月
95年4月


AO 道なりに少し進むと、栃尾方面との分岐部(M参照)に至る。

95年に確認することのできなかった初代上見附がこの北側に位置し、今は駅跡の案内板(写真AP)が設置されている。また1948年の空中写真において、当時の構内跡と思われる区画を確認することも出来る。
95年4月
なんとも中途半端な場所での折り返し駅となるが、これは鉄道建設と同時期に、見附市街地で大きく蛇行していた旧刈谷田川の改修計画が持ち上がり、この影響を受けて暫定開業となった可能性がある。

つまり直線状の新河道開削案が、見附中心部への栃尾鉄道予定線を横切るような形を取るため、先行されることを嫌う行政側から待ったがかかった、あるいは新河川への架橋費用で折り合いがつかなかった、等が推論として浮かんでくる。
AP
19年9月
AQ しかし見附の利用者にとっては不便この上なく、特に積雪時は大変との声に押され、河川整備を待たずに延伸工事が行われた。

その後完成したのが現刈谷田川で、橋梁がいつ架橋されたのかは調べ切れなかったが、河川拡幅時に架替えられた二代目(写真AQ)は、歩行者橋として整備、供用されている。一見、複線に見えるが実際は単線並列で運用されていた。
95年4月
川を渡り、二車線道路との交差後は住宅地に入り込む。

その一画を抜けた先が二代目上見附(写真AR)となる。三階建の会社事務所が駅舎跡であること、北側の倉庫東向かいにロータリーがあり、北から続く駅前道路を通ってバスが乗り入れていたこと、駅舎の前までレールが延びていたこと、倉庫は当時の米倉庫を改装したこと、等の話を聞くことができた。
AR
19年9月
AS 後年、都市計画による市道が整備され、それに伴って駅が南に移動し路線も若干短縮された。50mほどのスライドのため、新駅(写真AS・AT)を三代目と呼んでいいのか判断に戸惑う。
95年4月
その駅跡は長らくバス営業所として活用されていたが、現在は住宅地として細分化されてしまい、鉄道時代の面影は完全に消えている。
入口に描かれていたカーブした区画線(写真AU)と、位置の不変な横断歩道とを合わせて、かろうじて場所の特定が可能な状態だ。
AT
95年4月
AU ここでスイッチバックし一旦南に戻った列車は、刈谷田川南の分岐点から左急カーブを経て、ほぼ真東に進路を取る。線路跡は自転車道(写真AV)に転用され、沿線では架線柱の台座が数箇所目に留まる。

明晶(写真AW)にも駅跡を示す案内看板が立てられているが、なぜか旧版地形図の位置とは大きく異なっている。このような場合は、地元での教示が信頼度に勝ると考える。
19年9月

AV AW
19年9月 19年9月

道なりに進むと、やがて小さな水路橋(写真AX)を渡る。石積の橋台が残され、桁を載せ変えて自転車歩行者用に再利用されている。

続く緩やかな左カーブを終えると、刈谷田サイクリングロートと書かれた看板が現れる。ただ劣化が激しく、文字も判読が難しいほど消えかけているのは残念。
AX
19年9月
AY さらに右への緩やかなカ−ブ地点で県道19号線としばらく併走し、別れたあと本明(写真AY)に滑り込む。
案内表示はないが、駅跡を示すようにベンチが置かれている。
19年9月
駅を出ると再び県道に合流し、歩道兼務といった状態で南に向い、やがて県道から分かれると、その下をくぐり(写真AZ)位置を入れ替える。

太田(写真BA)は現地で情報を得られず、旧版地形図によりおおよその位置を判断した。
その後、徐々に東へと向きを振る中に、コンクリート橋(写真BB)を見かける。断定はできないが、鉄道用をそのまま利用したと思われる。
AZ
95年4月

BA BB
95年4月 19年9月

BC 長く続いた刈谷田サイクリングロートの終点は上北谷(写真BC)の駅跡に重なる。以前はバス乗り場にでも使われていたのだろうか、舗装された広い構内が広がり、駐輪施設も備わっている。

ここからの路盤は一旦区画整理された農地の中に消え、稚児清水川を越えてからは県道19号線に転換される。
95年4月
連続した上り勾配が直線で続き、頂点に掘削された楡原トンネル(写真BD)は、鉄道用を拡幅の上、再利用されている。トンネルを出ると、一転して下り坂が連続する。

バス停が目印となる楡原(写真BE)を過ぎ、ほぼ真南を向いた地点で再び県道から西に離れる。その後は旧道に沿って進み(写真BF)、空き地や駐車場が交互に現れる。
BD
95年4月

BE BF
95年4月
95年4月

BG 南東に向かっていた路線が小さな左カーブを経ると、今度は放置された路盤が姿を見せ、溝橋の橋台(写真BG)も残されている。対の遺構は民家の駐車場内で、通常はプランターにより隠されている。
19年9月
放置された区間は短く、すぐ終点の栃尾(写真BH)に到着する。駅跡は悠久山同様、大きな構内を生かし、越後交通のバスターミナルとして活用されている。

ここ栃尾の名物といえば油揚げ[あぶらげ]。その大きさに驚いて注文を躊躇したため、結局食いそびれてしまったことが未だに悔やまれる。
BH
95年4月

 参考資料
  1. 鉄道ピクトリアル通巻232号/越後交通栃尾線/瀬古龍雄・川垣恭三・反町忠夫・古田豊 共著・・・私鉄車両めぐり
  2. 越後交通社史

 参考地形図
1/50000  長岡 [S27応修]    三条  
1/25000  長岡 [S47修正]  見附 [T14鉄補/S47修正]  栃尾 [T14鉄補/S47修正]  栃堀

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最終更新2019-12/1  転載禁止 Copyright (C) 2005 pyoco3 All Rights Reserved.