十勝鉄道帯広部線を訪ねて
 地区:北海道帯広市 軌間:762・1067mm 動力:蒸気・内燃

清水部線  廃止鉄道ノート北海道  減速進行

もう何年前になるのだろうか・・・、「愛国」から「幸福」行の切符が大人気を博した時期があった。流行歌にも歌われ、老いも若きも切符を求めて当地を訪れたものだが、これもほんの昨日のことだったような気がする。両駅を擁する国鉄広尾線も既に廃止され訪れる人も減ったが、この広尾線の西、札内川を挟んだ対岸にビートを収穫する軽鉄道が走っていたことを知る人は少ない。


 略史

大正 8 (1919) - 6/ 11 北海道製糖 設立
9 (1920) - 10/   〃 帯広地区専用線開業
12 (1923) - 4/ 7 十勝鉄道 設立
13 (1924) - 2/ 8   〃 北海道製糖専用線を譲受 開業
11/ 4   〃 1067mm区間 開業
昭和 20 (1945) - 11/ 27   〃 河西鉄道を合併
26 (1951) - 7/ 1   〃 清水部線全廃
34 (1959) - 11/ 15   〃 762mm区間廃止
52 (1977) - 3/ 1   〃 専用側線となる

 路線図




 廃線跡現況

A 01年8月
軽便線の起点、帯広大通(A参照)は旧国鉄帯広駅の東に位置していたが、JRの高架化工事に伴った周辺の区画整理事業で当時の姿を失っている。


反対の帯広駅西側からは旧国鉄との連絡線が敷設されており、帯広大通から出発する軽便線とは次の新帯広の手前で合流していた。
ここから2キロほど南の製糖工場までは、国鉄直通線の1067mm区間と軽便線の762mm区間が重なった、貴重な4線区間として続いていた。
この区間は新たに建設された公園大通りに沿って進むが、区画整理事業の対象に含まれてしまったようで、沿線には当時の鉄道を連想させるものはなにも発見できない。鉄道ピクトリアル誌通巻98号に、この付近の詳細な線路配置と当時の写真が掲載されている。

十勝鉄道跡は西五条通との交差点付近から公園大通りを南にはずれ、そのまま公園内の遊歩道(B参照)として生れ変わる。

ここは十勝鉄道の愛称から「とてっぽ通」と命名され(C参照)、当時活躍した車両達も大切に保存展示(U参照)されている。
B 01年8月
C 01年8月
この「とてっぽ通」は1キロ半ほど続き、明星校前四中前などの各駅もこの途中にあったようだ。参考地形図には駅の記載が無く詳細な場所の特定は出来なかったが、現在の明星小学校および帯広第四中学校の直近付近が妥当な線ではないかと思われる。


四中前を過ぎ、売買川に突き当った地点でこの遊歩道は終る。
川を渡り、その先で一部生活道路などに転用されながらショッピングセンターの敷地を横切り、工場前(D参照)へと続く。ここは帯広工場と呼ばれ、沿線から集めたビートを一手に引受け製品としての砂糖に変えていた工場だ。
現在はどの程度稼働しているか不明だが、最盛期から比べるとかなり規模が縮小された雰囲気を感じ取ることが出来る。

この手前で横切ったショッピグセンターも元の工場敷地を一部を利用して建設されたおり、引込線もこの付近から敷設されていた。

駅跡にも何ら痕跡が残っていないため正確なところはつかめないが、現在の正門前にある広い空地付近と推測する。
D 01年8月
E 01年8月
ここから762mm区間はそのまま南方のビート畑へと、また国鉄連絡の1067mm貨物線は工場及びそのヤードへと、さらに車庫や留置線も併設されており当時は大変にぎやかな線路配置だったことだろう。なお駅の位置は当初のナロー線区時代とその廃止後の貨物線だけの時代では多少異っているようだ。

工場内は現在も関係者以外立入り禁止となっているが、その気になればいくらでも入ってしまうことが出来る。だからといって勝手に入ることは避けたい。やはり許可を取るなどの注意が必要だ。
ここからは1067mm軌間がなくなり軽便のみの路線となるが、工場を抜け再び跡地に沿って南東に進みはじめると、数百メートルの長さを持つ築堤(E参照)が当時の面影を残しつつ今もその姿を我々に見せてくれる。

帯広部としては貴重な痕跡だが、残念ながら再利用されるでもなく宅地に転売されなければ遅かれ大地に戻るのは必定のように感じられる。

この先は一部宅地化され、また一部が生活道に転用されて続いていく。生活道の方は転換されてからすでにかなりの年数が経つのだろう、今では道路沿いに多くの民家が建並ぶ(F参照)
F 01年8月
G 01年8月
東西に走る2車線道路を斜めに横切った後は帯広農業高校の敷地内に入り、北西隅でカーブを描き向きを南に変える。ここには軌道跡に沿ったと思われる杉林(G参照)が連続で続く。

カーブが終りほぼ真南に向いた地点が農学校跡。ここは帯広農業高校の西門付近と一致する。 この駅名、現帯広農業高校を指すものなのか、あるいは道をはさんだ対面にある現帯広畜産大学を指しているのかはよくわからない。なぜなら帯広農業高校は農業学校、帯広畜産大学は農業専門学校と呼ばれていた時代があるからだ。
畜産大学と農業高校の間には二車線の舗装路「西二線」が走り、これに沿って東側に空地が続く(H参照)
まさに軽便跡そのものの雰囲気が漂うが、残念ながら確証が得られない。


1キロほど南に進むと小さく右にカーブし、やや南西方向を目指すようになるが、ここからは十勝鉄道跡地を利用、拡幅してこの西二線道路が建設されたようだ。
H 01年8月
I 01年8月
帯広の市街地と呼べるのはこのあたりまでで、この先はまさに北海道特有の自然にとけ込む簡易軌道といった有様に変っていく。


徐々に酪農業独特のにおいが一体を支配しはじめる広大な農地の中、引続き西二線道路を南下すると十勝稲田川西豊西と2〜3キロ程度の間隔で駅跡が続く。
十勝稲田は参考地形図Aに記載がなく場所の特定が出来ない。


次の川西(I参照)には農協倉庫が建ち、豊西付近(J参照)は一直線の舗装路が続くのみとなっている。
J 01年8月
K 01年8月
八千代方向への分岐駅(K参照)には取付け道路がそれらしく残り、留置線なども備えた主要駅であったことが当時の写真などから推測できるが、既にその面影は忍べない。
また地区の地名は富士だが、なぜか駅名には藤を採用している。
本線と呼んでいいのだろうか、戸蔦方面へはそのまま道なりに進み、しばらくすると次の美栄(L参照)に到着する。

ここもそれまでの各駅同様、付近に民家はほとんどない。周辺の人家は札内川を越えた国鉄広尾線の駅周辺に集ってしまったようだ。
利便性を考えればこれも致し方ないことかもしれない。

一直線に続く西二線道路上を更に南西に進むと清川(M参照)跡となるが、ここには小さな集落があり、またそれらしき取付け道路もあるが残念ながら痕跡などは発見出来なかった。場所は旧版地形図から推測するしかない。
L 01年8月
M 01年8月
次が上清川で付近にはなにも目標物はない。十勝鉄道跡はこの先でようやく西二線道路からはずれ、大きく西に迂回することとなる。
終点戸蔦へは直線の方が距離も短くてすむはずだが、参考地形図Bにも名称の記載された「太平農場」への利便を図るため西に線路を振ったと考えるのが妥当な線だ。

一旦西に向った線路が再び左カーブで南西に向きを変え、しばらく進むと太平への分岐駅南太平となる。
ここはすでに区画が整理され、駅跡は現在の農地のど真ん中にあたる。旧版地形図から当時は駅周辺にも数軒建物があったことが読みとれるが、いまはすべて農地に置き換わっている。
跡形もない南太平を出、左カーブ、右カーブ、さらに左、右と連続して曲ると終点の戸蔦に到着する。駅跡は現JAの裏付近にあたる。ここからさらに西に向う玉石採取線が戸蔦別川に沿って西に2キロほど延びていたが、この線は参考地形図Bに記載がない。
また大平農場へは南太平から玄関口の大平まで40号道路に沿った支線が延びていたが、線路跡、駅跡共に痕跡はなく特に駅跡は農地に変ってしまい場所の特定すら難しい。


さて一旦まで戻り、次は八千代方面の路線をたどることとする。
帯広から来た路線はでほぼ90度の角度で曲り西に向うが、基松(N参照)は路盤を利用したと思われる未舗装の道が続く。なんとこの付近からは鉄鉱石が産出されるらしく、戦時中には実際に掘ったことがあるそうだ。
N 01年8月
O 01年8月
この道と基線道路との交差点西側に基松(O参照)があった。
鉄道跡はさらに基線の西を平行する西一線道路を越えてからは舗装路となって続いていく。


この地の道路は広い、狭い、舗装、未舗装など色とりどりだが、すべてが約500m間隔の碁盤目状で造られているのは、さすがに北海道らしいと感心させられる。横が号、縦が線で呼ばれる。
その後、廃線跡道路は当地の主要河川「帯広川」を基栄橋で越えるが、同所を渡っていた鉄道時代の橋梁跡は確認できない。
川を越えしばらく進むと上美生方面への分岐駅常磐(P参照)に到着する。直進側は上美生方面で、八千代方面は駅を出てすぐ左へと曲る。曲った先は現在の三線道路に再利用された模様だが、今回は工事中のため通行止で一部は探索不可能だった。

通行止個所を迂回し三線道路を南下すると上帯広(Q参照)跡だが、やはり目の前に広がるのは直線の道路のみ。この軽鉄道をたどり始めてこんな状況を何度目にしたことだろう。やや食傷気味となってくる。
P 01年8月
Q 01年8月
さて、気を取直して探索を続けるが、上帯広より南は再び未舗装道路となり帯広川手前で民家に突き当たる。鉄道跡はこの民家の敷地を斜めに横切り、そのまま川を渡っていた。橋脚の遺構でもないかと探してみるが、残念ながら堤防に近づくことは不可能だった。

帯広川を渡ると西二線道路と合流し南西方向に延びるが、次の広野付近にも民家はない。人家もなければ遺構もない、当然聞取りなど出来るはずもない場所での探索は、まさに自分自身の過去の経験と勘だけが頼りだ。
その後の西二線道路も延々と一直線で続き、途中の上広野周辺には小さな集落があり郵便局も建てられている。
さらに八千代(R参照)はこの線の終点だが、特に大きな集落があるわけではない。十勝バスの停留所やJAなどもあり、このあたりが駅跡かと推測できるが断定は不可能。ホーム跡が残るとの一部情報もあったが、今回は発見できなかった。さらに南へ線路が延びていたとの情報もある。

再び常磐まで戻り、次は上美生方面への路線をたどるが今度は東西に走る八号道路が十勝鉄道跡に相当する。次の坂ノ上まではかなりの距離となるが、駅跡は現JA倉庫の前。
その先で一旦帯広方向に戻り、十勝川支流の美生川を渡って美生へと続く。この区間は美生川の右岸に当るが、ほぼ原野に還ってしまい跡地をたどることは出来ない。もちろん橋梁の遺構などはどこを探しても見つからない。
R 01年8月
S 01年8月
廃止されてから既に60年、しかも木橋だったため痕跡が見つからないのもごく自然な成行きかもしれない。

川を越え七号道路の北付近を併走した線路跡は中美生地区の玄関駅美生に着くが、周囲にはなにもなく田圃のあぜ道と化している。ここから美生の中心地(S参照)まで支線が延びていたが、ここでは貨物の積込みのみを行っていたと考えられる。

美生で左に90度曲り道道55号線の一本東の道を南西方向に向うが、次の新嵐山付近で道道に合流し、跡地は道路拡幅に利用されている。ここにはスキー場があり、冬場は帯広近郊のスキー場としてにぎわっていることだろう。夏にも行楽地としてそれなりの集客がある。
駅を過ぎると一旦道道から西に離れ、農地の中に取込まれる。鉄道跡を再び確認できるのが少し傾きを持ち南北に走る四線道路上で、これも跡地を利用して造られた道路の様だ。
この四線道路を南下し先の道道55号線と合流すると、そこが終点上美生(T参照)。場所はJAの敷地となり、廃止鉄道によくあるパターンで締めくくりとなった。

ここまで来てやっと終ったと胸をなで下ろすことが出来た。十勝鉄道の探索は本当に長い長い道のりだった。
ただ心残りもある。清川農場引込線と札内川を越え東一線十七号まで達していた二つの支線がまったく調査不能だった点だ。残念ながら地形図に記載がなく、調べるすべがなかった。これらは次の機会の楽しみに取っておこうと思う。
T 01年8月

 保存車両

U 01年8月
「とてっぽ通」に保存される車両。

 参考資料


 参考地形図

1/200000  帯広 [S3製版]
1/50000  帯広 [S19部修]    大正 [S19部修]    札内岳 [S5部修]
1/25000  帯広南部 [該当無]  大正 [該当無]  上帯広 [該当無]  芽室 [該当無]
 十勝清川 [該当無]  拓成 [該当無]  上美生

 
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