十勝鉄道帯広部線を訪ねて
清水部線 廃止鉄道ノート北海道 減速進行

 地区:北海道帯広市  動力:蒸気・内燃
762mm区間:帯広大通〜戸鳶(29.9km)/藤〜八千代(17.7km)/常盤〜上美生(15.7km)/南太平〜太平(1.7km)/川西〜幸震(距離不明)
1067mm区間:根室本線〜工場前(3.4km)
もう何年前になるのだろうか・・・、「愛国」から「幸福」行の切符が大人気を博した時期があった。流行歌にも歌われ、老いも若きも切符を求めて当地を訪れたものだが、これもほんの昨日のことだったような気がする。両駅を擁した国鉄広尾線も既に廃止され、訪れる人も減ったが、この広尾線の西、札内川を挟んだ対岸にビートを収穫する軽鉄道が走っていたことを知る人は少ない。

略史

大正 9(1920) - 10/  北海道製糖 帯広地区専用線(762mm)開業
13(1924) - 2/ 8  十勝鉄道  北海道製糖専用線を譲受、開業
11/ 4     1067mm区間開業
昭和 34(1959) - 11/ 15     762mm区間廃止
52(1977) - 3/ 1  専用側線となる
平成 24(2012) - 5/ 31     当日を以て廃止

路線図




廃線跡現況

−売買線−

762mm軌間線の起点、帯広大通(写真A)は旧国鉄帯広駅の東南に位置していたが、JRの高架化工事に伴った周辺の区画整理事業により当時の姿を失っている。

反対の帯広駅西側からは根室本線との貨物連絡線が敷設されており、両線は次の新帯広の手前で合流していた。ここから2キロほど南の製糖工場までは、国鉄直通の1067mm軌間と南へ伸びる762mm軌間が重る、珍しい4線区間として続いていた。
A
01年8月
B 線路は新たに建設された公園大通に沿って進むが、区画整理事業の対象に含まれてしまったようで、沿線には当時の鉄道を連想させるものはなにも発見できない。

その後、西五条通との交差点付近から公園大通を南にはずれ、市道沿いの遊歩道(写真B)として生れ変わる。十勝鉄道の愛称から「とてっぽ通」と命名され(写真C)、当時活躍した車両も大切に保存展示されている。
01年8月
とてっぽ通は1キロ半ほど続き、明星校前四中前の各駅もこの途中に置かれていたようだ。旧版地形図には駅の記載が無く、場所の特定は出来なかったが、現在の明星小学校および帯広第四中学校の直近付近が妥当な線ではないかと思われる。

四中前を過ぎ、売買川に突き当った地点でこの遊歩道は終る。
C
01年8月
D 川を渡り、その先で一部生活道路などに転用されながらショッピングセンターの敷地を横切り、工場前(写真D)へと続く。ここは帯広工場と呼ばれ、沿線から集めたビートを一手に引受け、製品としての砂糖に変えていた工場だ。現在はどの程度稼働しているか不明だが、最盛期からは、かなり規模が縮小された雰囲気を感じる。

駅跡は痕跡が残っていないため正確なところはつかめないが、現在の正門前にある広い空地付近と推測する。
01年8月
ここから762mm線はそのまま南方のビート畑へと、また国鉄連絡の1067mm貨物線は工場及びそのヤードへと続き、さらに車庫や留置線も併設されており、当時は大変にぎやかな線路配置だったことが偲ばれる。

工場を過ぎると762mm線のみとなり、南東に向うルート上には数百メートルの長さを持つ築堤(写真E)が姿を見せる。貴重な痕跡だが、遅かれ消え去ってしまうのは必定のように感じられる。
E
01年8月
F この先は一部が宅地化され、また一部は生活道沿いの民家(写真F)として続いていく。
18年6月
さらに東西に走る市道を斜めに横切った後は帯広農業高校の敷地内に入り、北西隅で左カーブを描き、向きを南に変える。校内には軌道跡に沿ったと思われる杉林(写真G)が連続で続く。

カーブが終りほぼ真南に向いた地点が農学校で、高校の西門付近と一致する。 高校は以前の農業学校で、道を挟んだ西側の帯広畜産大学は農業専門学校と呼ばれていた時代があるため、どちらかが駅名の元になったと考えられる。
G
01年8月
H 畜産大学と高校の間には二車線の舗装路「西二線」が走り、これに沿って東側に空地が続く(写真H)。まさに軽便跡そのものの雰囲気が漂うが、残念ながら確証が得られない。

1キロほど南に進むと小さく右にカーブし、やや南西方向を目指すようになるが、ここからは十勝鉄道跡地を利用、拡幅してこの西二線道路が建設されたようだ。
01年8月
帯広の市街地と呼べるのはこのあたり迄で、この先はまさに北海道特有の自然にとけ込む簡易軌道といった有様に変っていく。

徐々に酪農独特のにおいが一体を支配しはじめる広大な農地の中、引続き植民区画に沿った西二線道路を南下し、2〜3キロ程度の間隔で駅が続いていた。
I
01年8月
J 十勝稲田は地形図に記載がなく、場所の特定が出来ない。

次の川西(写真I)には農協倉庫が建ち、豊西付近(写真J)は一直線の舗装路が続くのみとなっている。
01年8月
八千代方向への分岐駅(写真K)には取付け道路がそれらしく残り、留置線なども備えた主要駅であったことが当時の写真などから見て取れるが、既にその面影は忍べない。
また地区の地名は富士だが、なぜか駅名には藤を採用している。
K
01年8月

−戸蔦線−

L 南西に向かう戸蔦線はそのまま道なりに進み、やがて次の美栄(写真L)に到着する。ここもそれまでの各駅同様、付近に民家はほとんどない。

周辺の人家は札内川を越えた国鉄広尾線の駅周辺に集中してしまったようで、利便性を考えればこれも致し方ないのかもしれない。
01年8月
一直線に続く西二線道路上を更に南西に進むと清川(写真M)に至り、駅から清川農場への引き込み線も東に延びていたが、既に住宅等に取り込まれ、跡地をたどることは難しい。

次の上清川は付近に何も目標物がない。鉄道跡はこの先でようやく西二線道路からはずれ、大きく西に迂回することとなる。終点へは直線の方が距離も短くてすむはずだが、地形図にも名称の記された太平農場への便宜を図るため、西にルートを振ったと考えるのが妥当な線だ。
M
01年8月
N 一旦西に向った線路が再び左カーブで南西に向きを変え、しばらく進むと太平への分岐駅南太平(写真N)となる。

旧版地形図からは当時、駅周辺にも数軒の建物があったことを読みとれるが、今はすべて区画整理された農地に置き換わっている。
01年8月
ここから大平農場の玄関口大平まで40号道路に沿った支線が延びていたが、線路跡、駅跡共に痕跡はなく特に駅跡は農地に変ってしまい場所の特定すら難しい。

本線側は駅を後にし、左カーブ、右カーブ、さらに左、右と連続して曲ると、終点の戸蔦(写真O)に到着する。場所は現JAの裏付近にあたる。ここからさらに西に向う玉石採取線が戸蔦別川に沿って2キロほど延びていたが、地形図には記載がない。
O
01年8月

−八千代線−

P 売買線の終点から別れ、西に向う路線が八千代線と呼ばれる。

最初は路盤を利用したと思われる未舗装の道(写真P)が続く。周辺からは鉄鉱石が産出されるらしく、戦時中には実際に掘ったことがあるそうだ。鉱山はよく耳にするが、平地の場合は鉱地とでも呼べばいいのか、なんとも不思議の感覚にとらわれる。
01年8月
道路はやはり植民区画に沿い、最初は20号、売買川を越えると7号、さらに帯広川を越えると8号に変化する。
7号と道道62号線との交差点西側に基松(写真Q)が設けられ、8号まで進むと路面が舗装される。

当地の道路は広い、狭い、舗装、未舗装など色とりどりだが、すべてが約500m間隔の碁盤目状で造られているのは、さすがに北海道らしいと感心する。この植民区画は、横が号、縦が線で呼ばれる。
Q
01年8月
R 帯広川の橋梁跡は確認できず、そのまま進むと美生線との分岐駅常磐(写真R)に到着する。八千代線は駅を出てすぐ左へと曲り、三線道路に合流する、。しかし今回は工事中のため通行止で、一部は探索不可能だった。

通行止個所を迂回し三線道路を南下すると上帯広(写真S)となるが、目の前に広がるのはやはり直線の道路のみ。この鉄道をたどり始めてこんな状況を何度目にしたことだろう。やや食傷気味となってくる。
01年8月
気を取直して探索を続けるが、駅の南は再び未舗装道路となり、帯広川手前で民家に突き当たる。鉄道跡はこの民家の敷地を斜めに横切り、そのまま川を渡っていた。橋脚の遺構でもないかと探してみるが、残念ながら堤防に近づくことは不可能だった。

帯広川を渡ると西二線道路と合流し南西方向に向かうが、次の広野にも周囲に民家はない。道路はその後も一直線で続き、途中の上広野周辺には小さな集落があり、郵便局も建てられている。
S
01年8月
T さらに八千代(写真T)はこの線の終点だが、特に大きな集落があるわけではない。バスの停留所やJAあたりが駅跡かと推測できるものの、断定は難しい。
ホーム跡が残るとの情報もあったが、今回は発見できなかった。さらに南へ線路が延びていたとの話もある。
01年8月

−美生線−

八千代線の常磐から直進するのが美生線。八号道路上の次駅坂ノ上(写真U)は現JA倉庫の前となる。駅の先で一旦帯広方向に戻り、十勝川支流の美生川を渡って美生へと続く。

この区間は美生川の右岸にあたるが、今はほぼ原野に還り跡地をたどることは出来ず、橋梁の遺構も見つけられない。廃止されてから既に60年、しかも木橋のため、既に自然に帰ったと考えるのが妥当な線かもしれない。
U
01年8月
V 川を越え七号道路上に移った線路跡は、中美生地区の玄関駅美生に着く。ここから美生の中心地(V参照)まで支線が延びていたが、ここでは貨物の積込みのみを行っていたと考えられる。

本線側はすぐ左に90度曲がると、二線道路を南西方向に向い、次の新嵐山付近で道道55線と交差する。
01年8月
駅を出ると一旦植民区画から離れ、農地の中に取込まれる。鉄道跡を再び確認できるのが南北に走る四線道路上で、これも線路用地を転用して造られた道路の様だ。

道なりに南下し再度道道55号線に合流すると、そこが終点上美生(W参照)となる。駅跡はJA用地となり、廃止鉄道によくあるパターンでの締めくくりとなった。
W
01年8月

−幸震線−

X 建設は完了したものの運行の許可が下りず、試運転程度で廃止へと追い込まれた幸震[さつない]線。西二線十二号で本線ともいえる売買線から分岐する。

当線も他路線同様、植民区画に沿って十二号(写真X)を南東に向かう。
18年6月
道路が南北の基線を越えると、その先に札内川(写真Y)が流れる。当時は四本の橋で越え、共に木橋だったと思われるが既に痕跡はない。この橋梁群が、札内川氾濫時に下流の国道橋に損傷を与える可能性があるとして、運行不許可の理由とされたようだ。

基線から河原まで続く細い道は、軌道の跡地とも考えられる。
Y
18年6月
Z 川を渡ると右カーブでやや南に向きを変えて、国道236号線を横切る。線路跡は農地内に取り込まれ、直接たどることは不可能となる。

さらにヌップク川を越える地点で今度は大きく右に曲がり、東一線上(写真Z)を南に向かっていた。なおヌップク川でも橋梁の遺構を発見することは出来なかった。
18年6月
直線で続く東一線の未舗装路は、十六号附近から若干上り坂となる。ここで軌道側は勾配を避けるため、西側へ逸れると考えられる。

精度の低い旧版地形図を強引に最新図に重ねると、終点幸震(写真AA)は旧広尾線の大正駅に近接し、路線の終端は東隣の農協倉庫あたりまで延びていたことになる。
しかし残念ながら現地で情報は一切収集できず、真偽のほどを確認することは叶わなかった。
AA
18年6月

保存車両

AB 「とてっぽ通」に保存される車両(写真AB)
01年8月

参考資料

  1. 十勝の国 私鉄覚え書/加田芳英
  2. トカプチ16号/トカプチ編集部/NPO十勝文化会議郷土史

参考地形図

1/50000   帯広 [S19部修]   大正 [T9測図/S19部修]    札内岳 [S5部修]
1/25000   帯広南部 [該当無]   大正 [該当無]   上帯広 [該当無]   芽室 [該当無]   上美生
  十勝清川 [該当無]   拓成 [該当無]

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最終更新2019-7/1 
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