全国の中小鉄道を中心として、なんでもお気軽に記帳ください。当サイト内の間違い探しも大歓迎です。
はじめまして。楽しく拝見しております。標茶町営軌道跡で沼幌の橋は皆さん調べられておりますが、新道過ぎてオソツベツ川を渡り次の小川にガーダー橋(?)跡が有りますが皆さん気付いてないのでしょうか?そんな事はないと思いますが…
K主任さん、貴重な情報有り難うございます。丁度開運橋のその後を確認する予定を立てていましたので、こちらにも回ってみようと思います。ただ時間が限られるという不安材料もあるのですが、うまく見つけることが出来ればページ内に追加されていただきます。
管理人様返信有り難うございました。私は旭川なので標茶までは機会がなくて…ガーダー橋調査して頂けたら幸いです。私的には上御卒別停留所跡とかも気になるところです。
K主任さんの情報を元に橋梁を発見し、風雲橋の現状と共にサイトを更新しました。上オソツベツまでは足を延ばすことはできませんでしたが、数年先には全線を再度廻って見よう考えています。今回の情報提供に感謝いたします。
管理人さま早速画像拝見致しました。廃線から何十年も経ってるのに残っているのが奇跡ですね。お役に立てて良かったです!!
はじめまして。高松市在住の者です。20歳です。以前は丸亀市に住んでいたのですが、その時の小学校の夏の自由研究で琴平急行電鉄を調べたことがありました。この素敵なサイトを見てると「あぁ懐かしいな」とか「こんな遺構があったのか!」といった温かな気持ちにさせられます。前置きが長くなりましたが、讃岐飯野駅跡前には踏切の遺構と思しき遺物が残されています。きめ細やかな調査をなされているので、すでにご存知かもしれませんが、ここに記しておきます。その写真は現在捜索中です。発見し、ご迷惑でなければ添付させてください。見苦しい長文失礼しました。
鉄道王国香川さんはじめまして。>讃岐飯野駅跡前には踏切の遺構と思しき遺物が残されています。これは気が付きませんでした。見過ごしているようです。写真が見つかれば是非とも投稿して下さい。
先日、祖父(琴平町)のコレクションを発掘(?)していたらこんなモノが出てきました。いろいろ調べてみると…■鉄道50年記念の双頭レール■琴参廃線38.9.15■琴急開通記念品のようです。で、こんな組み合わせがあったとは考えにくくこのボードは祖父の自作だろうと結論付けました。
双頭レールが気になりますね。ルーツがわかるといいんですが・・・
双頭レールについてはこんな情報がありました。もしかして…初めて新橋横浜間に敷設されたモノなのかも〜http://page18.auctions.yahoo.co.jp/auction/w144657986
ヤフオクに出品されているんですか。もっと貴重なものかと思ってたので意外に安くてびっくりしています。でも大切にして下さいね。
はじめまして。息子の夏休みの自由研究に安濃鉄道のことを調べようと思っています。背景や歴史についてはインターネットで十分に調べることができますが、本線14駅のあった場所を写真におさめたい…というのができるかどうか不安に感じております。正確にここだとわかる住所番地などがわかる資料はどこへ行けば閲覧することができるかご存知でしょうか?また、貴殿のホームページにある、線路跡のある場所も是非訪れたく差し支えなければ場所の詳細をお教え頂けませんでしょうか?息子は新町小学校に通っており、安濃鉄道の始点に程近いと思われるので自由研究を通して小学校のみんなにすぐそばに鉄道が走っていたことを知ってもらえたらなぁと思っております。
ぞえさん初めまして。ご質問の件ですが、私は駅の住所番地を記載した資料を知りません。どこかに存在する可能性もありますが、探し出すのは至難の業だと考えます。それよりはサイト内に記載した旧版地形図を入手し、現在の地図に重ね合わせながら、現地で複数の人から情報を集めるのが現実的です。写真の場所も順にたどればすぐ判明すると思いますよ。
ご回答ありがとうございました。あれから図書館にて町史を調べたり大正時代の古地図をコピーさせていただいたりしておりました。その中で大変興味深い資料をみつけ、それが博物館の調査グループによるものでしたので、博物館へ足を運びました。資料に関わった方はお休みでしたが、意外にも博物館には鉄分多めの学芸員さんが数人おり、熱心に私達の相手をして下さいました。戦後米軍撮影の空中写真まで出していただき、一番正確な場所を知りたかった新町駅に関してはハッキリと駅舎まで写ったものを手に入れることができました。近々写真を撮りにそれぞれの場所を訪れたいと思います。まとめるのも楽しみになってきました。ありがとうございました!
正攻法で進んでいるようですね。必ずいい結果が出ると思います。がんばって下さい。なお空中写真に関しては国土地理院のサイトで年代順に確認できますから参考として下さい。
井原市七日市町の公園に保存されていた9号機は、現在、井原市美星町の星のリゾート星空感にありますよ
楽しく拝見いたしました。近隣ですので、近隣の話のみ記載させていただきます。まず。「根木駅」についてですが、駅舎は現在は公民館へ県道からアクセスするスロープ付近にありました。県道のトンネルを右手み見た場合奥の広場になっているところで、貨車交換・客車交換などを行っていたとのことです。真殿駅(厳密には駅ではありません)ここは、HPにありますように給水を目的としていましたが、川側に広くなったところで客車・貨車の入れ替えが行われており、駅員が常駐していました。実際には乗客も乗車していましたが、乗車には対岸から船で移動し乗車していました。私の祖母・祖父・親父に聞いた話ですみません。明治の頃までは真殿駅の川側には村がありましたが、大水害で流されてしまって対岸に移っています。
近隣住民さん情報ありがとうございますまた思い出したことがあれば教えてください
転勤のため郷里坂出を離れて東京生活50年,琴参には懐かしい思い出である。昔の町名「梅園町」の生家のすぐ裏を琴参が走っていた。裏庭の板塀から手を伸ばせば,電車に触れそうな距離で,父親が植えた夾竹桃が電車の通過後とに激しく揺れていた。裏木戸があったが,危険なため開くことは父から固く禁じられていた。秋田犬の飼い犬がこの電車に前足を片方を引かれて無くしていた。色が白いため「白」と名付けて小学生の私になつき200mほど離れた小学校の近くまで,毎日3本足で体を揺らしながら迎えにきてくれたのも,懐かしい思い出である。こう思い出すと,瞼が緩む遠い思い出である。
栃木の東野鉄道ですが、友人に大田原市の人がいて、「昭和40年ごろまで、映画のSLの撮影が行われていた」そうです。今では、100%大井川鉄道ですが。
さすらい日乗さん はじめまして映画撮影の件は初めて聞きましたやはりSLに架線柱は邪魔ですからねとはいえ、大井川鉄道にも末永く頑張って欲しいとも思ってます
先日、善通寺に行く用事がありましたので、旧善通寺赤門前駅あとの写真を撮ってきました。2016年4月10日の様子です。
謙介(名前を間違えて失礼しました)さんこんにちは一ヶ月違いですね。私も現地を訪れました。95年の写真上にポインターを置くと今年3月に撮影した写真に切り替わります。さらにクリックすると路線図に変わります。説明を省いているため、わかりずらくて申し訳ありません。これに懲りず、今後変化があればまた教えてください。
叔父のアルバムの中にあった琴平参宮電鉄の写真をスキャンする事が出来ました。現在、我が家に唯一残っている琴参電車の写真です。撮影日は昭和38年9月5日、軌道廃止の10日前に善通寺の風折停車場付近で撮影されたものです。方向的に、琴平行きの車両の様です。何かの参考になればと思い、貼らせていただきました。
はじめまして。琴平参宮電鉄について検索していた所、このサイトに辿り着きました。廃止が私が生まれる前年だったので実際に列車が走っている所は見た事がありませんが、叔父ののアルバムにラストランの写真が1枚だけあり、良く話を聞かされました。小学校に上がる前くらいまでは、琴平から善通寺までの軌道跡を叔父の自転車に乗せられて良く通っていました。その頃既に軌道跡は道路として使用されていましたが、当時はまだ未舗装で路肩には赤茶げたバラストが多く残っていたり、岩崎隧道にはホームレスが住み着いていて通るのがははばかられた事を記憶しています。タイトルの土讃線吉田踏切付近の立体交差ですが、私が小学校低学年の頃には土讃線の線路の左右に立体交差跡の土塁がまだ残っていて、その辺りで良く遊んでいました。橋桁の部分は既に無く、最初はそれが何なのか分からなかったので叔父に聞いた所、電車(琴平参宮電鉄)が汽車(現JR)の線路を越えるための立体交差の跡だと教えられました。叔父の話では、電車が立体交差を登る時に良く脱線していたそうです。子供の頃はそれで納得していましたが、大人になるにつれて昔の非力な電車であの勾配(当時の私の目には、かなりの勾配に見えた)を本当に登る事ができたのか疑問になり、現役当時の画像がどこかに無いか探しています。何か情報があればと思い、書き込ませて戴きました。
最後のイ吏 彳走 さん初めまして土讃線交差の件ですが、撮影に最適な構図となる場所なので写真が存在するなら社史等に載せられると思われますが、私が調べた60年史にはありませんでした。この60年史には各所の古い写真も載っていますから、一見の価値はあると思います。また上吉田町交差点の西に当時の橋台跡が残っているとの情報もあるようです。なお私が調査する場合は、まず地元の県・市立図書館、郷土資料館等から始めています。琴参の場合は会社が存続していますから、直接尋ねてみる手もありますね。
ご回答ありがとうございます。やはり地元の図書館に行くのが一番ですか・・・。現在は都内に住んでいて地元には年に一度、夏に帰省するだけなので、すぐには見に行けません。来年の夏に地元に戻った時、時間を作って行ってみようと思います。ありがとうございました。
最近はネットで各館の蔵書が調べられますし、近くの図書館で取り寄せてもらう相互貸借の便利なシステムもあります。私はこれをよく利用します。また敷居は高いですが、国会図書館も結構地方の資料がそろってます。よろしければ参考としてください。
一つ思い出した事があります。1980年代の半ば頃まで、丸亀市街地の現県道33号の中央部には石畳がありました。確か、6番町交差点辺りから善通寺方面に向かって続いており、城西町交差点か中府町交差点の辺りから道路の東側の端に移動していたと思います。当時はそういう物に全く興味が無かったので、下水道か用水路の蓋か何かだろうと思っていました。今にして思えば、あれは軌道跡の名残だったのかも・・・。全く関心がなかったので気が付いた時にはもう無くなっていましたが、あの付近で大がかりに道路を掘るような工事をしていた記憶は無いので、恐らくアスファルトの下には今も残っているのでは無いかと思います。私の記憶違いの可能性もありますが・・・。
原則として軌道は敷設前への復帰が義務づけられていますから、確率はかなり低いと思われます。廃止の続いた昭和40年代はアスファルトを被せただけの応急処置が各地で認められていますが、その後の再舗装時にほとんどが撤去されています。とはいえ真実は道路を掘り起こしてみないとわかりませんが、その勇気はありません。
なるほど、そうでしたか。私のうろ覚えの記憶なので、もしかすると他の場所の風景と混同している部分もあるのかもしれません。Googleの航空写真とストリートビューを見ていて気付いたのですが、多度津の土讃線を跨いでいる高架橋ですが、電鉄時代からの高架の横に新しい高架橋ができていて、古い高架は既に撤去工事の最中なのが写っていました。画像では橋脚と北側の土塁はまだ手つかずでしたが、南側の土塁はほぼ撤去が終わっていて、県道も新しい高架の方に繋がっています。写真の日付が1012年7月となっているので、現在ではもう完全に撤去が終わっている様です。この夏にあの辺りを数回通ったのですが、現在使用されている高架橋の横にはもう何も無かったので・・・。
来春に訪ねてみる予定をしています。新たな発見があればサイトに書き込みますので、そのころまた覗いてみてください。
私は現在57才ですが貨物用ぼ線路は東側にあった足利紡績への引込みだへしか知りませんでした。別のデータで山辺競馬場の開催日に臨時駅がアキレスの辺りに造られたことを知りました、
加藤さん初めまして路線図は参考地形図を元に作成し、いつかは訪ねたいと考えています。何か発見があれば是非ともお知らせください。
北海道の藤田さんの記事に[古い坂出駅の跨線橋から直接入れるようになっていたような気がします(使ったことがないのでハッキリしませんが、ともかく跨線橋は国鉄から南に伸びていました。]とありますが、その通です。国鉄坂出駅の南口の役割をはたしていました。琴参の駅員が切符の回収や定期券をみていました。ただし、この改札口からは入場はできませんでした。出場のみでした。
pyoco3様たまたま縁があってこのHPにたどり着きました。私は38歳で高校生のときは名鉄三河線で通学していました。上挙母の駅の伸びている廃線を見ていました。子どもの頃、今は旅客しか走らない三河線を貨物車が通っていたことや、トヨタ自動車上郷工場の周辺にかなりの数の引き込み線があったりしたことを見ていました。今になって、例えば挙母線の歴史などに触れたりすると、そういうことだったのかと、昔の記憶と繋がることが嬉しかったりします。そういうことを詳しく解説しているこのHPはとてもありがたいと思いました。挙母線の遺構も細かく取材されていましたね。資料も豊富ですばらしいと思います。なんだろうな、近代産業の移り変わりをとどめている廃線になぜか惹かれてしまうんですね。この気持ちは自分でもなぜなのかよくわかりません、自分は目撃していないので、懐古でもないしなあ。素敵な情報を提供していただいてありがたい気持ちでいっぱいです。また勉強させてください。
サトケンさん初めまして鉄道は生活に密着した交通機関ですが廃線になると遺構と共に記憶も徐々に消えてしまうもので、少しでも記録をとどめたくサイトを立ちあげています。廃止後の経時の変化などにも興味深いものがあります。挙母線のその後の変化など気がついた点があればまた教えてください。
はじめまして。貴殿のHPを興味深く拝見させていただいています。大阪在住ですが昨年夏まで約2年間淡路島の洲本市に単身赴任していました。単身赴任社宅はかつての洲本駅から約5分、勤務先は同じく二本松駅の隣で、まさに淡路交通の路線跡を車で毎日通勤しました。唯一ホームが残っていた下加茂駅もすでに跡かたもありません。下加茂駅から先山駅までの道も立派な2車線道路に変貌しました。でも、線路跡の県道は今でも一部では「電車道」と呼ばれ、社宅近くのガソリンスタンドは「洲本駅前給油所」という名前で、鉄道の記憶をとどめていたことに感銘しました。
堺のテツさん初めまして。淡路島も徐々に開発が進んでますね。ホームの件は残念です。ほかにも鉄道のあった痕跡が数カ所存在するので、産業遺跡として是非とも残してほしいものです。では今後も気付かれた点があれば是非ともお知らせください。
こんにちは仙台鉄道 黒川小野駅 跡 近辺の学校は、近くのニュータウン内に移り、学校跡地はコミュニティーセンターになっています。JA倉庫から見て南西側の小高くなった所です。大童の学校跡は、しばらくは木造校舎の玄関跡が放置され、プールとグラウンドは現役て活躍していましたが、今は全て整備され直して敷地内ぬ町内会の集会所が置かれています。木製の橋、杢師橋は、近くにできた消防署の危機管理の問題から、現代の橋に架け替えられました。大衡駅跡はJA倉庫で、向かいの家は今でも 「たばこ屋さん」と呼ばれています。大童から吉岡までの軌道の一部は、自衛隊駐屯地内を通っている気がします。吉岡駅周辺は、再開発され大規模な住宅地になりました。小野と富谷の軌道は、イマイチイメージできないので、探索したいと思います。
歩行者自転車専用道は、いまも 「線路」と呼ばれます。さん初めまして詳細な情報有難うございます。木橋無くなりましたか、残念です。ただこの時期気になるのは大衡村の評判です。なぜか人ごととは思えず気を揉んでいます。まあ余計なお世話でしょうけどね。では今後も新たな発見があれば是ともお知らせ下さい。
はじめまして。本籍地が国東です。HPに掲げたURLは2011年に国東を訪問した時の話です。いろいろな話がありすぎてBLOGには書かなかったのですが、国東あたりの国道をレンタカーで走った時にその長い直線道路を不思議に思って地元の方に聞いたところ「これは大分鉄道のレールが通っていたところです。」というふうな説明を受け、廃線となった大分鉄道のことを知りました。大雨で橋が流されたのが原因だったと聞きましたが、その頃の話を詳しく知りたいと思っていろいろ検索してたどり着きました。掲載されているたくさんの写真をじっくり楽しませていただきたいと思います。
PicksClicksさん初めまして空港からのホバークラフトは既に無くなったようですね。最近の変化などの情報があればまた教えて下さい。
管理人様御机下初めまして。カラスのクンセイと申します。主に鉄道物の記事を書いております。高崎水電→東武鉄道・高崎線「野良犬停留所」の記事を近々(と言ってもいつか未定ですが)書こうと思っております。その時、貴方様の渋川地区の五線の廃線となった軌道線が描かれた地図を記事に拝借したくご依頼申し上げる次第です。なにとぞよろしくお願い申し上げます。(このようなご依頼どこに書いていいのかわからずここに書いてしまいましたこと、ご容赦ください)。 2月12日 カラスのクンセイ 拝
カラスのクンセイさん初めまして。当サイトをご覧頂有難うございます。さてご依頼の件ですが、現時点では路線図の使用は全てお断りしています。悪しからずご了承下さい。
お返事大変遅くなり申し訳ありません。またご無理申し上げまして重ねてお詫び申し上げます。違う方法を考えてみます。このたびはありがとうございました。 カラスのクンセイ 拝
西国街道と両備軽便鉄道を愛する下御領の者です。みだしの駅跡は最近まで草に埋もれていましたが、今はきれいに草刈りされ、プラットホームの全容や便所跡?の煉瓦まで露わになっています。近所の方へ聞くに、所有者の井笠不動産?が転売して近く店舗でも建つのではないかとのことです。神辺バイパス沿いですので真実みがあります。福山市や地域の歴史愛好家ブログに紹介して、資料化をお願いしています。 これで、神辺線の遺構がまた一つ無くなるのかと思うと…。
かわかみさん初めまして。国分寺駅に関する情報有難うございます。草刈までされてるのであれば来年早々には工事開始の可能性もありそうで、今が写真に納めるラストチャンスといえそうですね。井笠に関しては残念な話題が続きますねえ。では今後の情報もお待ちしています。
香川県高松市在住の者です。2014年の11月のはじめに、善通寺におまいりする機会があって、善通寺市内を通ったら、旧善通寺赤門前駅は壊されてしまって更地になっておりました。移動の最中で写真を撮ることもできませんでしたが、もうあの建物はありません。残念なことですが、、お知らせします。
謙介さん初めまして。いつかは無くなるのではないかと心配していましたが、現実となってしまいましたか。琴参の中ではインパクトにある現存物だっただけに大変残念です。今後の変化等もぜひお知らせ下さい。
保存車3 井原市七日市公園 /当時の車両が程度良く保存されているは、もうありません。どこか、移転されたようです。
よしざねさん初めまして。保存車両がなくなったのですか・・・。会社の破綻と共に淋しい話題で残念です。お寄せ頂いた情報を元に本文を変更し写真を追加しました。今後も新たな情報がありましたらよろしくお願い致します。
「川を渡ると線路跡は宅地と田の中に消え、十日町は圃場整備により位置の特定は不能。県道329号線から駅への進入路もあったが、これさえ判然としない。」「十日町」じゃなくて正しくは「十日市」ですよ!また十日市駅は、県道329号線沿いに駅跡標柱があります。少しも遠くを見る必要はありません。県道の端に設置してあります。
ほらー イサムン まん初めまして。まずは当サイトをご覧頂き有難うございます。十日町の件は十日市に訂正させて頂きました。ご指摘御礼申上げます。なお、駅位置に関しては当サイト内に参考地形図として載せている昭和6年修正明科や空中写真等により、教育委員会の設置した標柱より100m程北側、県道に平行する2本の畦道のちょうど中間あたりに位置していたと認識しています。では今後もご指摘、情報等をお待ちしてます。
× ほらー イサムン まん初めまして。○ ほらー イサムン まんさん初めまして。敬称を略して失礼しました。
初めまして。宮城県角田市に在住している者です。角田軌道について興味を持ち、調べていたらこちらのページに辿り着きました。インターネットで調べているのですが、あまり角田軌道について情報が得られずやきもきしています。管理人さんはどのようにして調べられているのでしょうか?差し支えなければ教えて頂けるとありがたいです。
コメやんさん初めましてまずは当サイトをご覧頂き有難うございますご質問の件ですが、路線に関してはサイト内に記載している旧版地形図を利用しています。これは国土地理院のサイトから入手可能なのでご利用をお薦めします。これ以外には「私鉄史ハンドブック」や「日本鉄道史」等を利用しています。ただ「日本鉄道史」は国立国会図書館デジタルコレクションで代用可能な部分も多くあります。あと一般論としては地方史、角田の場合は宮城県史や角田市史、更に当時の新聞、許認可の公文書なども参考になります。pyoco3
pyoco3さん 返事が遅くなりました、すみません。そして、事細かに教えて頂きありがとうございます。秘境駅や廃線跡を訪問したり、撮影したりする事が好きなのですが、これから時間を見つけて、角田軌道について調べたり現地を訪ねてみようと思います。痕跡や遺構を見つける事は難しいかもしれませんが、宮城県史、角田市史等を参考に頑張ろうと思います。角田軌道以外の記事も、興味のある物ばかりなので楽しく拝見させて頂こうと思います。本当にありがとうございました。
はじめまして。青島軽便鉄道のことを検索していてこのHPにたどり着きました。興味深く拝見しました。たくさんの情報を提供してくださり,感謝いたします。加江田川を渡るところで,架橋跡が下流側にあるはずだが…とお書きになっていますが,Google Mapをたどりながら拝見していたところ,川の中に飛び石のようなものがあるような気がしました。現在の日南線のすぐ右側です。これはひょっとすると橋の跡ではないでしょうか。写真がはっきりしないので,水の模様?かなにかの可能性もありますが…。
由布さんこんにちは連絡頂いた橋梁ですが、航空写真(http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M682&photono=181)からは下流の道路橋(現在は下流川に移動済)に平行しかつ直線であったと思われます旧橋梁とgoogle図との関連は微妙ですが橋脚が残っている可能性は大きいと考えています今後も新しい発見があればぜひともお知らせください
このページのおかげであとを辿ることが出来ました。写真のおかげで凄く辿りやすく助かりました。ありがとうございます。結果のご報告として、Eの写真の場所が工事があったようで,大分変っていました。あと終点のコンビニは潰れて中華料理屋になっていました。
みなとさんへ撮影が1994年ですからその後いろいろと変ったんでしょうね。アルプス道路の拡幅は確認したのですが、貢川橋、コンビニの件は初耳です。コンビニでは売上げに多少貢献した記憶があるだけに残念です。今後も変化を続けることでしょうが、新たな発見があればまた教えてください。
久留米の交通と鉄路展で展示されていた写真の一部です。筑後軌道国分線の線路が、本HPに掲載されているものとは若干違うようです。住宅地図で確認しましたが、添付画像のルートでほぼ間違いなさそうです。
n.a.g.a.さんへご指摘の箇所は自衛隊駐屯地の北側の部分ですね。確かにこの部分はやや疑問を持ちつつ描いた推測の部分です。住宅地図を確認し、確証を持てた時点で訂正させていただきます。今回はご指摘および画像提供大変に有り難うございました。今後ともお気づきの点がありましたら是非ともお知らせください。
路線図を更新しましたので、ご確認ください。
お久しぶりです。 先日、家の近所を散策していたら、偶然にも琴急の遺構を発見しました。 ずっと見つけられずに居たのですが、11号線を西側に走っていて、ふと左を向くと、大きな橋台跡が視界に飛び込んで来たんです。 画像を添付しますので、良ければ使って下さい。 場所は、坂出ICを西側(愛媛側)にくぐり、道が下り出すとすぐ左側のたんぼの中に有ります。 大きな回転寿司の手前です。
こちらこそご無沙汰しております。それにしてもこんな大きな遺物が残っていたのですか。これにはびっくりです。手前の側溝が新しい感じなので、この側溝整備と共に一般に露見したのかもしれません。また前回お尋ね頂いた川津駅跡はすでに消滅したようですね。残念なことです。では新たなる発見をお待ちしております。
かなり遅くなりましたが、送って頂いた写真を使ってサイトを更新しました。良ければ覗いてみてください。
お節介かも知れませんが、よろしければ、こちらもどうぞ。 塩江線で唯一残るホーム跡です。
ここはいいですよねえ。95年の訪問時にも写真を撮ったのですが、工事中できちんとわかる格好で写っていないのでサイト内には載せていません。お蔵入りの写真ですが見てやってください。
初めまして、鬼木と申します。両筑軌道で検索をしておりましたらたどり着きました。実は両筑軌道について調べたく、郷土史の資料は幾らか調べたのですが、資料が余り無いようです。どの様な事でも何か御存知の事が有りましたら御教示下さらないでしょうか。宜しくお願い致します。
鬼木さん初めまして当サイトをご覧頂きありがとうございます両筑軌道についてですが、今のところ旧版地形図以外にこれといった資料を探し出せていません。開廃年月日は「私鉄史ハンドブック」に記載がありますが、これとてweb上で調べるより簡素です。お役に立てず申し訳ありません。
管理人様、有難う御座います。地道に資料を探索していきたいと思います。実は私の曽祖父が両筑軌道設立に関わり社長だったようです。但し、設立して間も無く、大正二年に急死致しました。その様な訳で、曽祖父の事蹟も含めて両筑軌道の事を調べております。併せて他の軌道にも興味が有ります。出来るだけ近い内に嘗ての軌道の遺蹟を見に行きたいとも思っています。今後何かお気付きの事が御座いましたら、御教示下さい。宜しくお願い致します。
元社長のご子孫とは・・・むしろこちらがお話を伺いたいほどです私では直接お役に立てないと思いますが、よろしければこの掲示板をご自由にお使いくださいここをのぞかれた皆さんも、情報があれば書き込みよろしくお願いいたします
管理人様、お気遣い賜り有難う御座います。曽祖父が早く亡くなった事や祖父の兄弟が外地に出たり、内地でも朝倉の在所を離れたりした為か、両筑軌道の資料は何も残っていません。大叔父や地元の古老は曽祖父の事や軌道の事も知っていましたが、もう少し話を聞いておけば良かったと後悔しています。唯、話では祖父が曽祖父と軌道の側に立っていたところ、機関車がやって来て、曽祖父がさっとステッキを振り上げると機関車が止まったので、祖父が「何で機関車が止まるとね?」と聞いたところ、「俺が社長やけんたい。」と答えたそうです。是は調査の中で気付いた事ですが、両筑軌道が走っていた県道甘木田主丸線は郡道として明治36年から整備が始められた新設道路で、全く道が無かった処に出来ました。曾祖父は当初、軌道の沿線にあった金川村の村長を務め、朝倉郡議会議員を経て、明治36年から福岡県議を務めていました。この道路新設は両筑軌道敷設を視野に入れた道路整備ではなかったか、と思うのです。当然朝倉軌道との連携があったはずです。曾祖父と朝倉軌道の多田さんは親交がありましたので。又、大伯父の一人が後に一時、朝倉軌道に勤めていた、と聞いています。当時、多田さん朝倉軌道の社長で夜須銀行の頭取、鬼木が両筑軌道の社長で下座銀行の頭取であったと聞いております。以上の様な話ですが、軌道についての資料は全然有りません。例えば時刻表ですとか、決算書等の会社資料ですとか、或いは軌道そのものの資料など、何か御存知のものが御座いましたら、御教示下さいます様、宜しくお願い致します。管理人様の御好意に甘えて長々と記述して済みませんでした。
管理人様以前、此方にお邪魔した鬼木と申します。過日はお気遣いを賜り有難う御座いました。其の後、様々に調べましたが、少しずつですが両筑軌道についての記事を見つけました。そうした中、今年七月に曽祖母の家の事を調べに、ある施設へ問い合わせて伺いました処、逆に曾祖父の事を尋ねられ、両筑軌道の資料や曾祖父の県政活動の一端を知る事が出来る資料を御教示頂き、閲覧もする事が出来ました。これ等の資料を基に、来年の曾祖父の百回忌迄に曾祖父の事を纏めたいと存じます。管理人様にはご厚情を賜りました。御礼とご報告を申し上げます。
報告ありがとうございます。今後も気軽にご利用ください。
管理人様ご報告です。先日、国立公文書館に両筑軌道の資料がある事が分かり大正、昭和初期の鉄道省の資料等をデータに収める事が出来ました。特に鉄道省に提出された路線図や鉄道断面図があり、見る方が見れば正確な路線や駅の位置等が分かるのではと存じます。少しづつ紐解いていきたいと存じます。以上、ご報告でした。
遅れましたが、一次資料が見つかってなりよりです。今後のご健闘を願っています。
http://homepage1.nifty.com/pyoco3/kotosan/kotosan.htm において、中府本社前を指摘によって中内本社前に訂正されていますが、明らかな誤りです。単に中府という駅名の時期があったかもしれませんが、琴平参宮電鉄がバス会社となったあとは丸亀市中府町の本社敷地をバス車庫として使いバス停もありました。その後ショッピングセンターを建てて賃貸し、最初はダイエー、その後愛媛県に本社があるフジのフジグランという大型店舗、数年で撤退して琴参も倒産して再編、その土地も売却して再度改築され現在広島県に本社があるハローズ丸亀中府店というショッピングセンターになっています。参考までにハローズの店舗情報を貼っておきます。中府は古代に那珂郡役所があったことから発生したかなり古い地名です。http://www.halows.com/contents/tenpo/ten054.html
けんろ さんこんにちは当サイトをご覧頂きありがとうございますまず確認したいのですが、路線図にある「中府」は「中府本社」であるとのご指摘ですねまた、「中府」であった時期もあったかもしれないということでよろしいでしょうかであれば、貴殿との間に意見の相違はありません「中内本社前」についてはその様なご指摘、参考資料が存在するとして紹介していますが、今のところ確認が取れませんので路線図には「中府」として掲載しています出来ましたら根拠となる資料等のご紹介をいただければ幸いです
はじめまして。福岡の筑豊の廃線探索サイト「web otchee/遺構へ行こう」管理人のおっちーと申します。先日、中央軌道の橋台跡らしきものを発見し、ググっておりましたら、ここのサイトに辿り着きました。私のblogにて、その橋台の記事を書く際に「朝倉軌道」を参考にさせていただきました。http://otchee.com/phoblog/2010/07/post-93.htmlこのエリアについてはあまり知識が無いため、発見時は自信が無かったんですが、「朝倉軌道」の記事を拝見して、これは中央軌道の遺構で間違いないかな・・と思いました。私は国鉄廃線ばかり追いかけていましたが、軌道跡もなかなかディープで面白いですね!
おっちーさんこんにちは。ありましたねぇ遺構が。大正15年測図の地形図を載せておきますが、赤丸の位置で小川を渡っていたようにも読みとれますから、ここの可能性が高いですね。私の探索時には何も発見できませんでしたが、機会があればぜひ訪ねてみたいものです。今後も新しい発見があれば書き込みよろしくお願いします。
>pyoco3様貴重な資料をありがとうございます。国土変遷アーカイブの米軍の空中写真と地図を合わせてみると、ピシャリ合いました。中央軌道の遺構で間違いなさそうですね。よほどのことが無い限り撤去されなさそうですので(今まで残ってる訳ですし・・)もし再探索される際はぜひチェックされてください。
旧版地形図のコピーは\500で入手できます。最新版が\270で購入できることを考えると、高くて困ったものですけどね。入手方法は国土地理院のサイトからたどれます。電子申請で自宅への送付も可能ですから、慣れれば結構便利ですよ。では今後ともよろしくお願いいたします。
はじめまして。あまりのなつかしさに書き込みいたします。北海道標茶町の簡易きどうを利用していました。当時私は保育園児で上御卒別〜中御卒別を利用していましたが、同じ車両には標茶高校に通う学生さんたちが乗っていたことを覚えています。数年後には廃線になったと聞いております。途中駅の「大曲」という駅名すらも覚えていませんでしたが、貴サイトで確認できうれしく思いました。ありがとうございました。
かみおそべつさんへ当サイトをご覧頂きありがとうございます。北海道といえばオソツベツへ行けと常日頃から吹聴してる管理人であります。その「かみおそべつ」さんからの投稿に感激しています。北海道の簡易軌道は資料も少なく、その歴史を遡ることにも限界があります。当時を知る皆様からの情報が歴史を紐解くきっかけになることも少なくありません。今後ともお気づきの点、当時の思い出などの書き込みを頂ければ幸せです。
私も軌道に乗ってなかおそべつの保育園に通っていました。途中かみおそべつに保育園が出来たので軌道に乗ることはなくなりました。懐かしい記憶です。
初めまして。通園で利用されたかたがお二人になりました。羨ましい限りです。当時の様子など何か思い出されましたら、いつでもこの掲示板をご利用ください。
今日、例えの川津駅跡を、探しに行ってきましたが、またまたダメでした。 それで、改めて、地図を、見直した所、もしかしたら、坂出タクシーを、西ではなく、東側では、ないでしょうか? 次の、休みには、そっち側にも行ってみようとおもいます。 もし、差し支えなければ、他のアングルから撮った写真などは、ないでしょうかm(__)m 話は、変わりますが、先日のコメントで、琴急の他は、変わりないと、言ったのですが、実は、あるのを忘れてました。 津ノ郷駅跡です。 国道側に、住宅の並びができた時の道路整備で、ガードレールに変わってしまいました。(涙)
フリー切符さんへ川津駅見つかりませんか。国道11号線と438号線の交差点南西部にあるんですけどね。参考になるかどうか、8年前の別角度の写真を載せておきます。
香川の丸亀に住む、フリー切符と申します。度々、ここのページを、覗いて、廃線跡探索の、資料にさせていただきました。 でも、川津駅跡 だけが、どうしても見つからないです… さて、今回の、投稿は、琴平急行電鉄の、川西駅跡が、去年の11月に、更地になってしまったと言う、悲しいお知らせの為です。 しっかりと形を残した、貴重な遺構だっただけに、本当に残念です(泣)
フリー切符さんこんにちは。川西駅が無くなってしまったのですか。琴急では貴重なホーム跡だっただけに残念です。ここ以外では大きな変化はありませんか?。今後も何か変化があれば教えてください。それと川津駅が見つからないとのこと。やや記憶が曖昧で申し訳ありませんが、国道438号線、坂出タクシーのところを西に入ってすぐだったか、その次だったかの北側の建物の下に隠れています。頑張って見つけてください。では、今後ともよろしくお願いいたします
川津までの、詳細、有り難うございます。 琴急の、そのほかは、変わりないですよ。 川津は、再度、じっくり探しにいきます〜
他は変わりありませんか。それはよかった!。鉄道マニアのためではなく地域の産業遺産として残す、といった考えが広がると良いんですけどね。では
私の住んでる飯野町では、町の歴史として、残そうとしているのですが、お隣の、郡家町では、そういう動きは、なかった様です… あのホームが、飯野にあればと、今でも残念に思います。 飯野町は、白い立て札で、鉄道の遺構を伝えてますが、形の残っている物は、ほとんどありません。 池の下駅跡、飯野山登山口駅跡を、ご覧になったと思いますが、あんな感じの所ばかりです。 そうそう、飯野駅跡に、定かではありませんが、飯野駅舎の跡と思われる、煉瓦を盛った、コンクリート片が、3体あります。 隣の公園のフェンスの向こうに、みえますよ。
隣同士の町でスタンスが違うのもおもしろいですね。運行されていた期間が短く、認知度が低かったことも影響しているかもしれませんね。飯野駅の件はまったく知りませんでした。機会があれば今度訪ねてみます。
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