地区:広島県福山市 区間:福山〜鞆/12.5km 軌間:762mm/単線 動力:蒸気→内燃
路線図 |
略史 | |||||||||||||||||||||||||
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A | ![]() |
山陽本線福山(A参照)構内の南端に、鞆鉄道のホームが設けられていた。開業から18年経っての乗り入れで、相当の紆余曲折があったと考えられる。 苦労して延伸した路線も、廃止後は新幹線開業や高架化、駅周辺の整備が大きく進み、昔日の様子を想像することさえ難しい。 |
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16年3月 |
福山城の石垣を横目に見ながら出発した列車は、すぐ三之丸(B参照)に到着する。開業当初は鞆鉄福山と呼ばれた始発駅で、機関庫をはじめとする各設備を揃え、大きな構内を有していた。今では市街地に埋没し、駅跡も市営の立体駐車場等に変わっている。 ここでほぼ直角にカーブし向きを南に変えると、結婚式場へと入り込む。そのまま二車線道路の西方を南に進み、心療内科クリニックを過ぎると12階建マンションが目に飛び込む。このマンションと東側のガラス店との境界ブロック塀が、鉄道路盤の西端に相当する。 |
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B | |
16年3月 |
C | ![]() |
国道2号線を越えると一車線の生活道東脇へとつながり、道路沿いに位置していたのが野上。金物店の倉庫に利用され、駅跡の案内表示(C参照)も設けられている。 駅の南は住宅密集地に飛び込み、その一角を占める古野上町公民館は鉄道路盤上に建てられている。こちらには歴史案内として町内の地図が掲示され、当時の鞆鉄道ルートも描かれている。 |
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16年3月 |
右カーブで南西に向きを変え、市道と交差すると狭い路地(D参照)が現れる。これは廃線跡を利用したもの。 路地の先で芦田川分流の鷹取川を渡っていたが、鉄道廃止前に河川整備により埋め立てられ廃川となっている。当初の橋梁がどのように処理されたのか、大いに興味を惹かれるところでもある。残念ながら現地では何も情報を得ることはできなかった。 その跡地はアパートや駐車場等に利用される。 |
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D | |
16年3月 |
E | ![]() |
当時の右岸堤防を越えると左に緩くカーブし、その終了地点からは西側に一車線の生活道が平行(E参照)するが、跡地はやはり駐車場や宅地等に利用されている。続く左カーブの開始地点で、開業当初の旧線が分離する。 南東に向きを変えると両サイドを工場に挟まれる。ここで道路がクランクし、本来のルート上に移るが、そのまま進むと工場敷地内に飛び込んでしまう。その駐輪場付近に草戸稲荷が設置されていた。 |
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16年3月 |
工場を抜け県道22号線と交差したのちは一車線舗装路の南脇を進み、光小学校まで達すると校内で90度向きを変え、築堤で高度を上げながら芦田川を渡る。鷹取川を統合して河道を大きく広げ、線路付け替えの要因となった河川だが、既に橋梁の痕跡は何も残されていない。 川を越えた右岸の半坂からは一車線道路(F参照)が現われる。ただこちらも線路跡を直接転換したのか、跡地に沿って新たに道路が建設されたのか、現地で確認は取れなかった。 |
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F | |
16年3月 |
G | ![]() |
道路上をしばらく進むと妙見の手前で旧線が合流する。 旧線の大半は芦田川の川底に沈むが、右岸には用水に架けられた橋台跡(G参照)を見つけることができる。 |
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16年3月 |
南東に進む路線は一旦住宅地の中に取り込まれ、痕跡は消える。 ここを抜けると、全ルートの中で唯一路盤が放置された藪地(H参照)に変わり、人が入り込むことは不可能となる。既に私有地となっているが、なぜか隣を流れる用水はいまだ鞆鉄道の所有であるとの話を耳にした。 |
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H | |
16年3月 |
I | ![]() |
用水路に沿って進むと、直角に折れ曲がるクランクに差し掛かる。ここが鉄道との交差跡で、右岸に建つ鶏舎の擁壁内に石積橋台(I参照)を発見する。コケコッコーの鳴き声が聞こえたため鶏舎と思ったが、地元では鳩舎だとの話も聞き混乱する。ただ本来の目的ではないため、あえてこれ以上の確認は取らなかった。 なお反対の住宅側に痕跡は見つからない。 |
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16年7月 |
更に民家や農地等を通り抜け、芦田川の堤防道路に接すると水呑薬師(J参照)に着く。跡地は店舗となり、正面に駅跡を示す標柱が建てられている。この標柱を掲げた建物は、当時の駅舎の一部を復元したとの話を聞いた。 その先で堤防から降りてきた県道22号線と合流し、廃線跡は県道の拡幅に利用されているようだ。 水呑には同名のバス停が設けられている。道路は県道から市道へと変わり、緩く左カーブする地点で鞆鉄道が右に分離する。 |
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J | |
16年3月 |
K | ![]() |
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L | |
16年3月 | 16年3月 |
M | ![]() |
川を渡り数軒の民家の中を通り抜けると、再び県道22号線に接近する。ここに小さな橋台跡M参照)を見つけることができる。 しかしルートには一致するものの、石積み様式が他には見かけない谷積みとなっていることや、天端に傾斜が設けられていること等、いくつかの疑問点も抱えている。 |
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16年3月 |
その南方の病院前が葛城(N参照)となる。同名のバス停も設けられ、屋根付きの待合所がホーム跡と言われているが、地元で確認を取ることは出来なかった。 県道沿いに並ぶ不動産店や理容店を抜けると、今度は県道の拡幅に利用され始める。更に左側から接近してくる県道380号線と合流し、ほぼ真南に向きを変える。合流後は道幅が四車線に広がり、鉄道の雰囲気は完全に消えてしまう。 |
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N | |
16年3月 |
O | ![]() |
道なりにしばらく走ると、登り勾配で塞の峠(O参照)に挑む。鞆鉄道最急の坂を登り切った後は県道から左に別れ、一部は生活道に転換されている。ただ現地で話を聞いたところ、地図とは異なるやや西側の農地内を通っていたと教えられた。築堤が築かれていた箇所なので、正確な線路位置の特定は難しいのかもしれない。 道路が公園に突き当たって右に折れると、鉄道跡は右カーブを描いて県道と交差し、その位置を入れ替える。跡地は既に宅地や農地等に取り込まれ、ルート上をたどることは難しい。 |
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16年3月 |
そんな中にも田尻(P参照)駅跡には理容店が建ち、その位置を特定することが可能となっている。西側の駐車場との境界が当時の構内西端に相当する。 この先も路盤上には住宅が建ち並ぶが、一部に当時の土地境界線を認めることもできる。続いて県道22号線を一旦横断するものの、すぐ南方で県道に吸収されてしまう。 |
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P | |
16年3月 |
Q | ![]() |
当時は県道の海岸寄りを走り、瀬戸内海を眺めつつ金崎(Q参照)に到着する。駅は同名のバス停ではなく、石の塔バス停付近に位置していた。隣接して建つ民家の門が、当時の待合所を復元したものと言われている。 南に向かう路線はここで県道の西脇に位置を移していた。鉄道用地は道路拡幅に利用される箇所と、道路沿いの民家に利用される箇所が混在し明確な区別が付けられない。 |
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16年3月 |
鞆の市街地に近づくと一帯に油の匂いが漂う。港町特有の船舶用燃料ではなく、機械油の匂いだ。これは鉄鋼団地の横を通るためで、下町工場街の雰囲気を感じさせる。 終点鞆(R参照)は市街地の北端に置かれたため、港や中心部からは遠く、利用者にとって不便であったことは否めない。終端駅として大きな構内を持った駅跡は、バスの車庫や工場用地に変わっている。なお地元で計画された鉄道でもあり、書類上はこちらか起点とされている。 |
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R | |
16年3月 |
1/50000 | ![]() |
[T14二修] | ||||
1/25000 | ![]() |
[S25二修] | ![]() |
[T14修正/S25二修] | ![]() |
[S25二修] |