地区:岡山県倉敷市 区間:茶屋町〜下津井/21km 軌間:762mm/全線単線 動力:蒸気・内燃→電気
岡山県鷲羽山の梺。険しい地形の中に四国への玄関口、下津井町民待望の軽便鉄道が開通した。一時は倉敷への延長も計画されたが果たせず、やがて瀬戸大橋の開通をはじめとする道路の整備がこの鉄道を廃止に追いやる原因となった。軌道はなくなったが現在も社名を変更せず、バス事業を中心として発展を続けている。
路線図
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略史
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大正 |
2(1913) - |
11/ |
11 |
下津井軽便鉄道 |
開業 |
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11(1922) - |
11/ |
28 |
下津井鉄道に社名変更 |
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昭和 |
24(1949) - |
5/ |
1 |
〃 |
電化 |
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8/ |
20 |
下津井電鉄に社名変更 |
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47(1972) - |
4/ |
1 |
〃 茶屋町〜児島 |
廃止 |
平成 |
2(1990) - |
12/ |
31 |
〃 鉄道線 |
当日を以て廃止 |
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廃線跡現況
開業時には宇野線との接続駅でもあった茶屋町(写真A)。 地上時代の国鉄駅南西に隣接していた跡地は、現在公園等に利用されている。
JRに移行した現駅は瀬戸大橋線開業と同時に高架化され、将来の新幹線駅予定地として大きな用地が確保された。周囲の整備も進み、今ではこの駅前から超狭軌線が出発していた気配はみじんも伺えない。
駅を出ると郵便局や自転車置場を抜けたのち、廃線跡を転換した茶屋町児島自転車道(写真B)が始まる。桜並木が続く中に小橋梁(写真C)が点在し、当時の石積橋台を再利用している箇所も多い。ただ六間川に架けられた新たな専用橋は、鉄道時代とやや角度が異なっている。
川の先は一旦県道165号線に並び(写真D)、その歩道を兼務する。
自転車道側に自歩専用の標識はあるものの、一部で地元車両の通行は許可されているようだ。しばらくして下り坂に差し掛かると県道から左に離れ、次の天城(写真E)に滑り込む。
橋の架け替えが完了した倉敷川(写真F)では、右岸にコンクリート構造物(写真G)を見つける。一見橋台のようにも見えるが、その位置から橋脚の遺構と捉えてよさそうだ。
ほぼ平坦に戻った路線は倉敷川を渡り、次の藤戸(写真H)まで進むと当時のホームがそのまま残されている。ただ駅名標は既にはげ落ち、文字が見えないのはやや残念。
自転車道は郷内川を越えて若干西にふくらむ。そこが林(写真I)の駅跡で、今は駐車場と民家に利用されている。また駅南方の水路では、鉄道用の石積橋台(写真J)を確認できる。
ここで右カーブを描いたのち、県道21号線に合流(写真K)する。ただ道路に取り込まれているわけではなく、正規の歩道脇に更に自転車道が並ぶという豪華な二本立てとなっている。
水島IC内では道路と鉄道のルートが一部異なるが、途中から再び軌を一にする(写真L)。インターを抜け出た後の左カーブも廃線後に手直しされたもので、鉄道は外側にさらなる急カーブを描いていた。
カーブ終了地点に設けられていた福田(写真M)は、跡地の一部が民家等に利用されている。
上り勾配で続いてきた下津井電鉄は、山の中で小さな峠を越え下り坂に変わる。すると道路脇にスリップ注意の標識(写真N)が出てくる。最初は存在意義を理解できなかったが、しばらく考えて、自動車通行可能だった時代の名残と気が付いた。北向き一方通行路として利用されていたようだ。
さらに細かな上り下りを数回繰り返したのち瀬戸中央道をくぐると、再び連続した上り勾配で県道21号線脇を併走する。この区間も高速道建設に伴い、舗装路に転用された当時の路盤(写真O)と自転車道のルートが一部で異なっている。
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P |
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左手に広がる福林湖の南端まで進むと、やや西に向きを変え県道と別れる。入口には歩行者専用の標識が立つものの、道路に面する住宅や車庫も点在し、指定車両の通行は許可されているようだ。ただしばらく進むと、車止が出現し自動車は入り込めなくなる。
その後一車線の舗装路が横に並び、更に交差(写真P)して位置を変えた後、勾配緩和が目的なのか、西方へと大回りする。 |
16年7月 |
途中には当時の石積橋梁が二箇所(写真Q・R)で残され、歩行者橋として再利用されている。
さらに県道276号線を斜めに横断し、その後道路に吸収される。両者の交差地点では、鉄道用地に沿った飲食店の土地境界線(写真S)を見つけることもできる。
しかし県道との重複は短区間で終了し、再び独立した自転車道(写真T)として右に分離する。
列車交換駅だった稗田(写真U)は休憩所兼用の稗田さくら公園として整備され、当時のホーム跡がきれいな形で保存されている。続く柳田(写真V)にも駅名標を模した案内板が設けられ、その場所を教えてくれる。
なお自転車道と交差する一般道側は全て一時停止の規制がなされ、自転車にとっては走りやすい道となっている。
歩道橋(写真W)で二車線道路と共に小田川を越えたのち、道路はやや東に屈曲する。ここに位置したのが児島小川(写真X)で、ホーム跡は民家の車庫等に利用されている。
駅を出た後、児島ジーンズとして有名なデニム工場(写真Y)を横目に見つつ、列車は南へと走り抜けていた。 |
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W |
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16年7月 |
さらに右カーブで小田川を渡り戻すが、川の両岸には橋梁の痕跡(写真Z)が認められる。川を越えると開業当初の終点児島(写真AA)に到着する。大きな敷地を有した跡地は一時期バスターミナルとして活用されていたが、今は規模が縮小され、大半は市営駐車場に変わっている。
バスターミナル開設に伴い南方に移設されたのが二代目児島(写真AB)で、ホーム一面の簡素なつくりだったためか、当時の面影はどこにも残されていない。
その後、瀬戸大橋線の開業を機に再び南西方向に移転したのが三代目(写真AC)となる。JR児島駅との連絡を改善する思惑と考えられるが、活躍したのはほんの短期間にとどまる。
ここは廃止時の設備がそのまま残され、下津井電鉄の路盤を転換した遊歩道「風の道」の拠点として、内部を自由に見学することが出来る。
茶屋町児島自転車道の一部でもある「風の道」は、未舗装ながらしっかり踏み固められ、自転車での通行にもなんら支障はない。
ここからは平成初期に廃止された区間に入り、16年時点で道路沿いに未撤去の架線柱(写真AD)を見つけることも出来る。廃止直後はレールや駅施設はそのまま放置されていたが、当初から既に自転車道として整備する計画があったようだ。
備前赤崎(写真AE)には相対式ホームが残り、駅跡の案内もある。次の阿津(写真AF)にも、ホーム跡と駅名標を模した案内板を確認することが出来る。
駅を後にすると鷲羽山越えの連続勾配に差し掛かり、路面も舗装へと変わる。そのまま瀬戸大橋線と交差し(写真AG)、児島競艇場を左眼下に見ながら高度をぐんぐん上げていく。遮るものがないためか、かなり離れた場内のボート音が大音量で響いてくる。
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AF |
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AG |
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94年8月
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94年8月
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AH |
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勾配が一段落すると琴海(写真AH)に到着する。ただ16年7月時点で、自転車道はこの先は通行止となっていた。その原因は道路崩落(写真AI)によるもので、復旧作業中のため迂回せざるを得なかった。
工事個所を過ぎると一体構造の瀬戸大橋線、瀬戸中央道をアンダークロス(写真AJ)し、右に急カーブを描いて向きを西へと変える。 |
94年8月
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途中の切通(写真AK)は岩盤を切り開いたもので、建設工事における最大の難所でもあったようだ。 |
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AK |
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16年7月 |
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AL |
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カーブ終了地点に位置したのが鷲羽山(写真AL)となり、ホーム跡と共に案内板、トイレ、さらには瀬戸大橋を望む展望台も設置され、休憩所の役割を果たしている。
なお駅名の元となった鷲羽山山頂へは、山道をかなり歩く必要がある。 |
94年8月
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県道393号線と交差した後の東下津井(写真AM)にも、同様にホーム跡と案内板はあるが、ここのホームは草に埋もれて全体を確認することができない。 |
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AM |
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94年8月
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ここからは再び未舗装に変わり、連続した下り勾配で木立の中を駆け抜ける(写真AN)。
道なりに進むと幅員が徐々に狭くなり、手入れの良い山道といった雰囲気に変わってくる。そんな中に架線柱がポツンと立っているのは、何とも不思議な光景だ。
最後の左大カーブ(写真AO)を過ぎ、下り勾配が終了した地点で県道21号線をくぐると(写真AP)、そのまま終点の下津井(写真AQ)に到着となる。既に駅舎は解体されたが、構内のレールとホームは今も現存し、車庫跡には車両が展示保存されている。駅跡が開放され誰でも見学できるのはうれしい限り。
当地はその昔、北前船の寄港地でもあり、また四国への連絡港として重要な役割を担っていたが、今はその地位も他所に譲り、険しい地形にも拘らず一帯にはのどかな雰囲気が漂う。
保存車両
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AR |
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下津井構内に程度良く保存されている。 |
16年7月 |
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻173号/下津井電鉄/青木栄一 著・・・私鉄車両めぐり
- 鉄道ピクトリアル通巻493号/下津井電鉄/曽我治夫・木村博真 著
参考地形図
1/50000 |
岡山南部 |
[S37資修] |
下津井 |
[S35修正] |
1/25000 |
茶屋町 |
[S45修正] |
下津井 |
[S45改測] |
No101に記帳いただきました。
最終更新日20224/4 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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