地区:山口県下関市 区間:東下関〜幡生/2.2km 軌間:1067mm/単線 動力:蒸気→電気
山口県の西端に誕生した長州鉄道。国が計画した幹線ルートに一致したため、大半が国有化された。残された短い路線を山陽電気軌道に譲り、下関の市内電車と一体で運行されたが、バスの台頭により昭和中期に役目を終えた。
略史
大正 |
3(1914) - |
4/ |
22 |
長州鉄道 |
開業 |
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14(1925) - |
6/ |
1 |
〃 幡生以北国有化 |
|
昭和 |
3(1928) - |
12/ |
18 |
山陽電気軌道 東下関〜幡生を譲受 |
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46(1971) - |
2/ |
7 |
〃 〃 |
廃止 |
路線図
廃線跡現況
市内線との接続駅東下関(写真A)は、県道248号線に分断されている。東側の駅跡はハンバーガー店等に変わり、西側の車庫跡に建てられていた商業施設も19年時点で解体作業のため立入は制限され、昔日の面影は探しようもない。ただしバス停名は今も東駅を名乗り、地元でもこの通称が根付いている。
北西に向かう路線は現本社屋を抜けたのち、一車線道路(写真B)に転用される。長州鉄道時代は専用敷を蒸気列車で運行していたが、山陽電気軌道への譲渡後は、市内線同様の路面電車タイプに置き換えられた。
途中の大坪八幡(写真C)は地元で確認を取ることができず、地形図からおおよその位置を把握するにとどめた。駅の西は宅地造成の影響か、鉄道ではありえないような勾配が続く。本来なら、西方の市道と山陽本線を連続してオーバークロスすべく、ゆるやかな上り勾配が続いていたはずだ。
交差後の下り築堤もきれいに撤去され、跡地の一部は生活道に変わる。さらに右カーブでタクシー会社の車庫を抜けると、国道191号線に吸収され、合流点には鉄道用地に沿った境界線(写真D)を認めることができる。
金毘羅(写真E)は、後継会社となるサンデン交通の汐入町バス停が目印となる。
駅の先、ルート上に生活道が続くも、この西沿いの店舗や倉庫等が実際の線路跡に相当する。
路線がほぼ真北に向いた地点で武久川を渡る。両岸にコンクリート橋台(写真F)が残され、唯一の遺構として貴重な存在となっている。
川を渡ると二車線の市道と交差し、その西側に出る。ここからは沿道の店舗や工場内を抜けるため、跡地を直接たどることは難しくなる。
しばらく市道側を迂回すると、左手に下関武久郵便局が見えてくる。武久(写真G)は同局と小径を挟んだ東側の一画に置かれていた。北角の店舗はパンメーカーの看板を掲げるが、既に廃業したのか扉は閉ざされたままだ。おそらく当時の駅前商店なのだろう。
駅を出ると再び市道を渡り戻し、向きを徐々に東に変える。当時から両サイドに隣接した側道が残され、間に挟まれた路盤上(写真H)は既に住宅が軒を連ねる。
そのまま自動車販売店を通り抜け、二度目となる武久川を渡る。しかし現在の河道は鉄道廃止後に新たに開削されたもので、当然ながら橋梁痕は存在しない。やや西側となる旧河川は道路化され、やはり何も見つけることはできない。
川を越えると終点幡生(写真I)に到着する。山陽本線の貨物操車場脇に位置したが、既に大半の留置線は姿を消し、再開発の予定が有るのか無いのか、大きな更地が目の前に広がるだけとなっている。
開業当初の長州鉄道線は操車場内をまっすぐ進み、旧山陽本線と並走したのち、現在のJR工場東端付近で北に向きを変えていた。両線の接続駅でもあった旧幡生(写真J)は県道258号線等に飲み込まれ、その位置すら判然としない。
工場を抜けたのち一旦JR線の西側に出るが(写真K)、すぐ緩やかな右カ-ブで戻り、両者は合流する。沿線のマンションと現線の間が線路跡のようで、その地形から旧線は若干高い位置を走っていたとも考えられる。ここから先は山陰本線として国有化され、今も中国地方の幹線の一角を担っている。
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻212号/山陽電気軌道/谷口良忠著・・・私鉄車両めぐり
参考地形図
1/50000 |
小倉 |
[S26応修] |
1/25000 |
下関 |
[T11測図/S25三修] |
採取更新日2024-7/24 *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*
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