山陽電気軌道幡生線を訪ねて
廃止鉄道ノート中国 減速進行

 地区:山口県下関市  区間:東下関〜幡生2.2km  軌間:1067mm単線  動力:蒸気→電気

山口県の西端に誕生した長州鉄道。国が計画した幹線ルートに一致したため、大半が国有化された。残された短い路線を山陽電気軌道に譲り、下関の市内電車と一体で運行されたが、バスの台頭により昭和中期に役目を終えた。

略史

大正 3(1914) - 4/ 22  長州鉄道  開業
14(1925) - 6/ 1     幡生以北国有化
昭和 3(1928) - 12/ 18  山陽電気軌道 東下関〜幡生を譲受
46(1971) - 2/ 7          〃 廃止

路線図

路線変遷図



廃線跡現況

A 市内線との接続駅東下関(A参照)は、県道248号線に分断されている。

東側の駅跡はハンバーガー店等に変わり、西側の車庫跡に建てられていた商業施設も19年時点で解体作業のため立入は制限され、昔日の面影は探しようもない。ただしバス停名は今も東駅を名乗り、地元でもこの通称が根付いている。
19年4月
北西に向かう路線は現本社屋を抜けたのち、一車線道路(B参照)に転用される。長州鉄道時代は専用敷を蒸気列車で運行していたが、山陽電気軌道への譲渡後は、市内線同様の路面電車タイプに置き換えられた。

途中の大坪八幡は地元で確認を取ることができず、地形図からおおよその位置を推測するにとどめた。
B
19年4月
C その後、二車線の市道と山陽本線を連続してオーバークロスする。西側の築堤はきれいに削られ、用地の一部が生活道に変えられている。

さらに右カーブでタクシー会社の車庫を抜けると、国道191号線に吸収され、合流点には線路跡の境界線(C参照)が残されている。
19年4月
金毘羅(D参照)は、後継会社となるサンデン交通の汐入町バス停が目印となる。

駅の先、ルートに沿った生活道が続くが、これは東側の側道で、線路跡は店舗や倉庫等に利用されている。
D
19年4月
E 路線がほぼ真北に向いた地点で武久川を渡る。両岸にコンクリート橋台(E参照)が残され、唯一の遺構として貴重な存在となっている。

川を渡ると二車線の市道と交差し、その西側に出る。沿線には店舗や工場が建ち並び、跡地を直接たどることは難しくなる。
19年4月
しばらく市道側を迂回すると、左手に下関武久郵便局が見えてくる。この前に武久(F参照)が置かれていた。

北角の店舗はパンメーカーの看板を掲げているが、既に廃業したのか扉は閉ざされたままだ。おそらく当時の駅前商店なのだろう。
F
19年4月
G 駅を出ると再び市道を渡り戻し、向きを徐々に東に変える。当時から両サイドに側道が接し、間に挟まれた路盤上には今、住宅が軒を連ねる(G参照)
19年4月
そのまま自動車販売店内を通り抜け、さらに流路を変えた武久川を越えると、終点幡生(H参照)に到着する。

山陽本線の貨物操車場脇に位置したが、既に大半の留置線は姿を消し、再開発の予定が有るのか無いのか、大きな更地が目の前に広がるだけとなっている。
H
19年4月
I 開業当初の長州鉄道線は操車場内をまっすぐ進み、旧山陽本線と並走したのち、現在のJR工場東端付近で北に向きを変えていた。

接続駅でもあった旧幡生(I参照)は県道258号線等に飲み込まれ、その位置すら判然としない。
19年4月
工場を抜けたのち一旦JR線の西側に出るが(J参照)、すぐ緩やかな右カ-ブで戻り、両者は合流する。沿線のマンションと現線の間が線路跡のようで、その地形から旧線は若干高い位置を走っていたとも考えられる。

ここから先は山陰本線として国有化され、今も中国地方の幹線の一角を形成している。
J
19年4月

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻212号/山陽電気軌道/谷口良忠著・・・私鉄車両めぐり

参考地形図

1/50000   小倉 [S26応修]
1/25000   下関 [T11測図/S25三修]

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制作公開日2019-6/5 
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