長門鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート中国 減速進行

 地区:山口県下関市  区間:小月~西市18.2km  軌間:1067mm全線単線  動力:蒸気・内燃

地域開発と木材搬出を目的とした鉄道が地元有志の努力により開業した。最終的には長門市仙崎まで路線を延ばし、陰陽を連絡することも視野に入れていた。しかし資金不足のため開業は西市までにとどまり、木材輸送に必要な山岳地への線路敷設すら出来ず業績は低迷した。不振打開のためにバス運行を開始したが、これがかえって鉄道の収支を悪化させ、モータリゼーション到来前に終焉を迎えてしまった。

路線図

略史



大正 7(1918) - 10/ 7  長門鉄道  開業
昭和 17(1942) - 11/ 1  山陽電気軌道に合同
24(1949) - 4/ 1  長門鉄道として独立
31(1956) - 5/ 1     廃止

廃線跡現況

A 山陽本線駅前に始発駅の小月(写真A)を構えていた長門鉄道。ロータリーに面した駅舎跡は、当時の流れを汲んだサンデン交通のバス乗り場等に変わる。なお当初は貨物専用駅として開業し、翌年から旅客扱いを開始したと、下記参考資料に書かれている。
16年7月
B
24年3月
北東へ向かう路線は市街地の中に埋没するため、跡地を直接たどることは難しいが、一部には鉄道用地を利用した駐車場(写真B)やアパート等も見かけることができる。
C
24年3月
浜田川に接近した後は地元の路地に転換され、数軒の民家を過ぎると長門上市(写真C)に到着する。本社屋や機関庫を併設していた駅跡の雰囲気は既に無いものの、道沿いの石積がホーム跡と参考資料に記されている。
ここからは若干道幅の広がった生活道(写真D)に変わり、そのまま新幹線をアンダーパスする。続く中国道の小月インターチェンジに突き当たると道路は終了し、空地(写真E)として放置される。

D
16年7月
E
16年7月

F
24年3月
インターの先で国道491号線と交差し、東脇を側道状態で北上する。途中で西側に位置を入れ替えるが、ここに小橋梁(写真F)を認める。桁は道路用に換装されたが、石積橋台は当時の原形を保っている。
G
16年7月
上小月(写真G)は駅を載せた地図を探し出せず、場所は判然としない。現地で尋ねてみたが、駅はなかったとの答えが返ってきた。大正時代に閉鎖された駅なので、それも致し方ないのかもしれない。当時の地図からの推測も難しく、写真の位置は単なる想像に過ぎない。
H
16年7月
ここで国道から右に別れると、再び鉄道時代の石積橋台を再利用した道路橋(写真H)を見つけることができる。路線はそのまま県道260号線(写真I)に合流し、右手から中国道が接近したのちは、そちら側にルートを移す。
並進していた県道と高速道が離れ始めると、鉄道はその中間地点を進み、左カーブを描く築堤(写真J)で北に向きを変える。築堤の一部は今も当時の姿を残し、草刈り等の手入れが継続して実施されているようだ。

I
16年7月
J
16年7月

K
16年7月
カーブ終了地点で一旦県道に合流する。この先のごく短区間のみは廃線跡を転用して県道が建設され、下大野(写真K)もこの中間に設けられていた。駅は同名バス停が目印となる。
L
16年7月
鉄道側は駅の北で県道から左に分岐し、今度は一車線の生活道(写真L)に転換される。ただし途中に幅員の狭い箇所があるため、軽自動車でも通り抜けは難しく、実際に車に出合うことはなかった。
M
16年7月
道なりに進み、連続する上り勾配が終了すると、東方を平行していた県道と交差する。同所南西角の空き地が上大野(写真M)の跡地となり、片隅には駅跡の表示も設けられる。
N
16年7月
県道との交差後は道路入口にポールが設置され、自動車の進入を阻止しているものの、歩行者専用の標識はなく、何とも中途半端な用途を担った道(写真N)に変わる。ちなみに写真に写る標識は、県道側の設備だ。
O 再び下りの左カーブで西に向きを変え、道路脇にホーム擁壁が残された田部(写真O)に滑り込む。教育委員会の手による案内板も立てられ、長門鉄道の歴史を後世に伝えている。
16年7月
駅北方の小橋梁(写真P)は、橋台が石積、橋脚が煉瓦積とちぐはぐな構成で、鉄道橋をそのまま再利用した思われる。
その先で道路は田部川に突き当たって途切れる。橋梁は既に撤去されたのか、川の両岸とも痕跡は認められない。
P
16年7月
Q 川を越えると住宅となった箇所や空き地が混在し、当時の用地境界線も目にすることができる。その中に小さな水路を渡る橋梁跡(写真Q)を発見する。対岸は雑草に隠されるものの、当時の石積み橋台が両岸ともしっかり残されている。ただ個々の石材は通常では見かけない程の大きさを持ち、建設時の基準に興味を惹かれる。
16年7月
更に数軒の民家と未舗装路を抜け、農協の施設内に入り込む。ここが岡枝(写真R)の駅跡で、かなり大きな構内を持っていたと想像できる。当時の駅前商店と思われるたばこ店は現在も営業中。 R
16年7月
S
16年7月
駅の北、ルート上にコンクリート橋(写真S)を見つける。その位置から鉄道用を再利用した可能性が高いものの、雑草に邪魔されて確認を取るには至っていない。しかも前後に道路の無い孤立状態で、廃止直後に地元の作業道として使われていた名残ではないかと考える。
T
16年7月
北に向かう路線は病院の敷地内を抜け、県道233号線を横切ると再度一車線道路(写真T)に転換される。未舗装路と舗装路が混在しながら、下関市の施設、菊川温泉までつながっていく。現地で、温泉水排水のため鉄道用地を道路に変え、その下に下水管を埋設し処理場まで送っていること、土地を所有していたサンデン交通は代替地を譲り受けて分譲売却したこと、等の話を教えもらった。
U
16年7月
温泉の北は農地の中に埋没するが、その中で道路沿いの側溝に石積の水路橋跡(写真U)を見つける。当時のルートに一致するものの、現地で確証を得ることができず、鉄道の遺構である確率を7割程度と判断した。
V
01年1月
痕跡の消えた田圃内を通り過ぎると、その先で歌野川が横切る。以前確認することができた橋台(写真V)は、堰の設置、護岸工事等の河川整備によりその姿を消している。
W
16年7月
川の対岸に数軒の住宅が建ち並び、込堂(写真W)はこの中に置かれていた。当時のホーム跡がいまだに残され、跡地に建つ二軒の民家庭先に、それぞれ顔をのぞかせている。隣接する県道34号線には同名のバス停が設けられ、また東を流れる木屋川右岸堤防から俯瞰すると、当時の路盤が鮮明に浮かび上がってくる。
X
16年7月
駅を後にすると一旦県道に合流するが、すぐ右に分かれ、一車線の舗装路(写真X)として県道脇に並んで北進する。歩行者道の雰囲気を持つが特に規制はなく、自動車も通行可能となっている。
Y しばらくして県道から離れると、トンネル(写真Y)が目の前に現われる。一時は周辺が荒れ、近づくことすら難しい時期もあったようだが、現在は地元の協力により整備され、通り抜けも可能となっている。内部は漏水もなく崩落の可能性は少ないと思われ、足下にはバラストが残されている。ただ出口の先に続く道がないため、再び元に戻らざるを得ないのはやや残念なところ。
16年7月
線路跡に続いていた道路は迂回路でトンネルを越え、その先は木屋川右岸に沿って上流に向かう(写真Z)。ここも相変わらず自動車通行禁止の標識はない。途中の橋梁(写真AA)は道路向けに改修されたものの、橋台の下側が石積のため、鉄道用を転用したと考えてよさそうだ。
その後、左から県道が接近し、両者並んで右カーブを描くと西中山(写真AB)に着く。ここは同名バス停が駅跡を教えてくれる。
Z
16年7月

AA
24年3月
AB
16年7月

AC 駅の先から県道の東脇を側道として併走するが、舗装路から未舗装(写真AC)に変わると道路は途切れ、一旦農地の中に組み込まれた後、今度は県道の拡幅に利用されはじめる。
16年7月
AD
20年9月
再び単独でルートが現われるのは石町(写真AD)の手前からで、県道から左に別れる生活道として北に続いていく。なお20年時点では当駅を含めた各駅に、復元された駅名標とその歴史を記した案内板が設置される。
石町の集落を抜けた先、道路にはジョギング向けとなる豊田トリムコースの別称が付く。その道路上を進み、痕跡の消えた阿座上(写真AE)を過ぎたのち今度は県道65号線(写真AF)に合流し、トリムコースもここで同時に終了する。

AE
20年9月
AF
16年7月

AG
16年7月
その県道が左急カーブを描き始めると、鉄道側は一車線道路として真っすぐ進み、最後はやや西に向きを振って終点西市(写真AG)に到着する。跡地は農業施設に利用され、当時の痕跡が隠されている雰囲気を感じるが、残念ながら何も見つけることは出来なかった。

- 保存 -

AH
24年3月
道の駅蛍街道西ノ市の中心に据えられた保存車両(写真AH)

参考資料

  1. 長門鉄道ものがたり/伊藤修二 編集/長門ポッポを守る会

参考地形図

1/50000   西市 [S24応修]   厚狭 [T11修正]
1/25000   小月 [S26三修]   田部 [*S26三修]   西市 [該当無]

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最終更新日2024-4/4  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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