大日本軌道山口支社線を訪ねて
廃止鉄道ノート中国 減速進行

 地区:山口県山口市  区間:山口~小郡12.9km  軌間:762mm単線  動力:蒸気

官設鉄道が全国に広まる中、反対運動も災いしてか、山陽本線から取り残されてしまった山口町。県庁移出もささやかれ始めたため、地元有志で鉄道が計画された。開業時には全国展開する大日本軌道の一員になっていたが、平行する山口線の開通に伴い短い生涯を閉じた。

略史

明治 41(1908) - 10/ 15  大日本軌道山口支社  開業
43(1910) - 11/ 16       〃 全通
大正 2(1913) - 7/       〃 廃止

路線図



廃線跡現況

A 山陽本線との接続駅で当線の起点ともなった小郡。開発により痕跡は消え、精度の低い旧版地形図を頼りに位置を読み取る他ない。一年で駅が0.1km移動していることから初代駅(写真A)は仮設と考えられ、駅前通から道路北脇のホテル付近にかけてと判断した。
19年4月
B
24年3月
本来の予定地となる二代目(写真B)は、駅前の交流センター付近と推測する。
以降の路線は専用軌道で敷設されたと思われ、駅北側の駐車場やタクシー車庫(写真C)に沿った地割が、当時のルートに一致しそうだ。その後は正確なルートを把握できないまま市街地を進み、やがて一角に歩行者専用道路(写真D)が現れる。用水路の上につくられた道で、線路はこれに沿っていた可能性が高いと考える。

C
24年3月
D
19年4月

E しばらくして二車線の市道が右手から接近し、この信号付横断歩道西方に津市(写真E)が置かれていた。東西の細道が当時の接続道路と考えてよさそうだ。
軌道は後輩でもある市道と同じ方向に進むが、角度が微妙にずれるため、やがて両者は鋭角に交差し、その位置を入れ替える。
24年3月
F
24年3月
市道の東に移ると線路跡の用地境界線が少しずつ姿を現す。まずは小郡小学校の西縁(写真F)から始まり、空き地、鴻城高校西端をかすめ、中領八幡宮前の理容店裏手へとつながる。さらに北側のクリーニング店(写真G)を過ぎると、やはり軌道廃止後に開通した国道9号線を横切り、そのまま住宅地に入り込む。一画内の元開業医宅(写真H)付近を通っていたとも聞いたが、正確なルートの特定には至らない。

G
24年3月
H
19年4月

I
19年4月
四十八瀬川を渡ると開業時の起点、新町(写真I)に着く。始発駅として余裕をもって確保されたはずの土地は農地や民家に変わり、一部が空き地のまま放置される。北端に建つベージュ色の二階建住宅が駅舎跡と言われている、との教示を現地で受けた。
J
19年4月
駅を出ると住宅地の中で右にカーブを描き、旧石州街道(写真J)に合流する。 地形図は道路に隣接する専用軌道として描くが、実態は道路と同化し、その片端を占有する併用軌道状態だったと推測する。街道は合流地点から若干道幅が広がり、そのまま国道9号線と山口線を横切って椹野川右岸堤防上につながる。
K
19年4月
山口線上郷駅北側の水路には石積橋台(写真K)が残され、これを旧街道の橋梁跡とみてよさそうだ。後述する和田橋の例から、併用橋だった可能性が高い。
椹野川堤防上は車道と歩道が区分けされ(写真L)、歩道側には山口秋吉台自転車道の名称がつく。次の仁保津(写真M)は地形図に記載がなく前後駅からの距離も不明なため、集落からのアクセスを考慮に入れ、茶屋川樋門前後と推測した。

L
19年4月
M
24年3月

N
19年4月
椹野川と支流の吉敷川合流部に位置したのが和田橋(写真N)。駅名の元となった橋の親柱が残り、明治22年の文字が刻まれる。同41年開業の軌道は別途専用橋を架橋したと考えたが、「ふるさと大歳/山口市立大歳小学校」に載せられた写真を見ると、道路との併用橋であることを確認できる。駅沿いに数軒の家が並び、北端の店舗はういろうを売っていたことから、民家となった今でも、ういろう屋と呼ばれているそうだ。
O
19年4月
吉敷川右岸を進む旧街道は、やがて川を渡り対岸に移る。軌道側はここで一旦道路上から離れ、北に大きく膨らむ。沿道の集落を避ける目的と思われ、参考資料2には小学校の真裏を抜けるとあるが、その後学校は大きく拡張され、19年時点では校内のど真ん中を通り抜けることとなる。
再び街道上に戻った直後、後輩の山口線と交差し、これを覆うような形で大歳(写真O)が置かれていた。
P
20年9月
北東に向かう路線は、県道200号線と交差する手前で再度道路から北に外れる。やはり街道沿いの町並みを避ける目的のようで、その線路跡は既に市街地に取り込まれ、痕跡を見つけることは難しい。
カーブ途中に設けられた湯田(写真P)も観光案内所が目印となるが、跡地は細かく分断され、詳細を確認する術は失われている。
Q
24年3月
駅を出ると今度は県道204号線に合流する。軌道敷設のため新たに開設された道路で、その後の拡幅、延長を経て、今では市街地を貫通する主要道路に昇格している。途中の讃井(写真Q)は地形図に記載がなく、かなり強引だが前後駅からの距離を時刻表の所要時間、6分、4分で配分し、接続道路も考慮した上で済生会病院前交差点前後と判断した。
亀山(写真R)は開業当初の終点を担い、御茶屋橋前への延伸後に初代山口から駅名変更された。ここからはおそらく専用軌道で市街地内を抜けていたと思われるが、その跡地には住宅が建ち並び、直接たどることは難しい。 R
19年4月
S 延伸後の終点、二代目山口(写真S)は一の坂川交通交流公園に変わり、ここに初めて軌道の存在を伝える案内看板が出てくる。痕跡はなくとも、永くその名を残してほしいと願うばかりだ。
19年4月

参考資料

  1. 山口市史通史編/地区編
  2. 鉄道廃線跡を歩くⅩ/大日本軌道山口支社/宮脇俊三 編著

参考地形図

1/50000   山口 [M42鉄補]   小郡 [M42鉄補]
1/25000   山口 [該当無]   小郡 [該当無]
1/20000   山口 [M42鉄補]   小郡 [M42鉄補]   陶 [M42鉄補]

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最終更新日2024-4/2  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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