地区:宮城県仙台市 区間:北仙台~西古川/44.2km 軌間:762mm/単線 動力:蒸気・内燃
この鉄道は当初人車軌道の予定だったが、計画途中で動力を蒸気に変更し、さらに開業時はガソリンに変わっていた。しかしその後は一旦蒸気に戻り、やがてディーゼルへと進化した。また路線も、陸羽街道沿いの吉岡~古川間を中新田経由に変更するなど、多難な道のりを経ての開業だった。東北本線とは大きく離れていたため地元の期待は高かったが、業績は芳しくなく、連続した台風により廃止への引導を渡されてしまった。
路線図 |
略史 |
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A | 開業時の起点通町(写真A)は仙台市街北端の陸羽街道入口に設けられ、当初官設鉄道との接続はなかった。後年、仙山線が開通し北仙台駅が置かれると市電の延伸が計画され、仙台鉄道側は平面交差を避けるためか、路線を短縮し、当駅もその時点で役目を終えている。 駅跡は18年現在、国道沿いの駐車場および空き地となっている。 |
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18年09月 |
路線短縮後の起点となった北仙台(写真B)。仙山線の駅から少し離れた場所に位置し、広い構内は宮城バスのターミナルを経て高層マンションへと変わっている。なお新旧両起点間は既に市街地に組み込まれ、その線路跡は判然としない。 | B | ||
02年08月
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C | 駅から東に向かう路線は一旦JR線に接近した後、徐々にその距離を離し、一方通行の生活道として利用されはじめる。JR線近接部は民地となり住宅が建並ぶ。 次の東照宮前(写真C)はこの道路上で、徳川家康を祀った近くの神社から駅名がつけられた。 |
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18年09月 |
さらに道なりに進むと仙山線をアンダークロス(写真D)し、左カーブで北に向きを変えたのち、小松島小学校北側の市道にぶつかり道路は終了する。この先は一部に店舗が含まれるものの、大半は民家が建ち並び、かすかに当時の境界線を残しながら続いていく。 | D | ||
70年頃
名田氏提供 |
E | 現地で情報を収集できない中、ただ一箇所、未舗装の駐車場南側(写真E)が線路跡であることを確認できた。参考資料2には、この小松島地区で線路の付替えが実施されたと記され、まさに昭和20年代の空中写真から、これに符合するルートを読み取ることができる。しかし元々勾配の厳しい区間でもあり、さらに傾斜を急にする路線の短縮をなぜ行ったのか。S字急カーブの解消とも取れるが、その真意は今のところ不明だ。なお開業後に発行された大正14年版地形図では、旧線に近い微妙なルートが描かれている。 | ||
18年09月 |
左脇に隣接する生活道が上り坂から下り坂に変わったのち、やがて二車線道路(写真F)に近づくと、両者揃って合流し、北に向きを変える。 | F | ||
18年09月 |
G | 道路が上り勾配に差し掛かるあたりから鉄道側は左へと離れ、台原森林公園内(写真G)に入り込む。この先は一旦舗装路に転換されるものの、その後は東脇の住宅地内へと徐々に位置を移し、そのまま仙台川を越える。 | ||
18年09月 |
しばらくは河川と県道22号線に囲まれた細長い区間を進むが、跡地は沿線の店舗等に取り込まれ、直接たどることはできない。そんな中、仙台川左岸に少しだけ、路盤を転用した舗装路(写真H)を見つけることができる。 | H | ||
18年09月 |
I | 八乙女(写真I)には地下鉄南北線の駅が設けられ、のんびりした田舎駅であったろう当時の趣は全く感じられない。旧版地形図では現駅北側の駐車場付近を示すが、正確な駅跡の特定は難しい。 | ||
18年09月 |
駅を出ると七北田川を渡り、石留神社の東脇をかすめ、さらに自動車学校跡に残された空き地西縁を通る。その先には住宅等が建ち並び区画も変えられたため、跡地を探す術が消える。 七北田(写真J)はアパートに変わっている。旧国道からの取り付け道路が残り、そのまま廃線跡を利用した一車線道路へとつながる。 |
J | ||
02年08月 |
K | 北に向かう路線は道幅が若干変化しつつも、鉄道らしい緩やかな勾配とカーブを描いて進み、当地の大動脈国道4号線仙台パイパス(写真K)にぶつかる。 | ||
02年8月 |
国道を横切ると一旦沿道の店舗内を通り抜けたのち、要害川を渡ることになる。川底に倒れた橋台跡らしき残骸(写真L)を認めるが、地元で確認を取れなかったのは残念。 ここからの仙台鉄道は同河川に絡んで延び、その位置を幾度も入替えながら北上するが、バイパス用地に取り込まれた区間も多く、跡地の把握をより難しくしている。 |
L | ||
18年09月 |
道路は自動車の走行に適した仕様で建設されたが、鉄道として見るべきものは何もない。また、途中県道264号線との交差箇所のみ、ルートから若干外れる。 黒川小野(写真P)は宮床地区からの木材等の集荷口にあたり、更に農業倉庫も隣接する。旧版地形図に描かれた近くの学校、既に廃校となったのかあるいは移転したのか、18年時点で姿は見えない。 |
P | ||
02年08月
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Q | 駅を出てさらに進むと、道路は左、右とS字カーブを描く。直進する鉄道側は農作業道に変わり、そのまま竹林川にぶつかる。橋梁の痕跡は認められない。川の先は一旦農地内に入るが、すぐ当時の築堤(写真Q)が姿を現す。今は草が生い茂るものの、以前は作業道として使われていた雰囲気を感じる。 | ||
18年09月 |
築堤は県道256号線に突き当たって終了し、その正面の民家が富谷(写真R)となる。駅の北側から始まる線路跡上の農道は、個人所有の土地を公道として寄付したと聞いた。ただ18年時点で使用されている様子はなく、雑草に覆われた路面は歩くにも苦労する。 その道を進むと再度竹林川を渡り、先程まで軌を一にしてきた二車線道路にぶつかって終了する。この先は丘陵の麓を走り、一部の空き地に当時の用地境界線を見つけることができる。 |
R | ||
02年8月 |
S | 丘陵から離れると、今度は圃場整備された農地に飲み込まれ、跡地のトレースは難しくなる。そんな中、二ノ関地区で小橋梁跡(写真S)を見つける。石材を谷積とした橋台の上にコンクリート桁が載せられ、築堤下の暗渠であった可能性もある。但しルートには一致するものの地元で情報を得ることが出来ず、鉄道の遺構と断定するには至らなかった。 | ||
18年10月 |
さらに二ノ関公民館の西側には、築堤(写真T)の一部を確認することができ、最近伐採されたのか、かなり大きな切り株がいくつも残されている。 | T | ||
18年10月 |
U | 再び痕跡の消えた農地内を進むと、やがて志戸田(写真U)に到着する。駅跡には路盤に沿って住宅が建ち並び、その一軒は元機関士宅とのこと。また近くに仙台鉄道の絵が掲げられ、当時の様子を後世に伝えている。 | ||
18年10月 |
駅の先は一部に当時の境界線も残るが、大半は接近してきた国道4号線沿道の民家、あるいは農地等に取り込まれてしまう。しかし途中で渡る吉田川では、今も右岸に残る高田橋の橋台(写真V)を確認することができる。残念ながら左岸側や橋脚の遺構は見当たらない。 | V | ||
18年10月 |
W | 川を越えたのちは警察署と消防署の西をかすめ、左急カーブを描いて東西に走る二車線道路へ合流する。その道路上に位置した主要駅の一つ吉岡(写真W)は、構内の大きさを活かしバス営業所に変わっている。以前はターミナルを兼務していたが、後年コミュバス等も乗り入れる新たな施設が南方に開設されている。 | ||
18年10月 |
線路跡が道路と一致するのは駅周辺だけで、西へ進むにつれゆっくり右手に離れだし、住宅地の中へと入り込む。 痕跡の消えた市街地を抜けた後は、農地や民家、バス駐車場などが交互にあらわれ、一部に空き地となった路盤(写真X)も姿を見せる。 |
X | ||
18年10月 |
Y | 住宅地の中で進路を北に変え、数本の道路を横切ると、放置されたままの掘割(写真Y)が現れる。人の手が入った様子はなく、荒れ具合は年々進化しているようだ。 | ||
02年08月
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藪地となった掘割の北から、当線で唯一の歩行者専用道(写真Z)が始まる。ただし7-20時に限っての占有で、他の時間帯は車両通行可能となっている。 | Z | ||
18年10月 |
AA | 途中、国道457号線との交差点東に大童(写真AA)が設けられていた。旧版地形図には対面に小学校が記載されるが、既に閉校されたのか、18年時点で見つけることはできない。政令指定都市近郊といえども、この付近まで来ると過疎が進んでいるのかもしれない。 | ||
02年08月 |
また当駅の北を流れる埋川には歩行者用の木橋(写真AB)が新たに架けられ、その珍しさから人気を博していたが、今は何ら特徴のないコンクリート橋に架け替えられてしまった。ご記帳処にお寄せいただいた情報によると、近くに出来た消防署の危機管理の問題らしいが、 何とか残す方法はなかったのかと残念に思う。 | AB | ||
02年08月
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AC | 亜炭の集荷口でもあった大衝(写真AC)は、現在のJAが目印となる。また、しばらく続いて来た歩行者専用道は、この先、県道148号線にぶつかった地点で終了する。その後は耕地整理された農地の中に吸収され、跡地を直接たどることは不可能になってしまう。 | ||
02年8月 |
その中に短いが一カ所だけ屈曲するあぜ道(写真AD)があり、高さも他と比較して若干盛り上がっている。ルートにも一致し、路盤跡と判断してもよさそうだ。ちょうど大衡村と色麻町との境界にあたり、耕地整理の隙間となった事が幸いしたのかもしれない。 | AD | ||
18年10月 |
さらに痕跡の消えた花川を越えると、鉄道跡は生活道に転用され、一車線ながら利用する車は結構多い。 四竃(写真AJ)一帯は区画整理が完了し、当時と町並みが大きく変ったようだ。駅跡は色麻町役場南西の交差点付近と判断したが、やはり正確な位置の確認は取れなかった。 |
AJ | ||
18年10月 |
AK | その後、町役場を含めた公共施設の集中する一画を抜けると、今度は木伏工業団地内に入り込み、そのまま平行する国道457号線に近づき鳴瀬川を渡る(写真AK)。当時の鉄道橋と現在の道路橋は、若干角度がずれるものの、ほぼ同位置に架橋されている。 | ||
70年頃
名田氏提供 |
左岸側に設けられていた鳴瀬川(写真AL)は、国道交差点東側に建つ小屋付近となる。小屋の正体は不明だが、地下から送電線が立ち上がっている事から、外観にそぐわぬ電力施設なのかも知れない。なお、昭和20年代の空中写真では、駅の東側に延びる謎の側線を確認できる。現在の建具店付近が終点となるため、河川の砂利採取に使用されたとも考えられる。その境界線が、今も田んぼのあぜ道として残されているのは面白い。 | AL | ||
70年頃
名田氏提供 |
AM | 境界線といえば駅の北側、国道の三差路に面するガソリンスタンドの正面も線路跡に沿っている。だが、中新田の市街地に入ると連続した境界線は消え、ルートをたどるのは難しくなる。 市街中心に位置した加美中新田(写真AM)。以前スーパーが営業されていた跡地は、18年現在JA施設に変わっている。 |
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02年08月
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駅を出ると右カーブで向きを変え、国道347号線の北方を東進するが、ここも線路跡は農地に吸収され直接たどることは不可能になっている。途中、多田川右岸に残されていた橋台(写真AN)は、堤防が雑草に覆いつくされてしまったため、その存在の確認が取れない。 | AN | ||
70年頃
名田氏提供 |
AO | しかし右岸側に回ると、川に隣接する用水路の暗渠(写真AO)を見つけることができる。石材を谷積とした橋台の上に、コンクリート桁を載せるやや特殊な構造で、これは同形状を持つ二ノ関地区の橋梁(写真S)が、仙台鉄道の遺構であったことの傍証となりそうだ。 川の先も農地内を通り、そのまま西古川の市街地に入る。跡地は民家や空き地となるが、やはり痕跡はない |
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18年10月 |
最後に陸羽東線沿いの児童公園内を抜け、右急カーブを描くと、開業当初中新田と呼ばれていた終点の西古川(写真AP)に到着する。仙台鉄道は国鉄駅舎の西側から発着していた。さて当駅も昭和20年代の空中写真から、駅への入線とは逆に左へ曲がり、農協倉庫付近に達するルートを読み取ることができる。しかし詳細を知る人を探し出せず、この側線の存在確認は先送りせざるを得ない。 | AP | ||
70年頃
名田氏提供 |
1/50000 | 古川 | [昭19部修] | 吉岡 | [昭19部修] | 仙台 | [大14鉄補] | ||
1/25000 | 富谷 | [昭24資修] | 吉岡 | [昭3測図] | 古川 | [該当無] | 根白石 | [昭3測図] |
中新田 | [昭5鉄補] | 仙台東北部 | [昭21修正] | 仙台西北部 | [昭21修正] | 七ッ森 | [該当無] |