くりはら田園鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート東北 減速進行

 地区:宮城県栗原市  区間:石越~細倉鉱山  軌間:762→1067mm  動力:蒸気・内燃→電気→内燃

終点が鉱山に直結していたことから鉱産品輸送が目的の鉄道と捉えがちだが、細倉鉱山へは開業後20年以上経てから路線を延しており、当初は沿線農産物の出荷と住民輸送を主目的としていた。戦後は輸送力を増強するため改軌・電化を実施し鉱産品輸送が主な収入源となったが、昭和の終りに鉱山が閉鎖されて経営に行き詰った。その後は第三セクターに移行して存続に努めてきたが、残念ながらあまり長くは続かなかった。

略史

大正 10(1921) - 12/ 20  栗原軌道 開業
昭和 17(1942) - 1/ 8  栗原鉄道に改称
12/ 1    〃 全通
30(1955) - 11/ 29  栗原電鉄に改称
39(1964) - 6/ 1  宮城中央交通に改称 (バス部門合併)
44(1969) - 2/ 25  栗原電鉄に改称 (バス部門分離)
63(1988) - 10/ 30    〃 細倉~細倉鉱山  当日を以て廃止
平成 5(1993)- 12/ 15    〃 第三セクター化
7(1995) - 4/ 1  くりはら田園鉄道に改称
19(2007) - 3/ 31      〃 当日を以て廃止

路線図


廃線跡現況

A
22年9月
省線の駅前道路上にあった初代石越(写真A)。廃止後すでに半世紀以上が経過し、現地で駅の詳細をつかむことはできなかった。
開業時の社名が示すように、当初はこの道路に敷設された併用軌道上を、西に向かって一直線に進んでいた。
B
22年9月
今は県道4号線の名称が付き、沿道にはたくさんの店舗、住宅が建ち並ぶ。しかし当時の地図には田んぼの中の一本道といった状況が描かれ、途中に駅が設置されなかったことにも納得がいく。
しばらくして若柳の市街が近づくと線路は道路上から北に外れ(写真B)、ここから先はすべて専用軌道に変わる。
C
22年9月
その直後に置かれていたのが片町(写真C)となるが、既に区画が変わってしまったようで何の痕跡も見つけられない。やむなく旧版地形図を頼りに、おおよその場所を把握するにとどめた。
駅の先は旧市街地に沿った左カーブを描き、その終了地点で新線に合流する。
D
08年5月
上記区間は昭和に入り、専用軌道の新線に置き換わる。これは同時期に栗原鉱山まで延伸され、鉱石輸送を開始したことに関連した変更と思われる。
新線側の二代目石越(写真D)は東北本線に隣接し、荷渡し用の側線も備えていた。廃止後しばらくの期間は駅舎、ホーム等を確認できたものの、22年時点では既に駐車場へと姿を変え、片隅に立てられた石碑が駅跡を示すのみだ。
E
22年9月
しかしホーム端から当時の路盤(写真E)が続き、レールも撤去されず運行当時のままだ。
北に向かって出発するとすぐ左カーブを描いて東北本線から離れ、次のカーブで西に向きを変える。この途中には、それぞれ一箇所ずつコンクリート橋(写真F・G)が残されている。

F
22年9月
G
22年9月

H
22年9月
最初の停車駅荒町(写真H)は、更地となった駅跡の片隅に石碑(写真I)が立てられ、その歴史を後世に伝えている。当路線は全ての駅跡に同様の案内があるため、場所の特定が容易なのはありがたい。
また、踏切部を除きほぼ全線にわたってレールが残置され、同時期に廃止され踏切部のみがレール未撤去となる、日立電鉄、鹿島鉄道と好対照をなしている。

I
22年9月

駅の先もレールを抱えた路盤が続き、県道183号線との踏切西側にはガーダー付きの小橋梁(写真J)を見つける。

J
22年9月

K
22年9月
さらに隣接する県道4号線との交差部からは線路用地がフェンスに囲まれ(写真K)、レール上には車両止も設置されている。ここは保存車両の運転体験等に利用される区間で、終端部には運行用の小屋が三軒建ち、腕木式の信号も見受けられる。さらに小屋の真ん中には小さなコンクリート橋(写真L)が現存する。
この区間で旧線が南側から合流(写真M)するが、旧線跡には既にアパート等が建ち並び、目印となる痕跡は何も残されていない。

L
22年9月
M
22年9月

N
08年5月
主要駅の若柳(写真N)はほぼ廃止時の状態を保ったまま、鉄道公園として整備保存された。車両が多数展示され、レールバイクや運転体験の拠点ともなっている。また道路を挟んだ西側には、博物館「くりでんミュージアム」が併設されている。
O
22年9月
右手のミュージアムを過ぎると、早々に小さなガーダー橋(写真O)が現れる。当然ながら枕木、レールも付属する。
続く水路(写真P)にはなぜか、側溝用と思われるグレーチングが載せられている。用途は判然としないが、もしかしたら地元住民の通路として利用されているのかもしれない。

P
22年9月

その先には4キロの距離標(写真Q)が残され、これも随所で見かけはするが、数字が判読できるものはほんの一握りだ。

Q
22年9月

R
22年9月
さらに小橋梁痕(写真R)が続き、やはりグレーチングでカバーされている。ただ片側はガードレールに塞がれるため、歩行用とは考えずらい。何の目的なのか、疑問が膨らむばかりだ。
また途中では雑草の中に暗渠も数箇所確認できる。
S
08年5月
谷地畑(写真S)は駅施設が撤去され空き地に変わった中、線路だけが姿をとどめることに若干の違和感を伴う。
廃止後しばらく残されていた駅西側の踏切(写真T)もすでに無く、前後の線路上には雑草が目立ち始めている。
この先は農地のど真ん中を走ることから、農業用水路を跨ぐ暗渠(写真U・V・W)が頻繁に現れる。

T
08年5月
U
22年9月

V
22年9月
W
22年9月

X
22年9月
大岡小前(写真X)にも駅跡を示す石碑が設けられるものの、今は雑草と雑木に囲まれつつあり、正面に回り込むことが難しい。また駅名の元となった小学校は既に廃校となり、売り物件の大きな看板が何とも哀愁を誘う。
駅の先も引き続き農地に囲まれるが、東北道の若柳金成インターに近接することから、最近では路線の北側に物流会社等が多数進出している。
Y
22年9月
途中で小さな暗渠(写真Y)を確認しつつ進み、東北新幹線の下をくぐると大岡(写真Z)に到着する。相変わらず駅の痕跡はなく、更地として放置されたままだ。
西側の踏切脇には謎のグレーチングを載せた溝橋(写真AA)が残される。また切断されたレール面は全て古タイヤでカバーされ、当廃線跡の特徴ともなっている。

Z
22年9月
AA
22年9月

AB
22年9月
東北道との交差手前には、レール、枕木が宙に浮いた状態の箇所(写真AB)がある。バラストも残されるが、かなり沈んで大きく隙間が空いている。線路下にサイホン式の水路があるようにも見えるが、その影響なのかは不明。これが東北道を挟んで二箇所連続する。
AC
22年9月
きれいに区画整理の済んだ農地の中を進むと、高圧線の下付近でガーダー付きの小橋梁(写真AC)を久々に見つける。
沢辺(写真AD)は一部のホーム跡と構内線が数本残され、駅前広場と共に当時の雰囲気を今もよく伝えている。ただ残念ながら駅舎はすでに撤去されてしまった。駅の西方にはガーダー橋を含んだ小橋梁(写真AE・AF・AG)が連続する。

AD
22年9月
AE
22年9月

AF
23年9月
AG
22年9月

AH
22年9月
国道4号線の跨線橋(写真AH)は両側に歩道用と思われる開口部が設けれ、当初から線路跡の道路化計画でもあったような構造を持つ。内側に取り付けられたままの架線吊具は、電化時代があったことの証でもある。
AI
23年9月
路盤上は雑草に覆われ、遠望では平坦な田圃に同化するため、かなり近づかないと判別できない。ただ縦横に流れる農業用水を越える必要から、ワンスパンのガーダー橋(写真AI)やコンクリート暗渠(写真AJ)等の構造物が定期的に顔を出し、小さなアクセントを付けている。中には無用となった水路用橋台(写真AK)も認められる。

AJ
22年9月
AK
22年9月

AL
22年9月
初代津久毛(写真AL)はプラスチック工場の裏手にあたり、昭和の中頃まで使われていたはずだが既に痕跡はなく、駅跡を示す石碑も見当たらない。
AM
22年9月
どのような理由かは不明だが、西方に移設された二代目津久毛(写真AM)は、相対式ホームが千鳥に配置される程の大きな構内を抱えていた。今もホームの一部が残り、直結していた駅舎は民家として活用されている。
AN
22年9月
杉橋(写真AN)は駅施設が撤去されたものの、現時点で活用の予定はなさそうだ。
西方を流れる鳥沢川(写真AO)はこれまでとは異なる河川らしい河川で、径間の大きなデッキガーター橋が今も姿をみせている。
次の鳥矢崎(写真AP)も、空き地、線路、石碑の三点を備え、これは22年時点での駅跡標準セットともいえる。

AO
22年9月
AP
22年9月

AQ
08年5月
廃止直後は至る所で露出したレール(写真AQ)を確認できたが、月日の経過とともに雑草に覆い隠される箇所が増えつつある。
AR
08年5月
当地の中心となる栗駒(写真AR)。終着駅を担っていた時期もあり、大きな駅舎と駅前広場を有していた。千鳥配置されたホームは現在も駐車場端に一面が残り、雑草と共存するレールが当時の構内を示している。
AS
22年9月
西に向かう路線は駅の先で左急カーブを描き、三迫川(写真AS)を渡る。右岸の側道を併せて越えた7連のデッキガーダーは当路線最長となるが、橋桁に取り巻く雑草に邪魔され全容を確認することは難しい。なお左岸側の橋脚一基は流失による更新で形状が異なり、他も細かく観察すると微妙な違いがみられて面白い。
AT
22年9月
続く右カーブの途中に、二連のガーダー橋(写真AT)が原形を保っている。しかし橋の下に河川、道路等のあった様子はなく、避溢橋としてつくられた可能性が高い。その特殊性のためなのか、橋脚にはなぜか上下流両側に水切が付く。
国道457号線踏切東に設置されていたのが栗原田町(写真AU)で、やはり石碑と空き地によって、その位置を知ることができる。
駅の西方にはワンスパンのデッキガーダー橋(写真AV)が残され、桜田機械製造所の銘板が付く。レール、枕木が未撤去なのも相変わらずだ。

AU
08年5月
AV
22年9月

AW
22年9月
この先に小さな丘陵が待ち構え、開業当初はトンネル(写真AW)を掘削して通り抜けていた。22年時点で両側共ポータルはしっかりしているが、東側の一部は崩落し、内部にも大きな亀裂が入っている。消滅も時間の問題といった状況だ。
改軌後の新線は切通しに変わり、南側へと移設された。しかしこの区間は全線の中で最悪ともいえるほど藪地化が激しく、ルートを直接たどることは難しい。
AX
08年5月
サミットを越えると二代目尾松(写真AX)に到着する。取り残され錆付いたレール脇の石碑が、駅の存在を示している。北側に旧線の初代駅もあったはずだが、痕跡は何も残されていない。
その後は築堤で徐々に高度を下げる。若干の崩れはあるものの新旧二線分の幅を有し、途中には暗渠(写真AY)、跨線橋跡(写真AZ)が含まれる。

AY
22年9月
AZ
22年9月

BA
22年9月
続くコンクリート橋(写真BA)では北側にも橋台跡が並び、これが旧線用に相当すると思われる。
新線はこの先でゆるやかに屈曲して旧線側に合流し、トンネルを中心とした線路移設はここで終了する。線路が放置されることにより、今もこの合流地点を容易に確認することができる。また近くには20㎞ポストも顔をのぞかせている。

下り勾配を終え定番ともいえる農地内に戻ると、用水路を跨ぐ各種小橋梁跡(BB・BD)も一緒に戻ってくる。同区間内に二連のガーダー橋(写真BC・BE)が二箇所設けられるものの、水路幅は他とあまり変わらず、ややオーバースペック気味にも感じられる。

BB
22年9月
BC
22年9月

BD
22年9月
BE
22年9月

BF
08年5月
鉱石輸送を手掛ける路線の列車交換駅として、大きな構内を持っていた鶯沢(写真BF)。相対式ホームは当鉄道標準ともいうべき千鳥配置で、その長さを際立たせていた。
現在は無用に広がった空き地と石碑が、その駅跡を教えてくれる。
BG
22年9月
駅の西を流れる二迫川(写真BG)には、五連のデッキガーダー橋がやはり枕木レール付きで残されている。
本流となる迫川には一迫川、二迫川、三迫川と順序付けた名称を持つ支流があり、ここはそのうちの一本となる。本流と同様[にはさまがわ]と発音する。
BH
22年9月
川の西側には跨道橋の橋台(写真BH)を見つける。珍しく橋桁が撤去済みで、交差する道路側の高さ制限を解除する目的と読み取れる。
この先は緩やかではあるものの上り勾配が続き、周囲の山々が徐々に迫ってくる。しかし狭い中にも農地が展開され、用水向けのコンクリート橋(写真BI)や水路痕(写真BJ)が時折姿を見せる。距離標も点在するが、こちらは数字を判別できないものが多い。

BI
22年9月
BJ
22年9月

BK
08年5月
林の間を走り抜ける場面が増え始めると、やがて鶯沢工業高校前(写真BK)に到着する。空き地と線路と石碑、ここも駅跡三点セットを見事に備えている。22年時点で駅名の元となった高校は既に廃校となり、駅前商店は緑の公衆電話を残しカーテンが閉めらたままだ。
なお開業当初はまだ高校開校前で、駅名も駒場と称していた。
BL
22年9月
駅構内の西側にも、グレーチングの載せられた溝橋(写真BL)が残されている。
ここからは山沿いにルートを取り、細かく曲線を描きながら高度を上げていく。
途中のコンクリート橋(写真BM)は農業用水路ではなく、自然の沢に向けた用途に変わる。必然的にトンネル(写真BN)も出現し、現在は柵で封鎖されているが内部の状態は良好そうで、秋法隧道と書かれた扁額も健在だ。

BM
22年9月
BN
08年5月

BO
22年9月
国道457号線と並走する区間では、路盤を支える石垣擁壁がコンクリートで補強(写真BO)された様子が目に留まる。用地の拡幅が必要となった改軌工事の際、山肌を削る出費を抑え、ギリギリまで道路側に張り出して対応した結果と考えられる。
BP
93年5月
上り勾配が一段落した地点が細倉(写真BP)で、旅客列車終点としての施設を擁していた。しかし細倉鉱山の閉鎖と前後して営業を取りやめ、駅舎はしばらく民間の工場として活用されていたものの、既にその姿は消えている。
BQ
08年5月
駅を出るとすぐ次の細倉マインパーク前(写真BQ)に到着する。晩年の終点を担い、駅名こそ異なるが細倉廃止と同時に新設された駅で、実質期な二代目と捉えることができる。構内は一面一線の最もシンプルなタイプが採用されていた。
BR
22年9月
さらに上り勾配で進んだ先が終点の細倉鉱山(写真BR)となる。貨物駅のため構内は広く多数の側線があったことは想像に難くないが、現在も細倉金属鉱業として操業中のため立入は困難で、県道脇に設置された石碑から当時を偲ぶより術がない。

保存車両

BS
08年5月
細倉マインパーク前(写真BS)若柳に多数保存されている。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第一分冊/栗原鉄道/柏木璋一 著

参考地形図

1/50000   若柳 [S8修正/S40資修]   岩ヶ崎 [S26応修]
1/25000   若柳 [S56改測]   金成 [S56改測]   岩ヶ崎 [S53改測]

 93年当時の各駅

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2023-10/6更新  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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