金華山軌道を訪ねて
廃止鉄道ノート東北 減速進行

 地区:宮城県石巻市 区間:石巻湊~女川/13.9km  軌間:762mm/単線  動力:馬力→内燃

海産物の集積地渡波と石巻を結ぶ目的で設立された軌道。後年、女川まで線路を延ばし動力も内燃へと格上げしたが、北上川に阻まれて石巻中心部に乗り入れることができず、業績は低迷した。沿線各地も小さな軌道より全国に直通する省線を望む声が大きく、結果的に石巻線が延伸された。軌道側は当然収支が大きく落ち込み、補償を受けたうえで営業を取りやめた。

略史

大正 4(1915) - 7/ 10  牡鹿軌道 開業
13(1924) - 7/ 29  金華山軌道(未開業)に合併
15(1926) - 7/ 15     全通
昭和 14(1939) - 10/ 7  石巻線 女川延伸
10/ 29  金華山軌道 休止
15(1940) - 5/ 3      廃止

路線図


廃線跡現況

A
22年9月
起点の石巻湊(写真A)は北上川を越えることができず、市街地の対岸に設けられた。その跡地は震災により大きく変貌し、二階建の倉庫付近かと推測するにとどまる。
B
22年9月
駅を出ると併用軌道で東に向かうが、一部道路は新たな区画へと切り替えられ、直接たどれない箇所も生じている。

牡鹿軌道の開業初期は工事が間に合わず、暫定の起点(写真B)を設けて営業していた。ここも既に痕跡は無く、実測平面図からおおよその位置をつかむのみだ。
C
22年9月
北上川対岸といえども石巻市街地の一旦を担い、短い距離で次の御所浦(写真C)が続く。ここは地形図に記載がなく、石巻都市計画図により確認するものの、震災後の道路新設や街区変更のため、正確な場所の特定は不可能といわざるを得ない。
D
22年9月
駅の先は専用軌道へと変更され、線路跡に沿ったと思われる道も見つかるが、さすがに転用道路とは考えずらい。しばらく南東に進んだ後、旧東町で北東に向きを変え国道398号線に合流する。同所付近の大門崎(写真D)は駅を印した地図を見つけられず、同名バス停付近かと推測するのみだ。金華山軌道への転換時に廃止された可能性も捨てきれない。
E
22年9月
この先の路線は再度併用軌道に戻り、国道の北端を東進する。当然と言えば当然だが、道路上に当時の面影は一切ない。しばらくして前方に初めての横断歩道橋が現れ、これをくぐった先が伊原津(写真E)となる。
次の東伊原津バス停あたりに設けられた待避線は駅としての記録はなく、列車対向用の信号所だった可能性が高い。
F
23年9月
さらに筒場バス停を過ぎたあたりから道路上を脱し、専用軌道として北側を併走する。この区間も既に道路の拡幅に利用されたと考えられる。
東に向かう国道は、渡波市街地の変則交差点から左に大きくカーブし始める。ここで直進側の金華山道を進むと、牡鹿軌道時代の終点渡波(写真F)に到着する。駅跡はその後拡幅された道路に一部が飲み込まれたようで、終端駅としての面影はどこを探しても見つからない。
G
22年9月
金華山軌道へ移行後の二代目渡波(写真G)は上記変則交差点付近に置かれ、初代~二代目間は女川延長時に廃止されたようだ。
H
22年9月
二代目からの延伸区間も専用軌道が引き継がれ、左カーブで徐々に北へと向きを変える。当時の市街地に沿って走るため駅間距離も短く、渡波小学校前には学校前(写真H)が設けられた。地形図に記載がない駅で、石巻市街全図等で確認する必要がある。
I
22年9月
ここまでは線路跡が国道に転用され、続く左カーブの途中で両者は別れる。その先に続くほんいんじ(写真I)は地形図に駅記号があるものの駅名は付されず、前述の石巻市街全図を参照した。ちなみに近くで同名の寺院を探してみたが23年時点では発見できず、漢字は不明なままだ。
J
22年9月
駅を出ると当路線を廃止に追いやった石巻線(写真J)に合流する。同線は金華山側の路盤を利用したと思われる箇所も多いが、完全一致する区間は限られ、この北側も旧軌道敷を転用したのではなく、西側に隣接して新設されたようだ。
K
22年9月
しばらく両線が並んで進んだのち、JR万石浦駅の東で石巻線から離れ一旦住宅地(写真K)に入りこむ。その中には、未舗装ながら民家への進入路(写真L)に変わった箇所も認められる。

次のとりたち(写真M)は道路脇の駐車場付近に置かれていたようで、やはり漢字が不明な駅だ。

L
22年9月
M
22年9月

N
22年9月
この先は一車線の生活道に転換され、やがて国道398号線に合流(写真N)する。当時は北脇を専用軌道として併走したが、その跡地も国道の拡幅に利用されている。
O
23年9月
道路が万石浦に突き当たって向きを北東に振ると、軌道はその手前でやはり北東に向けてカーブを切る。このカーブ入口に設けられた流留(写真O)は既に痕跡も消え、正確な位置の特定はあきらめた。
P
22年9月
その後国道と交差し、より海岸線に近づくと再度石巻線に合流する。合流点前後に設けられていたと思われる沢田(写真P)は、駅を載せた地図を探せ出せず、JR沢田駅付近かと推測するにとどまる。
ここから先、ルートの確認はかなり難しくなる。国道と海岸線に挟まれていたことは確かだが、道路側はカーブ緩和や拡幅が実施され、そこに省線が割り込んできたことが大きな障害となる。
Q
22年9月
その石巻線が軌道跡を利用したと思われる箇所も多く、両線の切替え時に存在したとされる22日間のオーバーラップ、この期間にどのような運行がなされたのか、まさに不可思議という他ない。

折立(写真Q)は道路が大きく改良された箇所で、全て国道下に隠されてしまったと考えてよさそうだ。同名バス停のやや西方にあたる。
R
22年9月
安住(写真R)は精度の低い旧版地図により、大雑把な位置を把握するのみだ。一部がJR線に掛かっているようでもあり、東側の民家あたりのようでもある。
S
23年9月
駅の先には線路跡と思しき空地が残され、これを利用した電柱(写真S)も立ち並ぶ。以後は国道やJRからやや距離を置き、万石浦の海岸線ギリギリを進む。
T
23年9月
空地はやがて細道(写真T)に変わり、藪地で行き止る。この中にも草に絡まれつつ電柱がどうにか姿を見せ、道しるべとして利用できる。
登り坂で続く軌道跡の勾配がきつくなりはじめた直後、温泉旅館の駐車場内に飛び出る。ここは建物に合わせて盛土された可能性が高い。
U
22年9月
温泉を過ぎると一旦JR線と交差し、北側に位置を変える。その後は、国道398号線となった女川街道の南脇(写真U)を併走する。海岸線との間に土地の余裕が無い区間で、軌道線は現在のJR線にほぼ重なると考えられる。
V
22年9月
浦宿(写真V)では、はっきりとした両者の分離が見られ、駅跡は国道に取り込まれたかその南沿いのどちらかで、目印となる同名バス停も設けられている。
W
22年9月
その後も軌道跡、JR、国道が三つ巴となって東に進むが、既に閉校となった女川第一小学校付近で石巻線が大きく北にそれていく。
ここからは残された二者の並走(写真W)となり、さらに女川の市街入口で軌道側は道路から南へと分離する。震災前はこれを利用した小路が一部につくられていたようだが、既に確認の術はない。
X
22年9月
住宅が密集していた市街地も消滅し、23年時点では盛土により大きな区画にまとめられた更地が広がるのみだ。その一画に含まれる終点女川(写真X)も現地での手掛かりは全くなく、当時の実測平面図を何とか最新図に重ね合わせ、それでもおおよその位置を把握できるに過ぎない。

参考資料

  1. 実測平面図等/宮城県公文書館

参考地形図

1/50000   石巻 [S8要修]
1/25000   石巻 [該当無]   女川 [該当無]   渡波 [該当無]

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制作公開日2023-10/27  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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