秋田市電を訪ねて
廃止鉄道ノート東北 減速進行

 地区:秋田県秋田市  区間:秋田駅前・新大工町~土崎  軌間:1391→1067mm/単線  動力:馬力→電気

県都秋田市と雄物川河口に港を持つ土崎を結ぶ目的で、まず馬車鉄道として開通した。その後電化されたものの秋田市街地まで乗入れることができず、長期に亘り乗客は不便を強いられていた。昭和初期に別途市内線を敷設し営業したが、既設線との接続がないため、わずか10年足らずで廃止された。その後紆余曲折はあったものの両市町の合併を機会に鉄道が市営化され、念願であった秋田駅前~土崎間が全通した。

略史

明治 22(1889) - 7/ 14  秋田馬車鉄道 開業
42(1909) -  秋田軌道に改称
大正 9(1920) -  秋田電気軌道に改称
11(1922) - 1/ 21     改軌・電化
昭和 5(1930) - 8/ 16  秋田電車に譲渡
6(1931) - 12/ 17    市内線 開通
14(1939) - 11/ 7     〃 廃止
16(1941) - 4/ 1  秋田市営化
26(1951) - 2/ 7     市内線 開通
40(1965) - 12/ 31    休止
41(1966) - 3/ 31     当日をもって廃止

路線図


廃線跡現況

A
07年8月
最終的には始発駅となる秋田駅前(写真A)だが、当初は旧市街地の通り抜けが難しく、ここまで線路を敷設することができなかった。戦後、市営化により市内線が直通し、ようやく本来の始発駅が完成したことになる。その乗場は移動を数度繰り返し、廃止時にはバス乗場の横に並んでいた。現在は秋田新幹線開通に伴って近代的な様相に様変りし、当時を偲ぶものは何も見当たらない。
B
07年8月
秋田駅前から延びる広小路通上を西進し、千秋公園入口に設置された公園前(写真B)を過ぎて木内前(写真C)に至る。写真中央の三階建建物が駅名元の木内百貨店で、当時は秋田最大級のデパートとして大変な人気を博していたようだ。
道路はすぐT字交差点に突き当り、軌道はここを左折する。直後に位置したのが産業会館前(写真D)で、前後の木内前と大町二丁目両駅を統合してつくられた、比較的新しい駅だ。

C
07年8月
D
24年5月

E
07年8月
駅を出ると今度は右に曲がり、山王大通へとレールが続く。別名を竿灯通と称し、東北三大祭りの一つ竿灯祭の主会場となる。名実共に秋田市のメインストリートだが、拡幅された道路に併用軌道時代の面影はない。短命に終わった初期市内線の終点、大町二丁目(写真E)はその入口に位置した。
F
24年5月
続く田中町(写真F)は西行車線の大町二丁目バス停付近となる。なお地形図には市内駅が記載されないため、1961年の市街図や当時の写真、さらには下記参考資料を参照して各駅の位置を判断した。
山王十字路で北に向きを変えると県庁前(写真G)表鉄砲町(写真H)と至近で続く。ここまでが市内線と呼ばれた区間で、中央郵便局(写真I)の前を過ぎると道路上から外れ、いわゆる路面電車は終る。同郵便局の北で旧来線に合流し、以降は市外線として農地の中に敷設された専用の軌道上を進む。 G
07年8月

H
24年5月
I
07年8月

J
07年8月
開業時の始発駅新大工町(写真J)は旧市街地に設けられ、本来ここから秋田駅前に達する予定が条件的に折り合わず、結局別ルートに置き換えられた。既に駅の面影はないものの、跡地に寿司店、洋裁校、ふすま紙店等が建ち、それぞれ工場、乗降口、切符売場に相当するとの話は規模の大きさを連想するには十分だ。
K
07年8月
西に発つ路線(写真K)はすぐ北西に向きを変える。痕跡の消えた市街地を進むと、やがて左から市内線が近づき、そのまま合流する。
ここまでの区間は市内線開通により盲腸線と化したため、他に先んじて廃止され、一部が新設車庫の入出庫線にあてられた。
L
07年8月
以降の市外線跡は細かく切り刻まれ、一部が生活道(写真L)に転用される他は県道56号線沿いの店舗等に取り込まれる。なお県道は旧国道7号線に相当する主要道のため、交通量は今なお多い。
M
24年5月
日吉(写真M)は地形図に記されず、1962年の空中写真を最新図に重ね、自動車ディーラーの敷地内、整備工場入口から客用駐車場付近にかけてと読み取った。外旭川(写真N)も同様、今はコンビニ裏手に空き地として放置され、当時の地割がそのまま残される。
駅の北で、開業当初の馬車線(写真O)が側溝に沿って右に別れていく。道路化された新線側と異なり、その跡地には既に複数の建物が建ち並ぶ。

N
24年5月
O
24年5月

P
24年5月
しかし県道72号線との交差後は、狭いながらも道路転換(写真P)され、地元の生活道として活用される。
道なりにしばらく進むと草水津川に突き当たり、その手前で新線に合流となる。この河川、[くそおづ]川と読み、石油を指す臭水[くさみず]から変化したもの。同様の地名が、潟上市に草生土[くそおど](=アスファル)として存在する。共に付近一帯が有数の油田地帯であったことに関連する。
Q
07年8月
直進する新線側は駅の北に建つ野村中田公民館を越え、次いで二階建アパート(写真Q)の横をすり抜け、県道72号線と交差する。同所から舗装路に転換され、一部に二車線区間を含みつつ北へと向かう。
R
07年8月
草生津川の左岸に置かれた八柳(写真R)は、新旧地図の比較により二代目と判断した。河川改修に伴う移設と考えるのが合理的だ。駅の先で馬車線を吸収(写真S)すると、すぐ橋梁を渡る。
昭和27年の地形図には、改修前の屈曲した河川右岸に駅が描かれる。 こちらが初代駅(写真T)で、ちょうど現道路橋の西半分あたりに相当しそうだ。

S
24年5月
T
24年5月

U
07年8月
川を渡ると一旦センターラインが消え、しばらく置いて再び二車線(写真U)に広がる。電化にあたり、火力発電所を建設したのもこの区間。土崎南小学校前に「秋田県最初の火力発電所跡」の標柱が立つものの、鉄道側との関連はないと考えられる。
V
07年8月
交換設備を持つ将軍野(写真V)は、当時のホーム上にあった松の木がいまだにその姿をとどめる。これに邪魔されて道幅は幾分狭めらるが、生活道でもあることから、特に問題視されている気配はない。
W
07年8月
地形図に記載のない自衛隊前(写真W)は、妙に広い片側の歩道が駅跡を示す。この先、軌道跡は再度一車線道路に変わり、広狭を繰り返して続く一本道は地元で電車道と呼ばれている。
X
07年8月
龍神通(写真X)は駅跡のみ道路が広がり、場所の確認が取りやすい。同駅から西は秋田市内線同様の併用軌道が採用され、道路北寄りに沿って走る市電の写真も残される。
Y
07年8月
終点土崎(写真Y)の手前で道路は途切れ、乗客は線路上を駅まで歩くこともあったようだ。駅跡は駐車場に利用され、正面には港中央一丁目のバス停が設けられる。北側の駅舎を抜けるとすぐホームだった、との話を地元で聞いたが、当時の痕跡を見つけることはできなかった

参考資料

  1. 秋田の路面電車/無明舎出版/秋田県立博物館 著
  2. とうほく廃線紀行/無明舎出版

参考地形図

1/50000   秋田 [S28応修/S38修正]
1/25000   秋田西部 [M45測図/S27資修]   秋田東部 [S27資修]

 No141に記帳いただきました。
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最終更新日2024-6/17  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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