熊延鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート九州・沖縄 減速進行

 地区:熊本県熊本市  区間:南熊本〜砥用28.6km  軌間:1067mm単線  動力:蒸気・内燃

熊延と書いて「ゆうえん」と読む。社名も難しいが更にこの由来も難しい、熊は熊本の熊だがさて延とはどこなのか・・・。種を明かせば宮崎県延岡市のことだが、この鉄道沿線に九州を横断して延岡まで線路をつなぐと考えていた人が果してどれだけいたことか。実際には当面の目的地である矢部町にすら到達することが出来ず、熊本市の郊外鉄道としてその使命を全うした。鉄道なき後はバス事業を主体とした熊本バスとして発展を続けている。
廃止時期が昭和の中頃だったこともあり、この鉄道の現役時代を知る人は多く、まだまだ聞取り調査は各所で可能だ。また自転車道への転換もなく、鉄道の遺跡、痕跡は豊富で、市街地での跡地消滅、郊外での道路転用、山間部での自然荒廃など廃線跡探索の醍醐味がすべて揃っている。

略史

大正 4(1915) - 4/ 6  御船鉄道 開業
昭和 2(1927) - 1/  熊延鉄道に社名変更
39(1964) - 3/ 31      当日を以て廃止

路線図



廃線跡現況

南熊本駅跡 A 開業当初、春竹と称した南熊本(A参照)を出発した熊延鉄道は、左に急カーブを描き豊肥本線と分れる。JR線に平行する側道との踏切跡が、今も小さなクランク状となって残る。

カーブで向きを変えた後は県道104号線の東奥を南下するが、跡地は大規模店舗やマンション等に変り、跡地を直接たどることは難しい。
05年3月
土地の境界線すら消えた一画を抜けると、その先から狭い一車線の生活道(B参照)として再利用され始める。

この道はマンション等で一時的に途切れ、またクランク状となることもあるが、当時のルートに沿って続いていく。道幅は狭く、鉄道跡地をそのまま再利用したとも思えないが、雰囲気は十分味わえる。
B
05年3月
C 道路上を進み、託麻中学の西縁を通り、さらに田迎小学校の東脇を通過する。ここに当時の橋台(C参照)が埋め込まれ、その角度から、小学校の敷地が鉄道用地に食込んでいることを確認することもできる。

なおこの道路を含めて、側溝ではなく中央に排水路のある生活道が多いのも、この地区の特徴のようだ。
17年5月
田迎(D参照)は参考地形図から判断して、国道57号線に半分飲込まれてしまった様子。国道北沿いの民家が駅跡に一番近いと思われるが、痕跡は認められない。

国道を越えると再び一車線の舗装路となる。しばらく行くと工場に行く手を阻まれが、工場横に車両通行不能な狭い道が続き、鉄道用地と換地された可能性が高い。工場を過ぎると自動車通行可能な舗装路として続いていくが、県道104号と平行する手前で民家に突き当たって終了する。
D
05年3月
E 一旦県道に接近した路線はそのまま道路と並走していた様で、道路沿いに建つスーパーの入居するマンションビルが線路跡に合致する(E参照)

この付近に良町[ややまち]があったはずだが、現地で確認は取れなかった。
05年3月
スーパーを過ぎると県道から離れ、再び生活道とし利用されはじめる。

しばらくは新興の住宅内を走り、その先は農地の中に未舗装のあぜ道として続いていく。途中に用水路を渡る橋台(F参照)が残り、グレーチングが載せられた簡易橋が造られている。
F
05年3月
G さらに数軒の民家を抜け、田迎公園の南を流れる用水沿いに進むと、公園の東端から田圃内に入る。ここにほんの少しだけ鉄道の路盤(G参照)が残されている。

その後は住宅団地等に開発され当時の痕跡は消え失せているが、ほぼ直線で国道266号沿いに建つ総合病院に向って延びていた様だ。
この病院手前で小さく右に曲り、国道に吸収される。ここからの国道は線路跡を拡幅転用して建設され、四車線の広い道路となったため、残念ながら当時の痕跡を探し出すことはほぼ不可能に近い。
17年5月
国道上をしばらく進み、小さな川を越えた付近が中の瀬となる。今では場所の特定も難しいが、沿道の食品会社付近またはその前後と推測する。続いて加瀬川を渡るが、河川改修により堤防はかさ上げを伴う補強がなされている。

この堤防上から国道用として架橋された中の瀬橋の下を覗くと、鉄道橋脚の基礎部分(H参照)が、H型の鋼材断面をむき出したまま水面からぽつんと顔を出している。ここから判断すると熊延鉄道は現国道のほぼ真ん中あたりを走っていたことになる。
H
05年3月
I 線路跡を利用した国道はやがて266号線から445号線へと数字を変え、次駅のもその国道によって完全に上書きされてしまった。駅の位置は下上島バス停付近と推測される。

南に向かう路線は駅の先で国道から東に離れ(I参照)、今度は未舗装路として農地の中を進んでいく。道路は一旦駐車場に遮られるが、その先に当時の鉄橋(J参照)が残されている。
都市近郊でも橋脚、橋台は比較的よく残っているが、橋桁は珍しく、貴重な存在となっている。
05年3月

J 橋を渡ると線路跡は生活道に転換され、その突当りの河川に橋脚の基礎部分(K参照)が顔を出していたが、さらに近年は雑草が刈り取られ、対岸の橋台も確認が可能になっている。 K
05年3月
05年3月

その後数軒の民家を抜けると上島(L参照)に到着する。当時の写真を見ると、駅跡に建つ2階建ての白い事務所ビルの北側に、かなり広い構内を持っていたことがわかる。

駅の東方は河川脇のあぜ道として続き、やがて国道445号に吸収されてしまう。国道の南側を並んで流れる御船川も河川改修により堤防位置が変り、それに合わせて国道が建設されたため、熊延鉄道はこの両者に区別無く取込まれたと考えるのが自然なようだ。続く六嘉も位置の確定は難しい。
L
17年5月
M 国道上を進み、九州自動車道の御船ICを越え、やはり国道に飲み込まれた小坂村(L参照)を過ぎると、地元で汽車みちと呼ばれる二車線道路が右に分岐する。もちろんこの道が鉄道のルートに一致する。
05年3月
御船(M参照)も汽車みち上で、駅前通角地の散髪屋が当時からの駅前商店と推測される。 N
05年3月
O 更に南南東に向かう道路は数百メートル先で国道443号と交差したのち、右カーブを描く。途中の河川橋(O参照)は鉄道のプレートガーダーを再利用し、拡幅分にコンクリート桁を追加している。

橋の南に辺田見が設けられ、動物病院の対面にたばこ店兼用の駅舎、その北側にカーブホームが続いていたと聞いた。
19年4月
駅の先で汽車みちは終了し、御船川橋梁付近で再び国道443号線に合流する。

南西に向きを変えた路線は、短い上り勾配で妙見トンネル(P参照)を目指す。ここは鉄道時代のものが拡張され、今は道路トンネルとして活用されている。
P
05年3月
Q トンネルを抜け緩やかな勾配を下り、電線工場前を過ぎると、熊延鉄道はその進路を一旦国道上から北に外す。

途中の小さな用水に、橋台(Q参照)を見つけることも出来る。
18年4月
下早川(R参照)は国道に面した元コンビニの裏手で、二階建民家から東側の玉ねぎ畑にかけてが駅跡に相当し、畑側に改札があったと聞いた。

隣接する郵便局を過ぎると線路跡は国道上に戻るが、数百メートル先で再び左へ逸れていく。ここからは区画整理された田圃の中へ消えたのち、次いで一車線の生活道として姿を現す。
その後ゆるやかな右カーブを終え、竜野川を渡ると道幅は二車線に広がる。ただ近くに整備された国道が平行するためか、交通量は極めて少ない。
R
18年4月
S 次の浅井(S参照)もこの道路上で、駅跡を示す標柱が立てられていたが、残念ながら既に朽ちて倒れ、文字も判別不能となってしまった。短い駅前通りもあり入口角に酒屋が店を構えるが、これが当時の駅前商店と考える。

なお道路奥に隠されていた貴重な駅舎は、道路拡幅工事のおかげで、今その全容を確認することが可能になっている。
05年3月
道なりに進むと、やがて左手から県道152号線が合流し、そのまま甲佐高校に突き当たる。道路は左に迂回するが鉄道側は校内へと直進し、南門から抜け出たのち西から近づいてきた国道443号に吸収される。

国道に変わってすぐの地点に、熊本バスの車庫が広がる。ここが一時的に終着駅でもあった甲佐(T参照)で、車庫の南側に隣接する道路が鉄道在りし頃の駅前通りとなる。この通りを挟んだ反対角にあった駅舎は、既に民家に変っている。
T
05年3月
U 車庫裏の運送店に話を伺い、昔はたばこ屋だったが今は商売替えしたこと、当時はうどん屋などもありにぎやかだったこと、駅構内はかなり広く道路の両脇に大きく広がり、長いホームがバス車庫の対面にあったこと、等々を教えてもらった。
車庫の北側に案内標柱も立つが、やはり劣化が激しく文字を読みとることは難しい。

甲佐市街を過ぎ国道が左カーブを描く地点で、鉄道側は右に緩く曲がり両者は別れる。その先で緑川を越えるが、河川整備の影響からか橋梁の痕跡はまったく見あたらない。ただその手前、人工用水の大井手川には橋台が残され、右岸側は工場に、また左岸側(U参照)は民家に取込まれ、上部にはブロック塀が積み上げられている。
05年3月
南甲佐は大井手川と緑川に挟まれた箇所で、民家に利用されたと思われるが、現地で確認は取れなかった。

その緑川の右岸から対岸を眺めると、かなり遠くに小さな集落が見え、築堤跡(V参照)も望むことが出来る。しかし緑川橋梁から続く、集落までの大きなS字カーブの築堤はすべて削られ、圃場整備により今ではルートさえ判然としない。
V
05年3月
W 熊延鉄道はここから地形の険しい山あいに挑み、まずは小川島集落の裏手を上り勾配で駈け上がる。

ここは当時の路盤(W参照)がそのまま残り、路面は荒れているものの何とか足を踏み入れることは可能で、一部にはバラストも確認することが出来る。以前はよく手入れしていたが、最近は放置したままとの話も耳にした。
17年5月
左カーブが終わり墓地の横を抜けると、地元の生活道と鋭角に交差する。

この先は作業道(X参照)として一部区間で車の通行も可能だったが、所有者の変更後は背丈以上の雑草が茂り、残念ながら現在は跡地をたどることは難しくなっている。
X
05年3月
Y 再び路盤が姿を現わすのは国道443号との交差後で、生活道に転換されて南東方向に向かう。しばらく進むと未舗装路として左に分かれ、こちら側に六角トンネル(Y参照)への案内標識も立てられている。

その断面はなんともユニークで、おもわず唸ってしまう。貴重な存在だ。ただ掘削された隧道ではなく、落石防御目的の人工的な洞門とも考えられるが、上部の隙間が広すぎてあまり役には立ちそうもない。
05年3月
津留川右岸の山沿いを進むルートは、佐俣阿蘇神社付近で左岸へと渡る。この役目を果したのが第一津留川橋梁(Z参照)で、神社境内より望むと橋脚の一部がほんのすこしだけ顔をのぞかせている。運行当時はすべての橋桁が見渡せていたとの話も聞いた。

現国道と旧道との合流地点付近から津留川に下ると、丸い巨大な橋脚と橋台を目の当りにすることができる。
Z
05年3月
AA 鉄橋から東に続く路盤(AA参照)も一部残され、そのまま佐俣の湯を抜けて国道218号の北を並走する。

佐俣(AB参照)は国道からの取付け道路を斜めに入った場所に位置し、今でも大きな空地を残している。取付け道路の脇に駅舎、左手に農協倉庫があり、こちらは崩落寸前ながらも現存する。
05年3月
ホーム跡でもないかと探してみたが、確実な痕跡は見つからない。地元の人の記憶によれば石灰工場も近くにあり、引込線も敷設されていたそうだ。

駅を過ぎ右カーブを描きながら、国道と交差する。当時は鉄道が下、道路が上の立体交差だったが、現状からはその高低差が認められない。不思議に思って調べると、鉄道側が大きく埋め立てられたようだ。南側の縫製工場もその上に建てられている。
AB
05年3月
AC 鉄道に並行する旧道側を進むと、すぐ都留川に架橋された馬門橋を渡る。昭和11年建造で現在は自動車通行止だが、この西隣に鉄道の橋脚を認めることが出来る。これが第二都留川橋梁(AC参照)となる。

・・・現国道の北側にある同名の馬門橋も一見の価値がある・・

津留川はこの先で大きく蛇行するため、川に沿って延びる熊延鉄道は、やむなく何度も横切らざるを得ない。
05年3月
続く第三津留川橋梁(AD参照)は旧道沿いに設けられ、川沿いに降りて間近で見られた時期もあったが、今は東方の砥用西部農免農道上から望むことしかできない。

第四橋梁(AE参照)、第五橋梁(AF参照)も以前は橋脚を確認できたが、現在、第四橋梁は位置すら判然とせず、第五橋梁も樹木の間から垣間見るのみで、直近まで近づくことは不可能になってしまった。
AD
05年3月

第四津留川橋梁跡 AE AF 第五津留川橋梁跡
05年3月




05年3月
AG 連続した橋を越えた後、路盤上に並ぶ倉庫を過ぎると釈迦院(AG参照)に到着する。ホーム跡の一部が顔をのぞかせ、駅跡の民家には駅名標も掲げられている。
05年3月
甲佐から続いた険しい地形もかなり穏やかになり、駅の先は線路跡が舗装道路として供用され始める。また道路沿いには地域の遺産でもある石橋(AH参照)が点在し、目を楽しませてくれる。 AH
05年3月
AI 最後となる第六津留川橋梁(AI参照)はやや短いガーダー橋で、当時の姿をとどめながら地元の生活道として活用されている。橋名は下永富橋と変り、竣工は昭和56年3月となっている。

橋を渡ったのち集合住宅を突っ切り、しばらく進むと「ふれあいプラザ」にぶつかる。ここが熊延鉄道の終点砥用(AJ参照)で、長く木造の駅舎が残され貴重な存在だったが、残念ながら既に撤去されてしまった。
05年3月
当時の駅構内はこの駅舎の南側に大きく広がっており、ふれあいプラザやその横につながる工場も一部を占めていた。また大きな製材所もあり、当然ながら貨物運搬に供する側線があったことは容易に想像できる。

熊延の延・・・つまり延岡のことだが、この砥用に立って線路の行く先を見つめると、延岡は手の届かないまさに遙か彼方の地に思えてくる。
AJ
05年3月

参考資料


参考地形図

1/50000   熊本 [S26応修]   御船 [S26応修]   砥用 [S29応修]
1/25000   熊本 [S32三修]   宇土 [S32資修]   御船 [S34資修]   甲佐 [該当無]

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最終更新2019-5/22 
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