山鹿温泉鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート九州・沖縄 減速進行

 地区:熊本県山鹿市  区間:植木〜山鹿/20.3km  軌間:1067mm/単線  動力:蒸気→内燃併用

官設鉄道から取り残された山鹿地区。温泉地としての地位を確固とすべく、地元資本により連絡鉄道が建設された。ただ鹿児島本線との接続部が災害に弱いため築堤の崩壊が数次に亘り、これが原因で休止に追い込まれ、そのまま廃止に至ってしまった。

路線図

略史



大正 6(1917) - 12/ 22  鹿本鉄道 開業
昭和 27(1952) - 6/ 4  山鹿温泉鉄道に社名変更
35(1960) - 12/ 1     休止
40(1965) - 2/ 4     廃止

廃線跡現況

植木駅跡 A JRの植木(写真A)は電化に際して改良され、共同使用していた山鹿温泉鉄道の面影は発見できない。当時は鹿児島本線の北側に平行するホームから出発し、直通運転も実施されていた。
02年6月
駅の先から線路跡を転用した自転車専用道が始まり、「ゆうかファミリーロード」の名がつく。ゆうかは熊本の熊、山鹿の鹿を合わせた熊鹿からの命名だ。
北上する当線と共に南下するJRの旧線側も同様の自転車道となり、両者の接続点には、休憩所を兼ねた公園(写真B)がつくられる。
B
02年6月
C 左カーブで北に向いた路線は築堤(写真C)で一気に高度を上げ、植木町の市街を目指すが、この築堤が崩落を繰り返し鉄道廃止の最大の要因となった。
築堤の先は短いトンネルに入るが、既に埋め戻されているため、自転車道には勾配のきつい迂回ルートが設定されている。
02年6月
植木町(写真D)には長く駅舎が残され目印となっていたが、今は跡地に新興の住宅が数軒建ち並ぶ。駅構内に沿って、自転車道も若干屈曲する。 D
02年6月
E 駅の先から長い下り勾配が始まり、両側を竹林で囲まれたやや寂しい区間(写真E)も通過する。
18年4月
一ツ木(写真F)は、昭和26年の地形図からおおよその位置を確認するにとどまる。枕木を積み重ねたホームとの情報もあり、痕跡は無いものと思われる。なお現在は近くに団地が造成されたが、当時は周囲に集落のない孤立した駅だった。 F
02年6月
G
24年5月
次の今古閑(写真G)は地形図に記載が無く、駅の存在すら忘れられたかのようだ。距離計測でも判然とせず痕跡も認められないため、やむなく近くに同名集落があること、道路に接すること、平坦地を確保できること、等の条件から場所を推測したに過ぎない。
H
18年4月
山本橋(写真H)付近は山裾に沿って走り、県道3号線との交差部にあった駅跡は休憩所兼用の公園に変わる。
I さらに、近年では珍しいほどの蛇行を繰り返す豊田川に沿って北上し、九州道をくぐった先が今藤(写真I)となる。それらしき広がりが見られるものの、旧版地形図ではその東側に駅が記されている。
18年4月
J
19年4月
駅の先にある小さな水路橋(写真J)には、石積の橋台が残される。続く豊田川も石積橋台のプレートガーダー橋(写真K)で、そのリベットの多さから鉄道用をそのまま再利用したと考えてよさそうだ。
自転車道は徐々に向きを東に変え、国道3号線との交差点東方には肥後豊田(写真L)が設けられていた。ここは当時のホーム跡を確認することができる。

K L
19年4月 02年6月

M
18年4月
駅の先、4本のアンカーボルトを埋め込んだコンクリート台座(写真M)を見つける。信号用の可能性が高そうだ。 その後しばらく県道53号線と並走したのち、植木北中学校付近で南から北へとその位置を変える。
N
18年4月
県道沿いの舟島(写真N)は、ややラフな旧版地形図から正確な場所を絞り込むことは難しく、聞取り調査も不発に終わったため、おおよその位置を把握したにとどまる。
続く伊知坊(写真O)は公民館に利用され、既に痕跡はない。駅の北、合志川支流にサイクリングロード用の橋(写真P)が架かり、桁はコンクリートに変えられるものの、橋台、橋脚は特徴のある石積が残されている。

O
02年6月
P
19年4月

Q
02年6月
平島温泉(写真Q)は休憩所併設の公園となり、駅跡の判別は容易で、一部にホーム跡も残される。駅のやや東、合志川沿いに温泉宿が建ち並び、以前は駅名と同じ平島温泉を名乗っていたが、町村合併によるものか今は植木温泉と名称を変えている。
次の山城(写真R)は特にこれといった目印はない。駅北側の小橋梁(写真S)は自転車道向けに再用され、新たなコンクリート桁の下から当時の石積橋台が顔をのぞかせる。
橋を渡り道なりに進むと、宮原(写真T)に到着する。貨物側線などを備えた広い構内の面影はうかがえず、駅跡を示す標識もすでに撤去されてしまった。ただ自転車道沿いにはホーム跡らしき石垣も見受けられる。
R
23年3月

S
23年3月
T
02年6月

U
18年4月
次の奥永(写真U)は痕跡どころか、駅のあった雰囲気すら失われている。
北上を続ける路線は、やがて菊池川を越えるための築堤を駆け上がる。ここに分田(写真V)が置かれ、地上の駅舎とは階段で結ばれていた。盛土が撤去された跡地はサイクリングロードの休憩所となるが、さらに南側に休憩所が二箇所連続するという、なんとも贅沢で理解に苦しむ配置ではある。なお菊池川橋梁(写真W)は既に自転車専用橋への架け替えが済んでいる。

V
18年4月
W
02年6月

X
02年6月

来民(写真W)は主要駅として大きな構内を有し、利用客も多かった。その広い跡地を活かし、今は録田団地と称する公営の住宅地に再利用されている。
Y
02年6月
徐々に西へと向きを変える路線は、付近に民家のない白石(写真X)、県道301号線との交差部にあった肥後大道(写真Y)と、各駅を順に刻む。ただしこの両駅間は自転車道の中で唯一線路敷を外れる区間で、本来の鉄道ルートは北側の病院内をかすめるように走っていた。
この先は県道と平行しつつ、その南奥を西へと向かう。途中の小さな跨道橋(写真Z)では、鉄道時代の石積橋台が今も現役で頑張っている。

Z
23年3月
AA
23年3月

AB
02年6月
自転車道最後の休憩所を過ぎると、終点山鹿(写真AA)に到着する。当時の駅舎、ホームを残したまま長く自動車教習所として運営されていたが、現在は細かく分割された住宅地に変わり、終着駅の雰囲気はどこにも残されていない。
AC
02年6月
正面に飾られていたSLのモニュメント(写真AB)も消えたため、入口横の二階建ビルと牛乳販売店により、かろうじて駅跡を特定できるといった状況だ。なお軌を一にしてきた「ゆうかファミリーロード」は、市街地の西はずれにある鍋田橋が終了地点となる。

-保存-

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18年4月
菊池川橋梁で使用されたトラス橋(写真AC)が「水辺プラザかもと」に展示保存されている。九州鉄道から譲受したもので、九州最古の鉄道トラス橋として歴史的な価値が高い。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻557号/山鹿温泉鉄道の廃線跡を歩く/中村良成著
  2. RM LIBRARY57/山鹿温泉鉄道/田尻弘行 著/ネコ・パブリッシング・・・沿革と現役時代の紹介

参考地形図

1/50000   玉名 [S26応修]   山鹿 [S26応修]
1/25000   植木 [S32三修]   来民 [該当無]   山鹿 [該当無]

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最終更新2024-7/25  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*  
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